★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

*記念としての人生

2024-09-28 23:18:19 | 文学


蒲団を引っかぶって固く目を閉じると何も見えぬ。しばらくすると真赤な血のような色の何とも知れぬものが暗黒の中に現れる。なお見ているとこれが次第に大きくなって突然ぐるぐると廻り出す。それはそれは名状し難い速さで廻っているかと思うと急に花火の開いたようにパッと散乱してそのまた一つ一つの片が廻転しながら縦横に飛び違う。血の色はますます濃くなって再び真黒になったと思うとまたパッと明るくなって赤いものが廻りはじめる。こんな事を繰り返しているうちに眠りの神様は御出でになる。きっとこの血のような花火のようなものが眠りの神の先駆のようなものであろう。

 熱帯地方の山川草木禽獣虫魚は皆赤いもののような気がして仕方が無い。これは多くの地図に熱帯を赤く塗ってあるからであろう。

 先生赤い涙があるもんですかと、真面目で聞いたのは僕の友達じゃ。

 赤とは火の色なり、血の色なり、涙の色なり。


――寺田寅彦「赤」


レヴィ・ストロースがだれかと中国の革命を睨みながら「赤はストップなのかススメなのか」みたいなことを、何かの対談を言っていたが、いまは、さしあたり、どうでもよい。このまえFMでやっていた、エルランジェの歌劇「赤い夜明け」はなかなか良い曲であった。解説者は、暴力的な手段で世の中を変えるのは今に至るまで変わってませんねみたいなコメントをしていたが、思うに「赤」はその意味でも止まれなんかの意味ではないであろう。そりゃそうだろう。暴力がこのよからなくなるわけないではないか。

敗戦国の負け犬から言わせれば、――大谷くんを見ていると大艦巨砲主義は必ずしも悪い事じゃないと思わざるを得ないが、大谷君だって暴力をうまく使っているだけなのである。松田華音さんの「展覧会の絵」をCDをきくと、腕の根元から力を鍵盤に対して殴打するロシアのピアノの弾き方を思った。

午前中、水槽の水かえたらとてもメダカが元気になったのであるが、――われわれも基本的にこんな感じだと考えた方が良い。しかしこの環境変更というのも暴力の一種である。

暴力といわずに力と言っても同じことで、我々はバットに衝突にした玉のように永遠に反応しなければ死んでしまうのであろうか?

そういえば、細は大学四年の時友達と一緒にアナウンサーの試験を記念受験したらしいんだが、「県庁の☆」にも素人なのに秘書役で一瞬出てたし、わしと結婚したのも記念の可能性が高いかもしれない。別にふざけているわけではなく、――思うにこれは案外いい作戦かも知れないのである。「活動」は、物理的法則じみている。人生のすべてを「*活」にしてしまうとそれは所詮労働にならざるをえないが、いろいろなことを「*記念」と考えればよいのではないか。お墓なんか死すら記念碑にしているわけで。

そういえばいまでもアンチ巨人というひとたちは存在しているのであろうか?彼らが、「巨人」(物理的に大谷みたいである――)に権威をみて反抗していたときは良かった。いつのまにか、それは反応に過ぎなくなった。ついにもう巨人が優勝しても何も起こらない。巨人よりも巨大なのは大谷君である。アンチ大谷は現れるであろうか。相手はアメリカと一体化している巨人である。なんと彼は犬をてなづけているから、負け犬国としては、どう反応していいかわからんぞ。思うに「負け犬」だって紀念碑だったのである。それがなくなっただけだ。

小泉の後の安倍+αの時代は、普通の対話がなりたたんとか言われていた。安倍首相なんかを代表とする修辞的?な空間でふわふわしながら、――すなわち、自らも安倍的な言辞をしながら、秘かに現実的にどうにかならんか大衆が手探りを続けた時代でもあったと思う。それは国全体の雰囲気で、ある種の紀念碑だけが作動しているような奇妙な空間であった。しかし、今回、議論をストレートにするオタクなおじさんが首相になりそうで、ちょっとまともに話をしようぜみたいになったときに、それに堪えられんので変に空想的に「現実な」方向に走りたがるやつも出てくると思う。


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