限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

惑鴻醸危:(第52回目)『あくどい整形外科医』

2016-03-27 23:26:28 | 日記
私の近所に腕が下手にも拘らず、暴利をむさぼるあくどい整形外科医がいる。仮にA氏となづけておこう。

A氏は年中仕事をしている訳ではなく、時たま思い出したように仕事に精を出して、短期間にばりばりと手術をする。その手術の腕は極めてへたくそで素人の私がみても、どうも手術するたびに不細工になる。

それにも拘らず、へらず口だけは達者で「やあ、立派になりましたよ。見てください、すらりとした見事な形になったでしょう!」そうすると本人は黙っているのだが、付き添いの人はまんまとその口車に載せられて「先生の腕は見事ですね。これでまた来年まで美しい姿を保ってられますね~。全く感謝、感謝です!」と手離しでよろこぶ。

私から言わせれば、「ふ~ん、元の姿より随分と不格好になったので、本来なら被害請求をしなければいけないはずなのに!」と思うのだが、依頼者は上機嫌でたんまりと手術のお礼を支払う。A氏は、世間での受けはよく、商売は極めて繁昌している。その結果、毎年、何億という金を稼ぐ。次々と出来そこないの手術をしていても誰からも不満がでない。

今まで我慢していたが、このような悪徳外科医がのさばらないよう、この際、思い切って、あくどい外科医の名前を明かそう!それは、市の園芸課から依頼を受けた街路樹や公園の木々の伐採業者である!

私は以前から不満に思っているのが、日本の街路樹や公園の樹木の不必要な、否、それどころが害悪をもたらす毎年の伐採である。アルバイトが下手な伐採をするので、年を追って樹木の形が不細工になっていく。本当なら、そのような不適切な破壊作業に対して損害賠償を請求しないといけないはずなのに、市の公園課は業者に少なからぬ額の作業費を支払う。これでは、強盗に襲われ、暴行された乙女が強盗犯に「傷ものにしてくれてありがとう!」と、たんまりお礼をはずむのと変わりがないではないか。

この全ての原因をたどっていくと、日本では、一度慣例となると合理的理由がなくなっても、慣例自体を見直すことがない、という思想硬直性に行きつく。それは樹木の伐採だけでなく、食事作法などにも見られる。



以前、高層ビルの最上階で、眼下に美しい港が見えるレストランに外人の一行を案内したことがあった。細長い部屋の長手方向の壁はすべて窓であった。私は当然、外の景色が見える場所を客人である外人にと思ったのだが、年長者は、座敷の入口の方が下手になるのだから、窓側にお客さんを坐らせるべきだと主張した。少し押し問答したのだが、年長者は頑として譲らなかった。それで仕方ないが、外人に窓の席に坐ってもらった。食事の間中、私達は夕陽が映える美しい港の風景を楽しむことが出来たのだが、外人は背中に眼がついていればともかく、味気ない壁を見続けていたのだった。。。

部屋の入口の近い方にホストが坐り、客人が入口から遠い方に座るというのは、室町時代の部屋の構造が、障子を開けると、客人から庭が見える場所を占めることができるということから来た習慣であった。つまり、部屋の入口側というのは、美しい庭を背にして坐り、庭を見ることができないが故にホストの場所となった訳である。

ところが、近代のビルでは構造中、窓と反対側に入口があるので、入口からは外の風景が見える。外が殺風景なビルであれば、わざわざ見たいとは思わないが、美しい風景であれば、当然のことながら部屋の構造上、客人に窓の外が見える場所を譲るのが日本が得意とする「おもてなし」の心ではないだろうか?

日本では、残念ながらこういった点を合理的基準で考えようとはせず、たた単に慣例に沿って行っていればそれで文句がなかろう、という形式主義が至るところに見られる。この形式主義の弊害は単に、窓の外の景色や樹木の枝ぶりのような軽度のものだけではなく、重度、超重度のものまで数えれば限りなくある。このような事態に遭遇する都度、これは、日本文化の宿痾であるので、結果は予想される。そして予想通りの結果に、私の心はいつもブルーになる。

【参照ブログ】
 百論簇出:(第172回目)『還暦おじさんの東欧旅行(その7・最終回)』
コメント (1)
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