★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

人間と教養と

2022-04-07 23:52:57 | 思想


缺脣疎齒。若狡兎脣。偶入市。則瓦礫雨集。若過津。則馬屎霧來。阿毗私度。常爲膠漆之執友。光明婆塞。時爲篤信之檀主。

この前の部分でも、詳細に仮名乞児の描写がある。石川淳の「焼け跡のイエス」のようで、この場合は、なんだかしらないがそのまま浮浪児がイエスに見えるわけである。それは聖骸布の顔の様であり、実際のイエスよりも内面的な表面性をおびていて読者に、お前は何者かと問いかけるようだ。この場合は、乞児は単に不愉快な表象の塊であり、それに対する人々の反応も不愉快な表象である。市では瓦礫が雨の様に彼にふり、船着き場では馬糞が降り注ぐ。そんな表象と直接に隣り合っているのが、阿毘法師が友人であり、光明婆塞は施しをする「人間」の風景である。

ここで直接に隣り合っているのが重要であり、はじめから阿毘法師はそれであり、光明婆塞はそれである。転向も哀れみもなく、――つまらない理屈なく、彼らは乞児の友人であり生命を支える人間である。彼らはどのようにして「人間」であるのか。

昨今、背に腹は変えられない状況になって少数派を擁護し始めるやつは、むしろ信用出来るが、大学をはじめ社会は少数派を無視する方策をいかに巧妙に思いつくかみたいな状況になっている。偽物が脱落する時代である。わたくしなんか、はじめから偽物である自覚があるから、あるいは偽偽物になる可能性がある。

15年ぐらい前にレーニン全集が47巻送られてきたとき、さすがに置くところがなかったので、廊下にピラミッド風につんでおいたら、横に置いてあった山芋の根っこが第一巻に手をかけていてぞっとしてマルエン全集の横に移して差し上げた思い出がある。こういうのが良心かも知れない。わたくしは、生物としての人間の世界と教養の世界は離れているから、後者は「人間」的だと思うものである。

すごくひさしぶりに「草枕」読んだが、これ根本的にちょっとふざけて書いているところあると思った。わたしも毎日のように古典漢文を読む様になってからそんな気がするようになった。漱石はとにかく教養を鼻にかけたとてもいやなやつだと思った方がよい。赤シャツが吾輩猫のせりふを蕩々と喋っているのを想像すればよいのではないか。私は、漱石を非難してるのではない。こういう人間でないと「心」とか「夢十夜」は書けない。自分の「世界」の実在を確信していないとこうはならないと思うわけである。そして、当然そこにはものすごい自尊心があるに決まっているのである。

さっき、あるひどい童話を読んでいた。おそらく作者に教養がないのだ。だから、漱石みたいな「こう言っとくか」という背後のタメがなく、本気で書いているんだろうと思う。こういうのは心ある読者(子ども)にも通じるはずで、だから子どもを教える人間が教養をなくすのは危険なのである。世の中を文字を積み重ねりゃ記述できるみたいな思い上がりを生むのではなかろうか。


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