★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

公共的な、あまりに公共的な

2011-01-05 23:25:26 | 思想


先週から井上達夫編『公共性の法哲学』を最初から読んでいる。
はじめは、田島正樹氏の論文をチェックするために手にとってみたのであるが、編者のまえがきが、公共性への議論の簇生がきわめていかがわしいものであることを百も承知の上で議論を始めるのだ、と述べていたので思い切って買ってしまうことにしたのである。いままでは公と言えば滅私奉公のことでした、であるからして新たな公共が必要です──式の議論をする者のいかがわしさを私は日々感じるので、少なくとも共感はしたのである。常識を疑った結果を社会に還元します、知的刺激を受け与えてもゆきたいです、ありがたくおはなしを聞かせて頂きましたので質問します、こういう物言いを連発する人間が理由はわからんがどうも私欲に走るタイプであるのは今に始まったことではないにせよ、ちょっと最近はひどい。一部のリバタリアンの鬱積は爆発寸前だろう。私はこちらの暴発がどういう形をとるかも怖ろしいような気がする。ただ、こういう現状に対して、則天去私であれ且つ虚無の上に自我を置け、といった文学的逆説が威力を失っているとすれば、もういちど歴史的に人間の社会のありかたをギリシャから考え直すぜ、という流れは止まらないであろう。かかるとき、我々の社会を動かしている物語的いい加減さ──というかほとんど源氏物語的な磁場であるが──に論理的に反発して行くという心構えになる訳である。専門外の書物なので、かなり分からないところがあったが、論者たちの心意気はそんな感じだと思った。こういう議論の雰囲気は、昔の「近代の超克」論の時にもあった。私がそこらを勉強して得た認識は、ユマニストであることの困難──スコラ的になるのを避けようとして自らのルサンチマンが論理をねじ曲げるのを逆に見逃す危険性が常につきまとうということであった。

今日は、やっとこさっとこ、田島正樹氏の論文と谷口功一氏の論文までたどりついた。

田島氏の論文の感想はいつか書こうと思う。谷口氏の論についていえば、氏も言っているように鶴見俊輔の「二人の哲学者」のバリエーションというかんじであった。私は、「コミュニケイションの皮にかくれたデスコミュニケイションをはっきり見つめ、この量と質を計算しておかなければならない」という鶴見の意見がまあ妥当な意見だとはおもいつつも、こういう心がけをいかに維持するかという課題において、谷口氏が相対的に退ける中野重治の意見──だからこそ超階級的な、一般人間的なロマン主義?が必要なのだという当為と解すべきである──を避けることができないような気がしてきた。それにしても谷口氏の中野重治の文章の解釈はそもそもこれで大丈夫なのか、私は確かめたくなった。

とはいえ、谷口氏の引用する中野重治の『国会演説集』は私の家には見つからなかった。残念。