★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

物のバブル

2018-12-03 23:45:07 | 思想


都築響一氏の『TOKYOSTYLE』という本に写っているのは1993年ぐらいの東京である。木造アパートなんかに当時の最先端の文化的機器を持ち込み本やCDに埋もれて暮らす者達の部屋だけがある。人間が一人も写っていないせいもあるが、――当時の「STYLE」が、生活の安全とか保全とか清潔さよりも文化の蓄積と耽溺を目的とした、ある種の文化的繭、いわば、バブルだったという印象をうける。バブルだったのは経済だけの問題ではなく、生き方の問題だったのであろう。このあと、ワンルームマンションの台頭やバブル崩壊、オウム事件などへの対処で、われわれはある意味で「生活」から復讐されたのである。この写真集にないのは、携帯電話とインターネットだが、これはまさに文化を社会的生活に従属させるものであって、いまだって、私の部屋もこの写真と似たようなものだが、根本的に社会との関わりが変わってしまっている。

その意味で、都築氏が序言みたいな文章で、これから経済的余裕を失った日本での暮らし方の先駆的な形態はここにある、と言っていたその予言は外れたと思う。CDや本がスマートフォンに吸収されてしまったのは、繭としての豊かさの消滅であり、空間に文化的物体が占める割合の貧しさ――によって、本質的な貧しさが導かれているような気がする。断捨離とかが流行るのは、そのことが貧しさへの意識抜きに意識されているからに他ならない。たぶんこの調子では、バブルへの郷愁と断捨離的な短絡によって、すべてを捨てて町に出る人たちも多くなるかもしれない。知らねえぞ……

スマートフォンやインターネットで虚相として身動きがとれなくなっているのは、主体性とか個人という観念であり、したがって、これを主体的に改善しようとして「他人のために人生を主体的に捧げるべし」みたいな極論が出てきかねない。そういう主張を繰り出す人たちが、なぜか恐ろしくエゴイスティックなのはいまのネット世界を見渡せば分かる。われわれは常に適度に「文化的物体」に囲まれて主体を曖昧な輪郭に保つことが重要で、孤独な実存者になれば、そのじつファシストへの転落もはやくなるのである。

追記)ちょうどバブルがはじける直前に「ゴジラ対メカゴジラ」というのがつくられている。そのなかで、23世紀の未来人たちが、超経済大国の日本を過去にさかのぼって弱体化させようとやってくる。彼らの作戦だとキングギドラによって日本は火の海になる――予定だったが、ベーリング海に捨てられてた核廃棄物をゴジラがたべてキングギドラをやっつける、しかしゴジラが暴れすぎるので、未来人の一人が23世紀のギドラの死骸を復活させて過去に送り込むという、タイムパラドックスというものはなかったことにしようみたいなはなしであるが――、日本はまもなく、ゴジラやキングギドラを待つまでもなく、あれであった。この頃の文化を復習してみると、案外我々の記憶よりも粗悪なものが多いように思われ、『物のバブル』とかいって過去を振り返っている場合ではないことも明らかである。