然し又、自由詩をつくる人々は自由詩だけが本当の詩で、韻のある詩や、十七字、三十一字の詩の形式はニセモノの詩であるやうに考へがちだけれども、人間世界に本当の自由などの在る筈はないので、あらゆる自由を許されてみると、人間本来の不自由さに気づくべきもの、だから自由詩、散文詩が自由のつもりでも、実は自分の発想法とか構成法とか、自由の名に於て、自分流の限定、限界、なれあひ、があることを忘れてはならない。
だからバラッドやソネットをつくつてみようとか、俳句や短歌もつくつてみたいとか、時には与へられた限定の中で情意をつくす、そのことに不埒のあるべき筈はない。
十七文字の限定でも、時間空間の限定された舞台を相手の芝居でも、極端に云へば文字にしかよらない散文、小説でも、限定といふことに変りはないかも知れないではないか。
――坂口安吾「第二芸術論について」
むかし、君の論文はいまどき珍しいカテドラル型の論文だと言われたが、たしかにわたくしはそんなつもりがある。ただ目指すは交響曲のような論文である。最近書いたやつはちょっと思弁的になりすぎたかと思ったが違うと私自身は思う。もっと緻密につめられたはずだと思う。論の整斉ではなく交響曲になっているかどうかのほうが重要である。
横道誠氏なんかは、音楽を奏でながら絵を描くかんじで執筆しているらしい。見ることと書くことが近い論者がいる。わたしはそうでもない。
坂口安吾は、散文でも「詩」のつもりだったんだと思う。芥川龍之介なんかはそうでもなく、絵描きである。「沼地」なんか読んでいてどきどきする。