限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第6回目)『麻生川流・漢文学習のポイント』

2009-06-16 07:23:35 | 日記
以前、『漢文教育の重要性』で書いたように現在、京都大学の一般教養の授業『国際人のグローバルリテラシー』で漢文教育をしている。目標とするのは、訓点なしの文(標点本)を読み、大略の意味がとれるようになることである。漢文は英語同様、語学教育と考えると現在高校で行われている漢文の授業には大いに欠陥がある。

その欠点の最たるものが次の二点である。
 1.音読を軽視している。
 2.訓点(レ点や一、二、三、上、下など)の付いていない文を読ませない。

まず、1.の音読軽視の罪は大きい。

すべての語学学習は音が基本であることは言うまでもないことだが、なぜか現在の高校での漢文教育では、音の要素を度外視して、訓点にしたがってパズル的に漢文を解釈することにのみ力点が置かれている。私は、江戸時代の寺子屋方式のように音読を中心とした教え方が正しいと考える。現在の電子機器を使うと、iPod などに音読したものを録音して、それを繰り返し聞くという方法も考えられる。

音が基本といっても、私は漢文を現代中国音で読む方式は採用しない。従来の『書き下し文』式の読み方を勧める。その理由は:
 a.中国音で読めたからと言って、意味が理解できるわけではない。
 b.中国音のまま読んでも句が記憶として残らない。書き下し文は日本語であるので、読んで音と意味を同時に覚えることが可能である。
 c.読解力を涵養することが目的なので、語句の順序を一字一句正しく覚える必要がない。

c.との関連でいうと、私の言う漢文読解力が対象としている文は、漢詩は積極的には含まない。それは漢詩には破格や省略が多く、普通の文法的な解釈が通用しないケースが多く存在するからである。また、賦も度外視する。その理由はあまりにも技巧的な字句が多すぎるからである。結局、対象とする文章は史書や議論文ということになる。特に、現代日本語訳が存在しないものを読めるようにしたい。一例を挙げれば、『資治通鑑』や『旧・新唐書』が読めることが最終目標の一つである。

次に2.『訓点のない文は読ませない』という欠陥教育についてであるが、高校の学習指導要領では次のように書かれている。
『...特に漢文については訓点をつけて,理解しやすいようにする。』

これによると訓点をつけない文を読ますことは高校の授業ではご法度のようである。外国語である英語には訓点を付けないで読ませるのなら、漢文にも訓点を付けないで読ませる訓練もすべきであると私は考える。すでに英語の知識を豊富に持っている現代の日本人にとっての漢文の学習の仕方は、従来の方法(訓点主義)と異なってしかるべきだと考える。なぜなら、文章構造上、漢文は一種の英文ともいえるほど類似性をもっているから、英語の知識で漢文を理解できる場面は多い。

こういった観点からの私なりの漢文学習のポイントを述べる。

まず、漢文は、シンタックス(文章構造)上、複雑な文は作れない、ということを理解すべきである。つまり、漢文の文章とは、結局のところ短文(だいたい6文字程度)の連続である。漢文学習では、この点がほとんど考慮されていない。さらに英語の文法を適用すると、訓点で複雑なものは、ほとんどない、と言っても過言ではない。

具体的にいうと、英語ではthat節や条件句を見ると一応そこまでの句をひとまとまりとして理解する。例えば、 He assuredly said to her that ...と書いてあると、『彼は断固たる口調で彼女に言った』とひとまずは理解して、その言った内容が以下に書いてあるはずと理解する。それと同様、漢文も、『子曰く』とあると、一応そこまでの句でひとまず理解することだ。そうすると、複雑な訓点(上下、甲乙丙、天地、など)はたいてい不要となる運命にある。

次のポイントとしては、漢文の場合、ほとんどの文型は『動詞+目的語』となっていることを認識すべきだ。日本語同様、漢文の場合でも主語は必要不可欠な場合を除いて、省略されるのが常だ。たいていの文では、意味の本体である行為内容を示す動詞が句の先頭にたつ。動詞があれば当然そのすぐ下には目的語である名詞が存在する。たいていは1文字、あるいは2文字。たまに名詞群があるが、それも、次の文の区切れ(6文字前後)まで続くだけの話である。

このような二つの簡単なポイントでも正しく活用すると、漢文読解力がかなり向上する。
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