★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

暖冬下の雑感

2018-12-20 23:20:23 | 思想


・米山優氏の『アラン『定義集』講義』という大著が出たが、なるほど、注釈だけを本にするとこういう感じになるのか……。これはすごいぞ……。アランの『定義集』は、むかし、社会主義のところを読んであんまり大したことねえなと思って放り出したが、アランはそんな風にして読むもんじゃないんだろう。自分でもモンテーニュのエセーを書くつもりで読むというか、そんな読み方が必要なのだろう。これはほとんど、和歌的な世界ではなかろうか……

・東浩紀氏が『ゲンロン』を縮小するとかツイッターで言っていた。かなり会社の運営で疲弊した模様である。もともと『ゲンロン』は、『批評空間』の成功と失敗をふまえてがんばろうというものであったが、『批評空間』とは別の意味で人手不足の問題があったようだ。おんなじようなことは大学でも起きている。ただ、大学は国家をはじめとして責任主体がものすごく沢山あるので、沈んでも沈まない体になるふりをすることができる――。組織というのは、その内部ではストレスになる「人のせいにする」仕組みがあることで保持されているという面があるのである。

火曜日の授業で東氏の世代の批評について話したことだが、――読者に対する思想をそろそろ諦めることが必要である。そこででてくるのは社長ではなく、教師という立場の有効性である。教師という立場は、普通に理解されているよりも、責任を限定的にしていることで成り立っているのである。商売マインドを教育に持ち込むとなぜだめになるかといえば、いわば「できの悪い」ものに対する責任の所在が、「社会的責任」を含めたとんでもないことになるからだ。東氏の悲劇的なのはそういう限定性を持たないことにある。その点、内田樹氏はプライベートで文業とは別の「師匠」になっていて、――ある意味賢い。武道の方が本業で文業が元手をつくる手段になってそうなところが、これまた面白い。普通は東氏も含めて内田氏よりも不器用で純情なので、芸術を手段としては使いたくない。で、東氏のように、手段と目的を一致させようということになるが、そこで問題になるのが、中小企業の場合社員たちを手段として扱えないという点である。人間に見えてしまうので……。そこで、東氏のように頑張って彼らと人間的にコミュニケーションをしようとして疲れてしまうのである。公教育で下僕(従業員)になってしまって芸術や学問を手段として売り飛ばしている教員よりはましなのであろうが、われわれは人間であり疲労が溜まると大変なのだ。

・センター試験の会場に毎年入っているから、もうずっと浪人している気分だ。

・『ゴジラ2000ミレニアム』というのは、わたくしの妄想で酷い映画ということになっていたが、授業の予習で実際みてみると、『Xファイル』とかエミリッヒ版『ゴジラ』の影響が、それまでの平成シリーズのある種のふぬけた映像の感じを一掃していたのがわかった。外圧万歳!変わらないのは、脚本の精神で……、これはある意味仕方ない(授業で述べたとおりである)

・朝ドラにおける戦争、ゴジラにおける核は、口承文芸における何かになっている。すごいとも言えるけれども、古事記を読んですごいと思うのと同じで、だめと言っておくのも必要である。

・国際捕鯨委員会から脱退したとか。孤立というのものが犯罪的な行為をさせる、のはたぶん個人以外においても真理であり、昔の日本とか北朝鮮やアメリカをみていてそれがわからんやつがいるのは理解できない。アメリカでトランプが出てきて「自分ファースト」だとか言い出したのは、アメリカが長い期間かけて孤立してきてしまったからに決まっているではないか。大人のくせに、正しい孤立があるとか思ってるんじゃないだろうな……。人間に対してそれは甘すぎる期待というものだ。