限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【麻生川語録・4】ストックの読書、フローの読書

2009-06-10 12:34:26 | 日記
経済用語で、ストックとフローという単語がある。ストックというのは、蓄積していく資産のことを指す。一方、フローとはその時々で作り出される資産であるが、必ずしも次世代には残る資産となるとは限らないものと定義されている。たとえば、道路、鉄道などはストックと言われ、一時的な給付金などはフローと呼ばれる。



読書にもストックとフローとがある。

ある時、自分の読んだ本や新聞・雑誌を思い出しながら考えた。『新聞や雑誌の記事で数年前に読んだものを思い出すことはないが、本は読んだあと記憶に長くのこるのはなぜだろうか?』

確かに新聞や雑誌の記事でその時々に感銘を受けるものも多くあるのは事実だ。しかし、それを数年後にも、あの記事にはこういうことが書いてあった、と思い出すことができないのがほとんどだ。(これは私だけの特殊事情であるかも知れないが。。。)それに反して、本だと、背表紙を見るだけで内容のあらましや、主要なテーマをおぼろげながらでも思い出すことができることが多い。(まったく思い出せずに二度買いしてしまうこともたまにはあるが。。。)

この理由を考えるに、どうも本という形がきっかけとなって、その内容や読書した時の感動が、脳のどこかにアンカーボルトのようにしっかりと固定されているようだ。一方雑誌のほうは、アンカーボルトに相当するものがなく、漂っていくのだ。つまりフローとなって、いつの間にか記憶から消えてしまう。別のたとえでいうと、雑誌などの『フローの読書』というのは、かすり傷のように、一時的には傷跡が残るがいつの間にか消えてなくなるのに対して、『ストックの読書』というのは、やけどのように一生残る傷のようなものである。

かと言って私は『フローの読書』をまったく否定したり無視したりしている訳ではない。現代の動向や風潮を知り、対応していくことも必要であり、そのためには新聞・雑誌も必要に応じて読む。しかしそれらの読書は意識して必要最低限にどどめている。

ただ、本を読むことがすべて『ストックの読書』かというとそうでもない。現在の商業主義的出版業界では、外見は本の体裁をしたフローのような本が数多くあるが、それらを読むのは『ストックの読書』とは言わない。

『人類四千年の特等席』に座っている我々現代人は、かくも安価に良質の本が手にはいるにもかかわらず、真剣に考えるべきテーマに関してさえも『ストックの読書』をせずに『フローの読書』で済まそうとしている人が多い事は私は常々残念に思っている。
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