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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

アル・パチーノと蛙、そしてニーチェの熊さん願望

2010-05-11 08:29:25 | 映画
アル・パチーノが『スターウォーズ』のハン・ソロ役を断ったのは有名な話らしい。で、かわりのハリソン・フォードが一躍スターになったという。それでよかったね。そのころのアル・パチーノなら、監督の制止を振り切り、ダースベイダーをイタリア料理店で撃ち殺していたかもしれないからである。蛍光灯みたいな剣にしても、超能力の「フォース」なるものにしても、それを使う連中がなんとなくいろんな意味で小物で、オーラがないために使っているとしか思えない。アル・パチーノだったら目をカッと見開くだけで帝国軍は全滅だろう。私のような背の低い人間に勇気を与えるぬいぐるみ(いや、ヨーダさん)も小さすぎであって、原爆で日本を滅ぼしかけたアメリカ人はそこまでして日本人に謝りたいのであろうか。まったく間接表現にも程がある。

昨日、「パンズ・ラビリンス」というのをDVDで観たが、そこでも間接表現があった。途中で主人公の少女にみごとにやっつけられてしまう巨大な蛙である。あそこは別に蛙でもなくても良かろう。伝説の文脈があるからしょうがないとはいえ、少女を導くパンが代わりに蛙であっても良いはずだ。町山智浩氏によると、この映画の監督は、すごく太ってるらしい。そこまでして自分を否定しなくてもよいものを――私みたいな太り気味の人間に絶望を与える効果しかない。

木曜日の授業のために、ニーチェのワーグナー批判──彼は音楽家じゃないよ、「俳優」以外の何者でもない、彼のこと好きだったのに、俺の青春を返せ!といった感じのものだ──について考えていたので、上記のようなことを空想したのである。

ニーチェはこうも言っている。

「我々は熊に踊ることを教えなければならない。しかしそのために、我々自身が踊る熊でなければならないのではないか?」

別に熊にならなくても大丈夫だと思います。