★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

vessel

2018-12-07 23:06:56 | 音楽


仕事しながら、ビョークのライブ「vessel」というのをVHSで流していたのだが、途中で釘付けになってしまい――。

歌詞が全く分からないせいもあるのであるが、全く飽きない。民謡やクラシックの影響もありそうだが、不思議な音楽である。考えてみると、ビートルズもマーラーも実に変わっているのであって、グローバルに受ける音楽というのが、オリジナリティとかナショナリティとは違う何か妙なところがあるのが不思議である。考えられるのは、ある種の雑種性だが、どうもよく分からない。

音楽家たちがときどき普遍性みたいな主張をいうのも、本当は上のような不思議さのことではなかろうか。

巌頭に立つて黄銅の

2018-12-06 23:02:46 | 文学


巌頭に立つて黄銅のホルンを吹く者へ。私の夢を。――紫の雨、螢光する泥の大陸。――ギオロンは夜鳥の夢に花を咲かす。

 母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ返す。幼年時を被ふかずかずの抱擁の、沁み入るやうな記憶と共に。

 泡立つ春へ。pang ! pang !

――富永太郎「遺産分配書」

黄昏流星群

2018-12-05 23:19:47 | 漫画など


コンビニで『黄昏流星群』が売られていたので、ついその商売にひっかかり買ってしまったが、――しかも読んでしまいました。

テレビでドラマをやっているので売っていたのであろう。

黄昏流星という題が、はやくも悪意丸出しであるが、作者は島耕作かなんかの作者なので、しょうがない。島耕作は読んだことがないのだが。と思ってみたのだが第一巻だけ読んだことがある。なんだか調子こいた若い社員がいろいろな人とベッドインしまくるまんがだった記憶する。光がない源氏物語みたいなものであろう。これが、社長とか会長にもなるらしいので、誠にリアリズムである。

先日、NHKで山一証券破綻の特集をやっていた。破綻のまえ、社員たちは出勤するとトイレで呻いたりしてたそうである。島耕作にもそういう場面があるのであろうか。知らんけど。

学生のレポートをみていると、学生たちが自分たちを「一般人」として自己規定しているのをよくみる。そういえば、「黄昏流星群」のなかでいけ好かない大蔵官僚がでてきて、主人公が彼を殴ったりする。確かにわかりやすい場面である。一般人や大衆がそれ自体で「善」であるならば。

学生のレポートの変遷を観察すると、「蟹工船」なんかを、昔の教条主義者もびっくりの調子で批評する類を目撃したのが、十年ぐらいまえで、そのあたりからプロレタリアートでない者までプロレタリアートのような面をしてモノを言うような風景が見られるようになってきた。まあ、自覚が先にあったのではなく、言ってからそんな気分になったというのが正確である気もする。プロレタリア文学の発明した?「労働者」はいまも亡霊として強力である。

我々はかかる錯乱を起こしたまま黄昏れることはできない。必ず馬鹿にされて終わるというのが歴史の必然のような気がする。むろん、島耕作の作者みたいな行き方もありなのである。その表面的な推移が妙にリアルである。そんな描き方が重要だということを忘れると……。

職域奉公論とか

2018-12-04 23:18:12 | 思想


今日は演習で、橘樸の『職域奉公論』(昭和17年)が話題になったから、ちょっと読んでみた。生活の協同化とか科学化とか、要するに、さんざ言われてきたように、戦時下の職域奉公論は伝統のある種のスクラップと国民の再組織、のエートスであった。主婦の職域論がとくにまあ面白く、これは人口政策ともからんで重視されている。しかし、橘の書き方も、「えーとまだ主婦層の複雑なあれをどうするかは難しいですねえ」といった感じであって、なぜかといえば、たぶん、女性は家に隠れてよくみえないからであり、特にホワイトカラーの男にとっては、教養の体系が異なる特殊な「プロレタリアート」に見えていたからである。総動員体制のためにはやっかいな代物であった。

そう考えてみると、今の、女性の「社会進出」論とか待機児童問題に関わる女性の働き方改革といったものの方が、一億総活躍とかいう全体主義へのステップとしてむしろ容易である可能性もあるのだ。ジレンマは、それだとあまり子どもを産んでくれなさそうだということに過ぎない。だから、声高に人口減少対策が単独で叫ばれることになるわけだ。

当時の文献を読んでいると、総力戦のためには、農民のマインドもある種の悩みの種だったことがわかるが、彼らの内実を分析するよりも「まあ彼らも労働者だから」という処理で乗り越えられているようだ。橘の場合もそうみえる……。

よく分からないが、橘という人はほとんど半生を中国で過ごした人であって、戦争中突然全体主義化したように見えるが、確か清水亮太郎氏によれば、橘にとって日本人はいい加減でない行動様式の錬成を結果していると見えていたわけで、而してその行動様式の「普遍化」のニュアンスを持ったアジア主義を志向することになったようであった。(記憶があいまいだが、そういうことをお書きになっていたと記憶する……)確かにそういうこともあり得るとは思うが、文章の書き手の問題として考えると、この時期の橘のものはどうも疲労という感が否めない気もするのである。アジア的なものを経験し尽くした後で、結局よくわからなくなったあと、ナチス流の全体主義を参考にあたふたしているのが、この頃の橘ではなかろうか。

デ★■◎思考とかいわれているものも、かなり昔から紆余曲折があった概念であって、その歴史をきちんと辿りなおして経験しなおさない限りただのポンチ絵推奨政策に墜落するであろう。ポンチ絵なんてのは、ただ、命令の形式を暴力的に見える化しただけのものであって、むしろやる気を減ずる効果があることはもう明らかである。

昔の全体主義もそうだったが、何十年も昔の輸入品を堂々と流行に祭り上げるなぞ、一言「恥を知れ」という感じである。何回、同じことを繰り返しているのだ。

「高輪ゲートウェイ」(笑)

さっきWBSを観ていたら、ビジネススクールの先生かなんかが、もう思い切ってネーミングライツでなんとかとか言っていた。そういう問題じゃねえんだよ、われわれの魂とか羞恥心とかセンスの問題なんだよ。

警告します。新しい元号が「絆bonds」になったら、私の授業のレポートを倍にする。

物のバブル

2018-12-03 23:45:07 | 思想


都築響一氏の『TOKYOSTYLE』という本に写っているのは1993年ぐらいの東京である。木造アパートなんかに当時の最先端の文化的機器を持ち込み本やCDに埋もれて暮らす者達の部屋だけがある。人間が一人も写っていないせいもあるが、――当時の「STYLE」が、生活の安全とか保全とか清潔さよりも文化の蓄積と耽溺を目的とした、ある種の文化的繭、いわば、バブルだったという印象をうける。バブルだったのは経済だけの問題ではなく、生き方の問題だったのであろう。このあと、ワンルームマンションの台頭やバブル崩壊、オウム事件などへの対処で、われわれはある意味で「生活」から復讐されたのである。この写真集にないのは、携帯電話とインターネットだが、これはまさに文化を社会的生活に従属させるものであって、いまだって、私の部屋もこの写真と似たようなものだが、根本的に社会との関わりが変わってしまっている。

その意味で、都築氏が序言みたいな文章で、これから経済的余裕を失った日本での暮らし方の先駆的な形態はここにある、と言っていたその予言は外れたと思う。CDや本がスマートフォンに吸収されてしまったのは、繭としての豊かさの消滅であり、空間に文化的物体が占める割合の貧しさ――によって、本質的な貧しさが導かれているような気がする。断捨離とかが流行るのは、そのことが貧しさへの意識抜きに意識されているからに他ならない。たぶんこの調子では、バブルへの郷愁と断捨離的な短絡によって、すべてを捨てて町に出る人たちも多くなるかもしれない。知らねえぞ……

スマートフォンやインターネットで虚相として身動きがとれなくなっているのは、主体性とか個人という観念であり、したがって、これを主体的に改善しようとして「他人のために人生を主体的に捧げるべし」みたいな極論が出てきかねない。そういう主張を繰り出す人たちが、なぜか恐ろしくエゴイスティックなのはいまのネット世界を見渡せば分かる。われわれは常に適度に「文化的物体」に囲まれて主体を曖昧な輪郭に保つことが重要で、孤独な実存者になれば、そのじつファシストへの転落もはやくなるのである。

追記)ちょうどバブルがはじける直前に「ゴジラ対メカゴジラ」というのがつくられている。そのなかで、23世紀の未来人たちが、超経済大国の日本を過去にさかのぼって弱体化させようとやってくる。彼らの作戦だとキングギドラによって日本は火の海になる――予定だったが、ベーリング海に捨てられてた核廃棄物をゴジラがたべてキングギドラをやっつける、しかしゴジラが暴れすぎるので、未来人の一人が23世紀のギドラの死骸を復活させて過去に送り込むという、タイムパラドックスというものはなかったことにしようみたいなはなしであるが――、日本はまもなく、ゴジラやキングギドラを待つまでもなく、あれであった。この頃の文化を復習してみると、案外我々の記憶よりも粗悪なものが多いように思われ、『物のバブル』とかいって過去を振り返っている場合ではないことも明らかである。

それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだつてね。

2018-12-02 23:07:03 | 文学


時雨する稲荷の山のもみぢ葉はあをかりしより思ひそめてき

今東光が確か『毒舌日本史』のなかで、和泉式部というのは最高の女だとかなんとか言って、熊野参りの時に生理になったことを歌に詠んだり、伏見稲荷に参った時に蓑を貸してくれた農夫とベッドインしてしまったからだとか、言っていた。こんなエピソードを語るとき、今東光は実に下品だがさすがに転向を繰り返してきた御仁だけあって、羞恥心に溢れた何かが感じられて、――昨今の偽書まがいの歴史書で一儲けしている人とは教養も何もかも違う。

要するに、破戒坊主と生臭坊主との違いである。

今東光のように、ヘッベルとかハックスリの言葉をさりげなく引用できなければわれわれは生臭坊主からは脱却できない。

この前、PDCAサイクルに耽溺している大学を真面目に論破した紀要論文を読んだが、ちょっと真面目すぎる気もしないではなかった。そんな真面目さがいったんは必要な情況であることは確かである。しかし、ウンコの成分を解析できたからといって、ウンコにウンコ野郎と言っても意味はない文学的問題はいっこうに解決しない。現在のわれわれの問題はそこである。

「傍へ寄つて來ちや駄目だつて言つたら。くさいぢやないの。もつとあつちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだつてね。私は聞いたわよ。それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだつてね。」
「まさか。」と狸は力弱く苦笑した。


――太宰治「カチカチ山」


太宰は、「力弱く」というこころに批評を込めてしまうので生き延びた。しかし、生き延びれば良いというものでもないようだ。

ヒーローと反乱者

2018-12-01 23:12:25 | 映画


スピンオフ的なアニメーションをちゃんと観ているわけではないが、『スターウォーズ』には人並みに興味があって、最近、『ハン・ソロ』と『ローグ・ワン』をみてみた。

『ローグ・ワン』の方ができが良かったように思えたが、アメリカ映画にはよくある、「英雄と反乱者」の対立がここにもみられたのが興味深かった。この二者はお互いに一者となることも、対立者となることもある。お互いに従属関係になることもある。ハン・ソロは英雄であり反逆者である(この前息子に殺されたけど)。ローグ・ワン(反乱者たち)は反逆者であり英雄誕生の土台をつくる名もなき英雄である。

日本の社の伝説にある、為政者に惨殺される英雄たちの静寂への回帰に対して、これらの英雄たちは動乱の媒介者であり、おそらく、この調子では、トランプやブッシュさえもそういうものである(べきだと思われている)。おそらく勝者の特徴なのであろうが、彼らを良き死に送り返すことに成功した、あるいは成功しようとする執念においてわれわれとは桁が違う。そして、それは熱情に回収されない物語の冷静さでもあるのだ。

そう考えてみると、希望への媒介者として『ローグ・ワン』の制作は、歴史の必然として行われているのだと思われた。