★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

暖冬下の雑感2

2018-12-21 23:44:03 | 映画


・「ジュラシック・エクスペディション」という映画を観ようと思っているのであるが、たぶん、クソ映画であろう。考えてみると、金をかければ「ジュラシック・パーク」ぐらいの品格は出るとか考えてしまうわれわれに天罰はそろそろくだるであろう。

・学生のレポートなどを見ていたら、もう既に天罰は下っていると思った。

・熊野純彦氏の生産力をわたくしに装備したい。

・『3月のライオン』はいつ終わるのか。もういっそのこと、全員インフエンザで入院とかで終了でいいや……。

・ネルソンスのショスタコーヴィチの四番を聴いて村田沙耶香を読んでみた。別に認識の変化なし。

・最近の大塚英志氏の仕事はまるでわたくしの頭のいい別人格がやっているようだ。――ほぼわたくしとは別人だ。すなわちわたくしとは別人だ。

・NHKスペシャルの「大アマゾン 最後の秘境」の再放送をみたが、頑張んなきゃと思う。

暖冬下の雑感

2018-12-20 23:20:23 | 思想


・米山優氏の『アラン『定義集』講義』という大著が出たが、なるほど、注釈だけを本にするとこういう感じになるのか……。これはすごいぞ……。アランの『定義集』は、むかし、社会主義のところを読んであんまり大したことねえなと思って放り出したが、アランはそんな風にして読むもんじゃないんだろう。自分でもモンテーニュのエセーを書くつもりで読むというか、そんな読み方が必要なのだろう。これはほとんど、和歌的な世界ではなかろうか……

・東浩紀氏が『ゲンロン』を縮小するとかツイッターで言っていた。かなり会社の運営で疲弊した模様である。もともと『ゲンロン』は、『批評空間』の成功と失敗をふまえてがんばろうというものであったが、『批評空間』とは別の意味で人手不足の問題があったようだ。おんなじようなことは大学でも起きている。ただ、大学は国家をはじめとして責任主体がものすごく沢山あるので、沈んでも沈まない体になるふりをすることができる――。組織というのは、その内部ではストレスになる「人のせいにする」仕組みがあることで保持されているという面があるのである。

火曜日の授業で東氏の世代の批評について話したことだが、――読者に対する思想をそろそろ諦めることが必要である。そこででてくるのは社長ではなく、教師という立場の有効性である。教師という立場は、普通に理解されているよりも、責任を限定的にしていることで成り立っているのである。商売マインドを教育に持ち込むとなぜだめになるかといえば、いわば「できの悪い」ものに対する責任の所在が、「社会的責任」を含めたとんでもないことになるからだ。東氏の悲劇的なのはそういう限定性を持たないことにある。その点、内田樹氏はプライベートで文業とは別の「師匠」になっていて、――ある意味賢い。武道の方が本業で文業が元手をつくる手段になってそうなところが、これまた面白い。普通は東氏も含めて内田氏よりも不器用で純情なので、芸術を手段としては使いたくない。で、東氏のように、手段と目的を一致させようということになるが、そこで問題になるのが、中小企業の場合社員たちを手段として扱えないという点である。人間に見えてしまうので……。そこで、東氏のように頑張って彼らと人間的にコミュニケーションをしようとして疲れてしまうのである。公教育で下僕(従業員)になってしまって芸術や学問を手段として売り飛ばしている教員よりはましなのであろうが、われわれは人間であり疲労が溜まると大変なのだ。

・センター試験の会場に毎年入っているから、もうずっと浪人している気分だ。

・『ゴジラ2000ミレニアム』というのは、わたくしの妄想で酷い映画ということになっていたが、授業の予習で実際みてみると、『Xファイル』とかエミリッヒ版『ゴジラ』の影響が、それまでの平成シリーズのある種のふぬけた映像の感じを一掃していたのがわかった。外圧万歳!変わらないのは、脚本の精神で……、これはある意味仕方ない(授業で述べたとおりである)

・朝ドラにおける戦争、ゴジラにおける核は、口承文芸における何かになっている。すごいとも言えるけれども、古事記を読んですごいと思うのと同じで、だめと言っておくのも必要である。

・国際捕鯨委員会から脱退したとか。孤立というのものが犯罪的な行為をさせる、のはたぶん個人以外においても真理であり、昔の日本とか北朝鮮やアメリカをみていてそれがわからんやつがいるのは理解できない。アメリカでトランプが出てきて「自分ファースト」だとか言い出したのは、アメリカが長い期間かけて孤立してきてしまったからに決まっているではないか。大人のくせに、正しい孤立があるとか思ってるんじゃないだろうな……。人間に対してそれは甘すぎる期待というものだ。

美の東西

2018-12-19 23:23:04 | 思想


原随園は西洋史家でずいぶん昔の人のように思っていたが、八十年代まで生きていた。こういう書物をいつか書いてみたいものである。

「手と指」というエッセイの中で、ペルジーノの礼拝図などの合掌に比べて日本の千手観音の方が「心をもって窺う」に足るのだと言っているところなど面白かったが、われわれはもうこういう素朴な見方は出来なくなっているなとも思う。案外、インターナショナリズムというのは、こういう素朴な感覚から生まれるものかもしれない。いまは、グローバルリズムとはグローカリズムだとか詭弁を弄しているうちに、肝心なことを忘れてしまう傾向にある。要するにわれわれは知識も身についていなければ感覚も良くなっていないのに、小賢しくなっているだけなのである。

そういえば、確かに最近は手の動作が美しい人が減ってきている気がする。板の上のボタンを叩いたりなでたりして暮らしているからかもしれない。

「菊池寛をふりかえる」展をみてきたよ

2018-12-18 23:40:29 | 文学
https://bungo.dmmgames.com/news/181003_02.html


いや、

http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/kikuchikan/bungakuten/27.html


こちらに行ってきた。上のなんとかアルケミストのグッズも記念に二つほど買ってみたが、1ミリも似ていない中原中也と堀辰雄の絵にびっくりした。よくわからんが、このゲームみたいなのを喜んでるのは案外文学マニアのおじさんだけではないか……そうでもないのであろうか……

わたくしは良い歳になってきたせいか、菊池寛が水着を着てしょんぼり立っている写真などに共感した。しかし、いつものことだが、「「父帰る」でおれは後世に残る」とか言っている菊池寛はあまり好きじゃない。おれは若い頃から実はすごかったと言っているようで……。実際、若い頃の方がいいんだが……

「だから、本当の小説家になるのに、一番困る人は、二十二三歳で、相当にうまい短篇が書ける人だ。だから、小説家たらんとする者は、そういうようなちょっとした文芸上の遊戯に耽ることをよして、専心に、人生に対する修業を励むべきではないか。」
――「小説家たらんとする青年に与う」


芥川にケンカ売ってんのかいと思うけれども、菊池寛の説教にめげず若者は書いて書いて書きまくれば良いと思う。行き詰まったら、菊池寛のように「無名作家の日記」みたいなものでも何でも書く根性がついている。たしかに、芥川から太宰に至る多くの韜晦的文人がその韜晦の苦しさに追い詰められる御時世が始まろうとするときに、思うことを言えばいい、お前は言う勇気があるかよ(とは言ってないが……)、と言って文藝春秋、ひいては文壇を組織した菊池寛は、商才がある吉本隆明みたいなところがちょっとだけある。

匂ひはいづら桜花

2018-12-17 23:16:33 | 文学


いにしへの匂ひはいづら桜花 こけるからともなりにけるかな


昔の女にこんなことを言う昔男は最低ですねえ……。とはいえ、わたくしは堀辰雄の「曠野」のような話をこのまないので、伊勢物語の残酷な切り取り方の方が好きである。

変態心理の本性

2018-12-16 23:13:46 | 文学


 到底こゝには記し切れぬ程、生涯の自分の芸術の対照となすべく充分と思ふ程の病的心理がある――或日はさう思ふ。次の日には――そんなことに興奮したのは幼稚な感傷であつた、と打ち消す。また次の日には――それは愚かな対他的な理性で、わが本来の性癖は第一のことに根す、といふ風にも考へる。この三つの感情に悩されること夥しい。これが現在の自分の最も苦しい変態心理である。以上。

――牧野信一「私の変態心理」


「変ゼミ」というまんがを読んだときにも思ったが、牧野の言うように、感情を三つの分けたりするのが変態心理であり、――つまり分析的なのである。「変ゼミ」は作者に知性がある事情もあるであろうが――。ライトノベルのことはほとんど知らないが、いくつかの読書経験から導き出されるのも、その分析的な趣である。しかし、これはそもそも牧野のいいかたが一種の中道風の韜晦であるように、韜晦である可能性がある。わたくしの常識から言えばそうなのだ。ガイナックスが、確か庵野秀明抜きで「フリクリ」という作品をつくったことがあったが、これは変態色が強い、すなわちある意味で中道を演出していたような記憶がある。

――とはいえ、中道が反動的になることもあれば、そうでない場合もあり、「シン・ゴジラ」をみたいな韜晦が人気を得ているご時世では、中道がいきなりラディカルになることもありうるから油断はできないのだ。

白山神社を訪ねる(香川の神社184)

2018-12-15 23:26:03 | 神社仏閣
スケートでおじさんの体はぎしぎしいってますが、いやがるゼミ生などを引き連れ、スケートリンクの隣の白山神社(三木町)にゆく。



 

狛犬さん。わたくしが「かわいい」と言うと、ゼミ生さんも「かわいいです」と繰り返す。他の研究室のゼミ生が「忖度」と突っ込む。



向こうに見えるのは白山(讃岐富士の一つ)である。こんな小山が富士なわけはないが、――こういうことを言っていると、案外かかる神社は参道が長く足にクルので「案外奥にあるぞ本殿は」と学生たちに嫌がらせを言うておく。











神門に到着。体力の限界近し。



拝殿近し。

 

狛犬さん。

『香川県神社誌』にはいろいろ情報が載っている。

まず、極楽寺記という書に、「延長四年九月明海勧請白山権現于高岡」とあるそうだ。お坊さんが白山権現を呼んできたのであった。また、全讃史には「古老伝昔有 晴明者 居白山下妙通占筮術 世人稱白山相人・・・・蓋此相人則越人是以迎 越白山妙理権現司之呼」とあるそうだ。いつもの古老さんのお話では、越国の出の清明という者がいて、占筮の術に通じていて彼がつくった、らしい。この二つの説、とにかく怪しさ満載である。とにかく、白山信仰や御嶽信仰やらは、田んぼの神様たちとは違うのである。全国の白山神社を作った人たちは、あるいは白山信仰のふりをしようともお米の人たちとは何か別種の志を持っていたに違いないっ。確かに柳田国男風のロマン主義はあれだと思うが、あれがいつもあれであるとは限らないのである。



境内社の鳥居?昭和三年九月奉納。

 

小さな狛犬を大きく撮る。ゼミ生が自ら「かわいい」と言う。教育の成果である。

  

境内社の皆さん(白石社、天神社、地神社)。しかし、修験道を山人とみたりするロマンは、大概、――角力とりが石を奉納したのが始まりとか(案内板の石版に書いてあった)、そんな感じのエピソードで萎えてしまう。

国語研究室スポーツ大会開催

2018-12-15 22:58:20 | 大学


今日は国語研究室のスポーツ大会で、スケートしに行きました。三十年以上前にスピードスケートしかやったことのないわたくしが、40越えてフィギアスケートで3回転半


横転


などをしつつ、二時間遊びました。そのあと、忘年会……。この全身の軋みは忘れまじ。

生唾が煙になって、みんな胃のふへ逆もどりしそうだ。ところで呆然としたこんな時の空想は、まず第一に、ゴヤの描いたマヤ夫人の乳色の胸の肉、頬の肉、肩の肉、酸っぱいような、美麗なものへ、豪華なものへの反感が、ぐんぐん血の塊のように押し上げて来て、私の胃のふは旅愁にくれてしまった。いったい私はどうすれば生きてゆけるのだ。
 外へ出てみる。町には魚の匂いが流れている。公園にゆくと夕方の凍った池の上を、子供達がスケート遊びをしていた。固い御飯だって関いはしないのに、私は御飯がたべたい。荒れてザラザラした唇には、上野の風は痛すぎる。子供のスケート遊びを見ていると、妙に切ぱ詰った思いになって涙が出た。どっかへ石をぶっつけてやりたいな。耳も鼻も頬も紅くした子供の群れが、束子でこするようにキュウキュウ厭な音をたてて、氷の上をすべっていた。


――林芙美子「放浪記」

倉田百三などの……

2018-12-14 23:59:51 | 文学


親鸞 お前はふしあわせだった。
善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。わたしは自分の存在を呪います。
親鸞 おゝおそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。
善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。


――倉田百三「出家とその弟子」


倉田百三が案外読まれていたことの意味をあまり侮ってはならない、とわたくしは思う。文化には読者などの消費者の土台というものが必要で……。というのはあまりにも思い上がっているとしても、救済の道具としての文学は確実に存在したのである。そのなかには、むろん、ファシズムの快感に属するものがあり、それはなおかつある者にとっては救済である。考えてみると、こういうことは大江健三郎よりも三浦建太郎(名前が似ている……)の方が分かっているかもしれない。

退屈

2018-12-13 23:37:50 | 漫画など


一つ原稿をあげたので、横槍メンゴの『クズの本懐1』を読んだが、「死に至る病 それは 退屈」とあった。絵がすごく柔らかくずごいなと思ったら、この作者は女性だった。

この歳になって言うのも何だが、ある種の女性が「死に至る病 それは 退屈」とか思っている節はある。あることにしておこう。そんな目から見える世の中は空気すらも恐ろしいのであろう。

彼らは原風景をめざす

2018-12-12 22:10:23 | 映画


園子温は、「地獄でなぜ悪い」以降、量産体制に入ったと誰かが言っていたので、なぜかあまりに観る気になれなかった。学者でも、そういうときに自分の仕事がどのレベルなのか訳が分からなくなるときがあり、どちらかというと、観るのが怖かったのである。

「恋の罪」「ヒミズ」「冷たい熱帯魚」、いずれもすばらしかったので、余計恐ろしかったのである。

先日「ラブ&ピース」(2015)を観てみたら、これが結構良かった。特に感心したのは、音楽の使い方で、これは授業で喋ってみるつもり。

観始めて五分ぐらいで気づいたのであるが、主人公が長谷川博巳であった。この俳優を憶えたのは「夏目漱石の妻」であるが、すごく上手いと思った。俳優ってすごいなあ……

脚本は園子温がかなり若いときに書いたもののようである。ロックンローラーを目指す青年は仮面で?サラリーマンをやっているが、酷い扱いを受けている。彼はぼろい下宿でうつらうつらしているが、「朝まで生テレビ」で自分への批判を言われていると錯覚するほどに追い詰められている。この番組に出ているのが、田原総一朗をはじめ、脳学者の茂木氏や宮台真司、津田大介がいて、もっともらしいことを言っている。宮台など、主人公を「あり得ないですね。国辱です」とかなんとか言っている。彼が会社のビルの屋上で亀を買う。亀をつかって人生ゲームなどをやったりしながら、自分が2020年五輪会場でコンサートをうつ夢をみたりする。それから主人公は本当にロックスターになったりするが、なんだかんだあって、栄光の頂点で結局この下宿に帰ってくることになる。惨めな時代は、社会的な自分が仮の姿で真の自分が隠れているような気がしているのだが、結局成功しても同じなのである。西田敏行演じるサンタクロ-スは、捨てられたペットや人形を、下水道の隠れ家で綺麗にしてクリスマスに配っているらしいのだが、彼らはたぶんまた捨てられるであろう。愛は、下宿や下水道の中にしかない。

はじめ、「バットマン・リターンズ」みたいな映画だなと思ったが、少し違う。われわれの文化では、社会への絶望が深いせいか、主人公たちは自分の原風景のなかに帰って行く。

返せ

2018-12-11 23:21:06 | 映画
『ゴジラ2: キング・オブ・ザ・モンスターズ』 予告編2 (2019年)


おれたちのかわいい怪獣を返せ

功名をするためでもなければ、主君のためでもなかった。一途に恩を返すことを念としたのである。(菊池寛「恩を返す話」)

恩を返そうとするのはいいのである。ゴジラはだめだ。と思ったが、キングギドラの方が愛国心に関係あることをわたくしは今発見したぞ。

武富健治の『鈴木先生』というのを少し読んだが、やっぱり学校世界は酷い世界だな……と思わざるをえない。ここには恩を返すといった観念がない。みんなそれぞれに労働しているだけである。こんなところにいれば、世の中には崇高さや楽しさがあると考える人が多く出てくるのも分かる気がする。われわれはそろそろ、呪術的世界を否定できる情況に足を踏み入れたのかもしれない。

とすると――、やっぱりゴジラやキングギドラはいらんわ。アメリカにあげてもいいです。


昔男と三S

2018-12-10 23:08:10 | 文学


昔男が筑紫に行ったときに、簾の中から「あら風流な男っ」と言われたので

そめ河を渡らむ人のいかでかは色になるてふことのなからむ

と詠い、女が

名にしおはゞあだにぞ思ふあるたはれ島浪のぬれ衣着るといふなり

と返した。

 アメリカ文化はスポーツ、スリル、セックスの三Sだと云はれるが、スリルは即ち知識的には探偵小説、実践的にはギャングとGメンで、凡そアメリカ文学は文化国に於る最下等に属するものだが、探偵小説だけは例外で多くの傑作を生んでゐる。又、セックスと云つても、日本の恋愛は一般に純情であり潔癖淡白で、好かれた同志が外部の障碍を突破して目出たしといふ筋書であるが、アメリカは然らず、厭がる女を長年月にわたり手練手管、金にあかし術策を尽して物にするといふ脂ぎつた性質である。
 要するにスポーツ、スリル、セックス、品は変れども同趣味で、執拗なる根気と、術策と手管、之が彼等の日常の人生であり趣味であり信条だ。


――坂口安吾「予告殺人事件」


坂口安吾は、三Sが「日常の人生であり趣味であり信条だ」というが、そうだとすれば、上のやりとりなど、われわれの「日常の人生であり趣味であり信条だ」がどういうものか示していると言えなくもない。要するに、こういうやりとりに対して「で?」という質問はできないことになっているのがわれわれの世界なのだ。政治なんか、ほとんどの現象が上のやりとりみたいなものであり、いまはアメリカの生活の影響もあるから、うわべは染め河だたはれ島だとかと遊んでおきながら、裏では金でいやがる人間をもてあそぶ。安吾はモテなくても純情だと自分を思いたいせいか、アメリカが下等に見えてしまっていた。安吾より普通の人たちはもっとそうだったに違いない。我々は転向したという言い訳を屡々するものだ。

われわれは恥を知る以上に、目を覚ます必要がある。

マンガ家たちと花橘

2018-12-09 23:17:48 | 文学


さやわかと西大介編集の『マンガ家になる!』というインタビュー集を読んでいると、かなりの固有名詞が分からない。編者たちも言っていたが、まんがの全体像が分からなくなって、みんな好きな物しか読んでいないような状態が危ないと……。そういえば、文学でもそうなっている。おそらく、小説における「全体小説」の時代、まんがにおける何でも屋手塚治虫などは、その読書の網羅性と関係があるのだ。全体的なことを言うためには、全体的に読まなくてはならないわけであった。

あとは、作品が世に出る行程の問題で、その全体性もよく分からなくなっている。だからこういう本が必要になっているのだろう。

マンガ家になるためには、とにかく一日中描きまくらなくては、と――考えたわたくしなどにもそういう陥穽がある。

ところで、伊勢物語の男は、仕事が忙しい時代に女に逃げられたのだが、そのあと、その女の結婚している所にやってきて

女あるじにかはらけとらせよ、さらずは飲まじといひければ、かはらけとりていだしたりける

という状況が嫌らしい。で、有名な

さつき待つ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする

という古歌が出る。この歌を聴いた女は出家してしまう。このとき男には、「宇佐の使」という巨大なものが被さっている。このことが無関係であったはずはないっ。男は、一度は単に逃げられた女を、ついに自分の仕事で女を圧倒したことにしたのである。なんたるパワハラ……。

マンガ家たちは、たとえ女の立場にあっても絵を描き続けなくてはならない。『マンガ家になる!』に出てきた作家たちはエロまんがの経験者が何人かいたように思うが、エロまんがというのは、なんとなくであるが――、生活の中で中性的な感じがする。上の橘の歌のシーンが酷薄な生活を感じさせるのに比べて――。わたくしは、ここに、日本でエロ文化が生き生きとしている理由があるように思えた。

何となく桜が咲いて、花に包まれたような気がしていた

2018-12-08 23:48:51 | 文学


 ここに写し取る今は知らず。境の話を聞くうちは、おでん燗酒にも酔心地に、前中、何となく桜が咲いて、花に包まれたような気がしていたのに、桃とも、柳ともいわず、藤、山吹、杜若でもなしに、いきなり朝顔が、しかも菅笠に、夜露に咲いたので、聞く方で、ヒヤリとした。この篇の著者は、そこで、境に聞反したのであった。
「朝顔?」
 と。

――泉鏡花「白花の朝顔」