★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悪魔崇拝と我々

2024-06-23 23:54:29 | 文学


廣謀といふ和尚すすみ出で、「老憎さばかり此装を愛し給ふならば、計を以て奪取りたまへ。今客旅の勞にて堂の中によく寝たり。急に堂の四方へ薪を積上げ、火を付けて燃殺さば、此袈裟自然老の東西となるべし」老僧是を聞きてかぎりなく悦び、「此はかりごと努めて妙なり」とて、僧に命じて共用意をなしたりける。此時悟空は三蔵と供に禅堂の内に眠り居たりしが、外面に人さわがしきを聞き、心にあやしみ、忽ち身じて一つ蜂のとなり、牕の間より出でて窺ふに、多くの僧ども柴薪をつみて堂をやかんとす。行者是を見て、果して師父の言のごとく我袈裟をとらんとしてかかる悪心を發しけるよな。よしよし我もまた他が計に就て計を行はん、とて直に天に駆登り、廣目天王の許に走り行き、辟火冪を借り来り、堂の上に打おほひ、其身は後房の屋上に坐して袈裟を守護し、火の燃出ちを待居たり。もろもろの僧徒、行者がかかる手術あるともしらず、禅堂の廻へ火を放てば、行者忽ち大風をまねき出し、火焰四方に散じて、本堂、方丈、回廊、鐘楼、ことごとく燃上り、防ぐべきやうあらざれば、憎徒皆あわてさわぎ

ここで悟空が「計に就て計を行はん」というのは、果たして善の行為であろうか、悪魔の所業であろうか。

ルイス・フロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」よみはじめたらとまらなくなったが、確かに面白い記述がおおい。じぶんで天使(西洋)と悪魔(日本)の構図を試みようとしてなんだかいろいろピントが狂っているようだが、ピントがくるっていようと写っているものは写っている。例えば、ヨーロッパ人は面と向かってお互いを嘘つきだというのは最大の侮辱なのに、日本人はお互いを嘘つきだと言って笑いあっている、という。いまでもかわらん。仁王や神将が寺社に飾ってるのを、我々は神だけを崇めているに日本人は悪魔も崇拝だ、みたいなのは確かに誤解と言えばそうであろう。しかし、キリスト教が結局異教を悪として殺してきたことを非難ばかりしてないで、われわれは時々「悪魔崇拝している我々」を冷静に見る必要はある。

御柱祭とかみこしまくりとか、ある種の悪魔崇拝的なものを感じるからな。。小正月のどんど焼きとかもあんなにもやさなくてもいいのにやたらもやす。わたくしは、自分の好むクラシック音楽のアダージョなんかが、こういうどんど焼き的なものと対立している気がしていた。

坂本龍一の音楽というのも、現代音楽や電子音楽、オリエンタリズムみたいなイメージでわけがわからなくなっているが、邦楽というか和楽の伝統につらなるものなのではないか。しかし、これはもともと中国の音楽を真似て引き延ばしたものだった。坂本の音楽には、最初からロックに通じるようなプロコフィエフみたいな悪魔性が欠如していて、その欠如性をつきつめたら、音楽が外からきて悪魔を追い出すものであることに気付いたという感じじゃなかろうか。

しかし我々には、動物らとともに悪魔が自らのうちからしばしばやってくる。


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