★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

タクシー運転手と波止場

2018-12-27 19:49:58 | 映画


『タクシー運転手』は光州事件を描いた非常によくできたエンターテインメントで、前にも韓国の学生運動の映画に対して述べたが――、これは「革命神話」作りなのであり、独立国家のためには非常に重要な要件なのだ。韓国は映画作りに於いて着々とその過程を踏んでいるようにみえる。むろん現実にはいろいろとあったに違いなく、ハリウッド映画のレジスタンスものがそうであるように、欺瞞とは隣り合わせである。しかし、問題は現実に志があった人間がいたかどうかなのである。思想があったかどうかと言い換えても良いが、スターリン批判などをやっているうちに隘路に陥っている人間が多すぎた。思想上の人格を自分の私性とどうしても分離できなかった人々は、親子関係みたいな事柄に問題の根本を移すしかなくなるのである。親子の絆云々の泥沼にわれわれが墜ちたのは、ハリウッド映画の洗脳だけによるのではない。

『タクシー運転手』でも、親子関係は重要であった。光州事件に遭遇しても母親をなくし自分しか頼る者のいない娘のいるソウルに彼は帰らなければならなかったからである。それが最終的に、政治的倫理と不可分に描かれているところが面白い。最後、運転手の主人公が、光州事件の時にともに現場から脱出した乗客(ドイツ人ジャーナリスト)と、彼が後に有名になってもパーソナルな関係を結ばなかったのは、娘を社会から守るだけじゃなく、事件の英雄になりうる自分の当事者性に疑念があったからであろう。彼は光州事件にただ金儲けのために遭遇しただけに過ぎず、同業者の犠牲によって生き延びただけだったからだ。しかし、彼はタクシー運転手として抵抗運動に荷担した。その自負が、かれを現在に至るまでタクシー運転手を続けさせている。運転手は、客のプライベートと関係を持ったりはしない。が、それこそが彼が英雄であることの証明なのである。――名乗らないけれども、このような庶民の中に軍事政権を追い詰めた当事者たちがいることを示すのが、この映画のイデオロギーだとしても、神話は上のような整合性のもとにしか成立していない。

思うに、われわれは、『古事記』の時代から、神話はなにかおおざっぱでいいと思っている節がある。これではいけないのではないかとおもう。(なぜわたくしがいつのまにか国民国家論者にっ。)明治維新の物語が沢山作られているが、どうも物語に浅ましさがつきまとう。たぶん、現実が浅ましかったからだろう。

園聆治の「波止場の愛情」(『コギト』昭7)を昨日読んだのだが、――『タクシー運転手』が、光州とソウルを往復する移動の物語であるのはいいとして、それがひたすら陸地であるのは案外面白かった。やはり韓国は国境線が陸地にある大陸の国家なのである。ある意味、事態を変えなければ逃げ場がないのだ。「波止場の愛情」の主人公は画家志望で中途半端に結婚してしまい、倦怠感に悩まされている。で、友だちと一緒に船に乗って気分転換。トランプをやっているうちに妻が気分が悪くなって優しくしているうちに「これでよし」とか思う。それだけの話であるが、それが船の上であることがなんとなく私には不安であった。そういえば「舞姫」も「第七夜」も船の上であった。陸に上がると不安もなくなるがわれわれは同時にだめにもなる。鯨の食文化なんてどうせないようなもんだが、鯨と仲良くしたいというところだろう。戦艦大和もでかい鯨みたいなものだった。潜ったし。