現在では儒教あるいは儒学と言えば、『古臭い、封建主義的』との形容詞が必ずつくであろう。つまり、その言説に何ら感動するものがないというのが一般の理解である。ところが、時空間を越えて眺めて見ると儒教が非常に輝いていた時代があったことに気づく。それは前漢から後漢(BC206年~AD220年)にかけての時代だ。とりわけ武帝の時代は、秦による統一国家を引き継いだ漢帝国が国力を充実させていたときにあたる。若き皇帝の武帝は当時の宮廷や政界に渦巻いていた陰湿な空気を一掃したかったのだ。というのは、当時の実質的最高権力者であった祖母の竇太后は老荘(黄老と称した)に熱中して極めてイージーゴーイングな政治を行っていた、と言う風に武帝にはうつった。
そこで、五経といわれる極めてドグマチック(教条主義的)な儒教を学んだ人達を官吏として採用することで、官僚システム全体の刷新、ひいては政治変革を狙った。つまり数年ではなく10年単位での政治変革をしかけた、極めて長期的なプランを実行にうつした。
その目論見どおり、前漢の時代には、儒が目指す理想を実現しようとして、儒が盛んに学習された。そして儒の理想を学んだ人達が、そのまま政治の現場でその理想を実現しようと汗水を流した点が日本の江戸時代と大いに異なる。この事を知るためには、漢書、特に列伝41の『雋疏于薛平彭伝』から列伝59の『循吏伝』を読むと、極めて有能かつ清廉な官吏が大量に輩出したことが分かるであろう。(ただ、その直後の列伝60には『酷吏伝』というタイトルそのものの伝記があるのは中国ならではだ。中国を単眼的な見方で評価すると誤るという好例だ。)
尚、漢書は現在ではありがたいことに『ちくま学芸文庫』(全8巻)で現代語訳で読むことができる。
【出典】Photographed by (C)Tomo.Yun
さて、理想の儒者の一人に韋賢という人がいる。列伝43の韋賢伝にはその先祖から始まり、当人、それと四人の息子達、いづれも学者としての才能をもち、なおかつ政治家として立派な業績を挙げたと記されている。
その韋賢伝に載せられている諺に
『遺子黄金滿籯、不如一經』(子に黄金、万籯をのこすは、一経にしかず)
というのがある。籯(えい)という字は竹籠ということなので、多分砂金を一杯詰め込んだ40センチ四方ぐらいの入れ物だと想像する。
要は、『子孫には財産など残してもしかたない、教育をつけるのが一番だ』という意味だ。こういうと教育奨励のように受け取られるかもしれないが、中国の歴史で官僚が安全に大金持ちになる最善の道であったことを考えると、韋賢には責任はないものの、『韋賢よ、お前もか!』と叫びたくならないだろうか?
そこで、五経といわれる極めてドグマチック(教条主義的)な儒教を学んだ人達を官吏として採用することで、官僚システム全体の刷新、ひいては政治変革を狙った。つまり数年ではなく10年単位での政治変革をしかけた、極めて長期的なプランを実行にうつした。
その目論見どおり、前漢の時代には、儒が目指す理想を実現しようとして、儒が盛んに学習された。そして儒の理想を学んだ人達が、そのまま政治の現場でその理想を実現しようと汗水を流した点が日本の江戸時代と大いに異なる。この事を知るためには、漢書、特に列伝41の『雋疏于薛平彭伝』から列伝59の『循吏伝』を読むと、極めて有能かつ清廉な官吏が大量に輩出したことが分かるであろう。(ただ、その直後の列伝60には『酷吏伝』というタイトルそのものの伝記があるのは中国ならではだ。中国を単眼的な見方で評価すると誤るという好例だ。)
尚、漢書は現在ではありがたいことに『ちくま学芸文庫』(全8巻)で現代語訳で読むことができる。
【出典】Photographed by (C)Tomo.Yun
さて、理想の儒者の一人に韋賢という人がいる。列伝43の韋賢伝にはその先祖から始まり、当人、それと四人の息子達、いづれも学者としての才能をもち、なおかつ政治家として立派な業績を挙げたと記されている。
その韋賢伝に載せられている諺に
『遺子黄金滿籯、不如一經』(子に黄金、万籯をのこすは、一経にしかず)
というのがある。籯(えい)という字は竹籠ということなので、多分砂金を一杯詰め込んだ40センチ四方ぐらいの入れ物だと想像する。
要は、『子孫には財産など残してもしかたない、教育をつけるのが一番だ』という意味だ。こういうと教育奨励のように受け取られるかもしれないが、中国の歴史で官僚が安全に大金持ちになる最善の道であったことを考えると、韋賢には責任はないものの、『韋賢よ、お前もか!』と叫びたくならないだろうか?