★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

権利獲得と暴力

2024-06-20 23:27:42 | 文学


 孫行者の華やかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒もまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執しておる。あるとき八戒が俺に言ったことがある。「我々が天竺へ行くのはなんのためだ? 善業を修して来世に極楽に生まれんがためだろうか?

中島敦の名作には女が足りない。――そういえば、大学入試で女子枠だとか言っているのをみると、ドこぞの学部だよとつい思ってしまうのは、わたくしが、男が圧倒的少数派の国文学科にいたということもあるが、部活でも圧倒的な数の女子を相手にしてきたことがあるからだ。いまでも相手にする学生の大多数は女だ。反動的といわれようが、課題はいつも男に文学を読ませることである。少数派の諸君、文学を読め。

だいたい女子を差別しているようなコミュニティは、女が余りに少ないもんだから引っ込みがつかなくなっているのか、女子以外にもたくさん差別している。女性差別主義者でありヒューマニストというのはありえない。差別というのが、認識を安定させて自分の不安を取り除くマジックになっているタイプが居るのである。

で、少数派や被害者は、暴力を国家に委譲した近代社会では、自由に息をする権利を獲得するために、法律を作る方向でうごく。しかしながら、それだけでは権利が手に入っても環境が作られない。声をあげられないものが法律が頼る機能が働き出すためには、法律への絶望、加害者に直接文句を言いにゆく元気がないとだめだし、逆もそうなのである。一方の何かに依存するやりかたはうまくいかない。本当は、暴力を国家に委譲したというのがフィクションであって、無根拠な屈服なのである。法律を活かすために潜在的な暴力が必要だ。みんながすぐ泣き寝入りモードになってしまうからといって、法律で加害者を摘発しようとしてもうまくいかない。エスカレートして摘発せんでもいいものまで国家がつかまえることにもなりかねない。国家も国民もすべて信用できないという事態が善を行ううえで重要なことである。

同じように、自分の自由な可能性を信じるには、自分の平凡さとだめさへの当然の意識がなければならないし、逆もそうだ。


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