★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

何方だかそれは分からんが、とにかく互の情熱情愛に、人畜の差別を撥無して、渾然として一如となる

2010-05-18 21:44:06 | 文学
アゲシラオスはタホス王に「僕は君にはアリに見えるかもしれないが、いつかライオンになるからね」と言ったらしいが、確か『ルイ・ポナパルドのブリューメル18日』にも引用されていた。問題は、アゲシオラスが、自分のことを何者と思っていたかはわからない、ということである。いつかライオンになるといっているからライオンじゃないが、アリでもない。

しかし思うに、昔は本当に人間がアリに見えたりライオンに見えたりした可能性はある。我々の認識というのはそれほどあてにならず、いってみれば文学的にできているからである。

最近、ある天才棋士が野良猫に餌をやり続けてるので糞がたくさんおちている、といって怒りのあまりその棋士を訴えたご近所の人達とか、組長の犬をバカにされたというので殴り込みをかけて捕まった人達とか、母親の位牌を倒したというので飼い猫をぶん殴って逮捕された人とか、がニュースに出ていた。

一体どうしたというのだ我々は人間様だよもっと余裕をもってくれよ……と思ってしまうのは、わたしの西洋ヒューマニズムの思い上がりかもしれないのだ。ついに我々の世界は、本格的に動物と人間が差別なく混じり合う物語的なユートピアに突入したのかもしれないのだ(昔あったね、犬みたいな馬が背中の鼠の指示を受けながら競走したり、ライオンキング(人)みたいな馬がインド洋を泳いで渡りインタビューに饒舌に答えたりする漫画が……、あんな感じです)。

オタクのみなさん、猫の耳などに興奮している場合ではない。自分が何の動物に見えるかはやく判断しといたほうがいい。迫害に備えて。ちなみに言い訳として「僕は君には**に見えるかもしれないが、いつかライオンになるからね」というせりふ、これは使えない。こんなせりふに騙されたやつはいない。アゲシラオスは運が良かっただけだ。

最後に二葉亭四迷の「平凡」でも引用しておく。

そのやっぱり犬に違いないポチが、私に対うと・・・犬でなくなる。それとも私が人間でなくなるのか?・・・何方だかそれは分からんが、とにかく互の情熱情愛に、人畜の差別を撥無して、渾然として一如となる。一如となる。だから、今でも時々私は犬と一緒になってこんなことを思う。ああ、侭になるなら人間の面の見えぬ処へ行って、飯を食って生きてたいと。
犬もそう思うに違いないと思う。……

犬はそうは思いません。