富岡多恵子の「芻狗」を読む。内容以前に、この題名の字面がよい。まさにケモノ的なものと抽象的なものとが重層している様が視覚的に示されているようだ。(縦書きにしてみるとよけいそうであるような気がした)
私のここ数年の興味は、上野千鶴子のように、「芻狗」と中上健次の「赫髪」を並べてみることで、目的を持たない〈性の荒野〉を社会の〈外部〉として浮かび上がらせてみることではない。たとえば、「芻狗」と瀬戸内晴美の「ふたりとひとり」を対置してみた場合、何がわかるかということである。今日も授業でしゃべったが、そこに「赤いスイートピー」を加えて考えても良い。
私は富岡も瀬戸内も、あるいは松本隆も、抽象をふくめた在るもの見ることを通り越して、ないものまで見てしまっているような気がするのであるが……
しかし現在の私はそこらへんを確信をもって語れないのである。柄谷行人の「地図は燃えつきたか」で最後に語られる、誰でもない存在に再生しようとする〈狂気〉のありかたにしてもそうだ。
よくわからなくなったので、学生にレポートで考えさせることにした。私の相手をさせられている学生諸君は実にアワレである。
私のここ数年の興味は、上野千鶴子のように、「芻狗」と中上健次の「赫髪」を並べてみることで、目的を持たない〈性の荒野〉を社会の〈外部〉として浮かび上がらせてみることではない。たとえば、「芻狗」と瀬戸内晴美の「ふたりとひとり」を対置してみた場合、何がわかるかということである。今日も授業でしゃべったが、そこに「赤いスイートピー」を加えて考えても良い。
私は富岡も瀬戸内も、あるいは松本隆も、抽象をふくめた在るもの見ることを通り越して、ないものまで見てしまっているような気がするのであるが……
しかし現在の私はそこらへんを確信をもって語れないのである。柄谷行人の「地図は燃えつきたか」で最後に語られる、誰でもない存在に再生しようとする〈狂気〉のありかたにしてもそうだ。
よくわからなくなったので、学生にレポートで考えさせることにした。私の相手をさせられている学生諸君は実にアワレである。