★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

きっくつごうが

2011-01-26 23:37:33 | 大学
×川大学に来て驚いたことはいろいろあるが、過去の文学を読むと自分の素養の無さに恥ずかしくなるような私が、「渡邊せんせいてときどき難しい言葉つかってますね」と言われたのもそのひとつだ。

これを言ったのは学生ではない。教員である。

私は反省し、人間とのコミュニケーション(笑)には、「弁証法的唯物論」とか「野驢馬あに青草あるに鳴かんや」とか「如是畜生発菩提心」とか、口走らないように心掛けたが(もともと口走ってねえよ……)、そういうことではなかった。

もっと卑近な言葉のことだったのである。

例えば、「媒質」とか「概念」とか「昇華」とか「慧眼」とかである。(いや、そうかな……。誰か教えてくれよ、何がわからんのか……。)

そういえば以前、ある教育学者が、「茶番」という言葉を「古色蒼然」と言っていた(いや、言ってなかったわ。「死語」と言ってたんだった。私が勝手に脳内翻訳してしまったわw)ので、びっくりしたが、本当に我々の世代以降の学者は大丈夫なのだろうか?20年ぐらい前から「わかりやすさ」ファシズムが席巻していて、それが、本当はわかりやすさを目指していたのではなく、分からない事柄に耐えられないタイプのルサンチマンが強力に作用していたことは言うまでもない。しかしそんなことはどうでも良い。問題は、和語と漢語の組み合わせによる独特な形而上的な感覚の消失である。ヨーロッパの文学も哲学もそんな感覚に溶かし込まれていた訳だが、近代文学からそういうものと、漢文と古文の素養を抜いたらどうなったか。「セブンティーン」(←ごめん)とか「恋空」が残るんだよ。脊髄反射とかいわれているものの正体はそれである。自戒をこめて言うが、学者だってこの流れと無関係ではない。「むかつく」とある種の「データ」しかしゃべらない学者が出てきたらどうするのか。映画化か?

私は、文化というのは基本的に佶屈聱牙なものだと思うのだ。(佶屈聱牙てパソコンで表示されるのかな。出ない場合は、ここを見てね↓)

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E4%BD%B6%E5%B1%88%E8%81%B1%E7%89%99/m0u/%E3%81%8D/