★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

文体と革命

2010-05-19 21:54:09 | 思想
北一輝の『支那革命外史』(大正8)を読んでいたらこう書いてあった。

「果たして然らば天賦人権説は今日に於ては愚論なりと雖も、ルソーの唱へたる家畜時代に於ては人類の近代的覚醒を報ずる暁鐘なりしことは蔽ふ能はず。この愚に近き平凡なる真理が独逸を覚醒せしめたるカントに取りては、人はそれ自身目的なり、手段としては取り扱はるべきものものにあらずと叫ばざるを得ざりしほどの人類物格時代なりき。」

北は果たして「ですます」調で、この内容を書けたであろうか。わたしの使う、ふにゃふにゃな文体ではカントは叫ぶことはできないのではなかろうか。北の高いテンションは、この文体を駆使するところから確実に来ている。北の思想に酔おうとするものは内容は二の次だからよけいに文体は大事である。クーデターに必要な文体があるのだ。おそらく、北のつくった「国家改造案原理大綱」はもちろん、「日本国憲法」でさえも、わたしの文章のようであってはならないのであった。

以前NHKの番組で、2・26事件の最中、反乱部隊の若者に原隊の上官が「なぁ、もうやめて帰ってこい」みたいなことを言い、若者の方は「はあ」「はい」と、いまの我々と変わらない感じで応えていた──そういう電話でのやりとりの録音を流していた。これを聴いたとき、わたしは、日本の社会の同調圧力とはこういう口調のやりとりのことだと思ったのを覚えている。

「私は思想的にいいたい。『来たるべき文化がプロレタリアによって築かれるものならば、それは純粋にプロレタリア自身が有する思想と活力とによって築かれねばならぬ。少なくともそういう覚悟をもってその文化を築こうという人は立ち上がらねばならぬ。』」

一方これは有島武郎だが、「思想的に」、「純粋に」、「少なくともそういう覚悟をもって」という息遣いがいかにも苦しそうである。