限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第248回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その91)』

2016-03-24 22:12:32 | 日記
前回

【190.引決 】P.3709、AD417年

『引決』とは「責任を取って自殺をすること」を言う。似た単語に『引責』があるが、命を懸けてまで責任を取るのが『引決』である。

辞海(1978年版)によると『引決』は『引訣』とも書くという。また、単に『引決』の2字ではなく、『引決自裁』の4文字を使うこともあるともいう。例えば、司馬遷の『報任少卿書』には『不能引決自裁、在塵埃之中』という文句が見える。ただ、『引決自裁』はこの個所以外にはほとんど使用例は見つからない。また、『自裁』の代わりに『自財』とも書くこともあるという。

二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)でこれら4つの単語(引決、引訣、自裁、自財)を検索すると次のようになる。『引決』は漢書から使われだしたということが分かる。ひょっとして司馬遷の『報任少卿書』が初出なのかもしれない。ただ、近世になると『自裁』が使われるようになったことが分かる。



(ちなみに、今回から頻度数の集計において、本文だけを対象とし注を除外した。従来の集計においては、ほとんどの場合、注まで含めて頻度集計をしたが、今後は注を除く方式に改める。)

さて、『引決』が登場する場面を見よう。五胡十六国時代は、昨日までの覇者が今日は敗者となる、そんな転変きわまりない時代だった。後秦の三代目、姚泓が劉裕配下の王鎮悪に攻められ逃げ場がなくなった時のことである。

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王鎮悪が平朔門から、長安城に入った。姚泓と姚裕らが、数百騎と共に逃げて石橋に向かった。東平公の姚讚が姚泓が敗れたことを聞くと、手勢の兵を引連れて合流した。それを知った兵士たちはちりぢりに逃げ去ってしまった。また、頼りにしていた胡翼度が劉裕に降伏したので、姚泓も降伏しようした。その時、姚泓の息子で、当時 11歳の姚仏念が姚泓に言った「晋人は情け知らずな連中ですから、降伏しても、きっと殺されてしまうでしょう。いっそのこと自殺する方がましです!」姚泓は呆然として言葉を失った。姚仏念はさっさと宮殿の塀をよじ登って、投身自殺して果てた。姚泓は妻子と多くの臣下を率いて王鎮悪の陣地まで出向いて降伏した。

鎮悪入自平朔門、泓与姚裕等数百騎逃奔石橋。東平公讚聞泓敗、引兵赴之、衆皆潰去;胡翼度降於太尉裕。泓将出降、其子仏念、年十一、言於泓曰:「晋人将逞其欲、雖降必不免、不如引決。」泓憮然不応。仏念登宮牆自投而死。癸亥、泓将妻子、群臣詣鎮悪塁門請降。
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国が滅んだというのに、一国の帝王であった姚泓が命を惜しみ、万一の生存の僥倖を当てにして降伏した。その一方で、王子であった姚仏念は待ち構える悲惨な運命を見越して、さっさと投身自殺した。人の志操は危機の時に隠しようもなく現れる。

続く。。。
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