限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第8回目)『ビジュアルカテゴリーとモーションカテゴリー』

2009-06-02 13:00:36 | 日記
白川静氏は、数年前に96歳の長寿を全うした漢学者です。甲骨文字や金文などに関する博学な知識はその3部作の辞書(字通、字統、字訓)にあますところなく盛られています。また漢字にかける情熱には、まったく頭が下がります。ただ一つ私が賛成できないのは、漢字や中国文化をやたらと尊重していて、ヨーロッパ文字(アルファベット)を低く見る姿勢が見受けられることです。

白川氏の漢字とアルファベットの優劣に関する意見を私なりに要約すると次のようになります。『漢字は、象形文字(ideograph)であるので、ある文字の元来の意味を考えることができる。例えば、母という字の中にある二つの点々は元来女性の乳房を表していた。それに反して、アルファベットは単に音を表す記号(符号)に過ぎない。つまりアルファベットは音を表わすだけで意味をもたないから漢字より劣る』

残念ながら、この白川氏の意見は、西洋語の表層だけをなぞっただけの意見のように私には思えます。ヨーロッパ語も近代語の英語ではなく、ギリシャ語、ラテン語までさかのぼってその語の一つ一つの構造や成り立ちを探ってみると、非常に精緻な建築物であることに気づかされます。

ヨーロッパ語(正式名称は、印欧語族、あるいはインド・ヨーロッパ語族)の比較言語学的研究は18世紀、ウィリアム・ジョーンズ(Sir William Jones)がインドにおいて、インドの古典語であるサンスクリット語と古典ギリシャ語やラテン語と共通の祖語(祖先の言語)から分かれてきた言語である、と推察したところから話が始まっています。

その後、彼の推察は、数多くの学者により次々と新たな発見で確証され、ついには、ヨーロッパ語全体の言語構造が統一的見地からその進化プロセスが明らかにされてきました。
(参考文献:風間喜代三『言語学の誕生-比較言語学小史』、高津春繁『比較言語学入門』)

その結果、ヨーロッパ語の単語の発音は適当な音符ではなく、しっかりとした意味をもつ構成要素だったことが明らかになりました。この構成要素は root (根)といわれ、ウォルター・スキート(Walter Skeat)の英語の語源辞書には、そういった root が 400近くもリストアップされてされています。
(Walter W. Skeat:An Etymological Dictionary Of The English Language)
ちなみにこの100年以上も前に作られた語源辞書はいまだにペーパーバックで売られている程、価値のある内容です。

音韻要素をベースにした意味のまとまりのほかに、私が考えるヨーロッパ語の特徴は、もう一つあります。それは、先日の百論簇出:(第3回目)『ギリシャ語・ラテン語と日本語の共通意識』にも触れましたが、ヨーロッパ語では多彩なニュアンスを統一的に表す工夫として、動作をひとくくりの単語として『副詞+動詞』で表現しています。例えば次のような例を考えてみましょう。

ject というのは、元はラテン語の iecio (投げる、throw)という意味から来ています。それを使っていろいろな単語が作られます。
 eject = e (外へ)+ ject(投げる) = 取り出す
 inject = in (内へ)+ ject(投げる) = 注射する
 project = pro(前へ)+ ject(投げる) = 計画する
 subject = sub(下へ)+ ject(投げる) = 屈服する
 object = ob (向かって)+ ject(投げる)= 反対する
 reject = re (再度)+ ject(投げる) = 拒否する

このように、ヨーロッパ語では、投げるという動作にまつわるいろいろな事象を一連の単語群で表現しています。言い換えれば、動作、つまりモーションをカテゴリー化しているといえます。

それに対して、漢字の偏はどうでしょう。木偏や、水偏、土偏、草冠、などは、全て目に見えるものです。ただし、りっしん偏や、やまいだれ、のように必ずしも視覚的でないものも若干はありますが、総体として、漢字は表象世界(ビジュアル)をカテゴリー化したといえます。

まとめますと、漢字もヨーロッパ語も、それぞれの構成部品はそれぞれ意味をもっていて、それらの根本的な違いは、次の点であるといえるでしょう。
 見える物を分類(ビジュアルカテゴリー)  -->漢字
 動きを分類(モーションカテゴリー)    -->ヨーロッパ語

冒頭に書きました私の白川氏に対する不満は、白川氏のような漢字や漢文に詳しい人たちが往々にしてこのような国際的規模の言語学(philology)の観点の欠落を感じる点です。
コメント
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