限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第5回目)『教養=二重写しの世界観の思いやり』

2009-06-14 14:29:10 | 日記
『教養は、英語やフランス語では culture といい、耕すという原義がある。またドイツ語ではBildungといい形成する意味合いをもつ。一方、国語辞典によると、教養とは、単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識をいう。』と説明する人がよくいる。

いつも思うのだが、こういった表面的・観念的な説明で果たして教養というものが本当に理解できるのだろうか?字句の定義としては正しいかもしれないが、空疎で魂に訴えるものが私にはまったく感じられない。



私も長らく教養とはなにか?と考えづづけ、本も読んできた。しかしいつも決まって冒頭の様な文言にはぐらかされ、苛立ちを覚えてきた。最近ようやく自分なりに教養の意味を定義できるようになった。曰く、『教養とは、二重写しの世界観に基づく思いやり』である。

この『二重写しの世界観』について説明しよう。

二重写し、と言うのは現実の世界と、もうひとつ別の世界が同時に見えていることを指す。たとえば、『夏草やつわものどもが夢のあと』という有名な句がある。これは松尾芭蕉が奥州平泉で眼前の廃墟に立ち、その昔、藤原氏が四代にわたり極めた栄華を回想しつつ述べた句である。この句のように背景にある文化を理解し、かつ現実も理解する、というのが私が言う『二重写しの世界観』という意味である。

もう少し卑近な例を使って説明しよう。

ある人がペン先の割れて使えなくなった万年筆を持っていたとしよう。あなたはそれを見て、『もう使えない万年筆なのに、この人はどうしてこれを捨てないのだろうか?』と考えるだろう。思い切って尋ねてみると、その万年筆は初恋の彼女からのプレゼントであったという。さらにその万年筆は当初その人が欲しかったものではなかった。その人の欲しかったのは、それよりも上等のものであった。しかし彼女はその高い万年筆を買えず安いものを彼にプレゼントした。彼は始めは少し落胆したが、使っていくうちにこちらの万年筆の方が使いやすいことに気付いた。そしてそれ以来ずっとその万年筆を愛用していた。ペン先が割れて使えなくなった今でも、その万年筆には初恋の彼女の思い出がつまっているので大切に持っているという。

使えなくなった万年筆、他人から見れば不用品であるが、当人にとってはかけがえのない品である。相手の気持ちになってその万年筆を評価できるようになるには、その万年筆の由来、つまり歴史的背景を知らなければならない。これが私の言う『二重写しの世界観』である。

しかし『二重写しの世界観』というのは、単なる懐古趣味とは異なる。たとえば、9.11事件以降、イスラムと欧米、特にアメリカとの対立が激しくなっているが、これを現時点の一過性の出来事として判断を下すのではなく、過去2千年以上にもわたる両者の対立の歴史を知ることが必要である。結局、他の文化圏に属する人たちのことを本当に理解するためには、彼らの思想、生活様式、文化背景を過去の歴史までさかのぼって理解して初めて彼らの基軸となる行動様式への『思いやり』がでてくると私は考える。

日本はもちろんのことそれ以外の文化圏の歴史的観点にたって相手を思いやる心を育む、というのが『二重写しの世界観に基づく思いやり』であり、世間でいう教養を深める、ということであると私は考える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする