《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

ブログ「試練――現在史研究のために」について(3)

2012-12-28 22:30:08 | 思いつくままに
「現在史」という表現をしていることについて一言。現在史というコンセプトをすでに使用されている方もいるかもしれませんが、今のところ私は知りません。ここで、なぜ「現在史」としているかについて、説明します。

現代史とか近・現代史、あるいは同時代史、また現状分析、情勢分析、時代認識などの用語はさまざまに使われており、このブログで使っていく現在史も、それらに近い意味をもたせています。しかし、「現在史」には独特の一つの意味をもたせたいと考えています。

ところで、歴史や政治、経済、社会、運動、文化をとらえる際に、時代区分あるいは時期区分ということは不可欠の作業です。人間・人類の歴史にはある種の断絶、転換、転機というものがあるから、そうした作業は可能になっていると言えます。そうした意味では、まさに今現在は、歴史の中で、現代の一部なのでしょうか。それとも、後々からふり返ると、現代とは別のその次の時期区分に入るのでしょうか。
それはわかりませんが、少なくとも、19世紀半ば以降から21世紀の現在までは、一つながりの歴史として、現在進行形の政治、経済、社会、運動、文化がそれぞれの局面をもちつつも、連続した一つの動態変化としてあるものととらえなければならないと思うのです。
マルクスの生きた時代、レーニンの生きた時代、1930年代の世界大恐慌の時代などとの連続性において現在をとらえること、またその連続性の中での断絶として現在をとらえることが求められているのではないかと思うのです。言いかえれば、人間史を本質的連続性においてとらえることで、本質的な変貌、変化をも真にとらえることができると思うのです。
抽象的な言い方ですが、現在史とは、瞬間的な今というものを、およそ百数十年の流れの中で位置づけるという考え方を示そうとしているのです。

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