飛騨白川帰雲城を呑み込んだ地すべりあと
旧暦天正十三年十一月末(1585),午後j11時ごろ、白川沿いの帰雲城(かえりぐもじょう)の背後の山が
山鳴りを響かせながら、大規模な地すべりを始め、白川の流れを止め、土石流を発生させて周辺に被害を及ぼした。
上の写真は現在の地すべりあと。地すべりはマグニチュード 8.0~8.9 ともいわれる激震から始まった。
この地震は「天正大地震」「京都地震」といわれるもので、その規模と被害の大きさは記録に残されている。
地震の範囲を時計まわりに示すと北陸・甲信越・東海・伊勢・大和・紀州・摂津・若狭・敦賀・越前と600km四方に
及ぶ広範囲なものであった。震源は内陸部であるが、琵琶湖畔の沈没、敦賀海岸の水没消失など地震の範囲と
その震度の激しさは歴史的なものであった。地上の建物は城と神社仏閣の多くが壊れている。京都の三十三間堂の
五百仏像はすべて倒れて壊れた。琵琶湖東部の小浜城、名古屋清州城、岐阜城や伊勢の城が壊れた。
天正十三年の夏は記録的な大雨が続き、各地で地震が頻発していたといわれる。この夏、関白になったばかりの
秀吉が富山の佐々成政を遠征して攻めたのだが、戦死者よりも水死者のほうが多いといわれるぐらい降雨があったらしい。
帰雲城の背後の山は山腹に水分をため込んでいた。佐々成政支援に富山に遠征していた内ケ島為氏は
秀吉から帰城をゆるされて、城と城下町あげて祝宴を張っていたところであった。雪景色のなか、城から能楽の
調べが響き、山中に武者たちの幸せなさんざめきが聞こえていた。
一瞬にして、城と集落の家屋は山波に飲み込まれ、跡形もなくなった。住民数百人の姿はもちろん消えていた。
現在に至るまで、その集落の場所さえわかっていない。
地震地帯に雨が溜まったとき、地すべり、山くずれが起きたら甚大な被害となることを肝に銘じてもらいたい。
活断層が認められる山地や、海岸地帯は対策と予防策を講じなくてはならない。敦賀の大飯原子力発電所には
構内に活断層が走っており、地震と地すべりで、原発災害が発生する危険を孕んでいる。あの福島原発の1号機が
津波到着以前に地震で、破壊されていたことが判明している。原子力発電の関係者はこの歴史的事実に
謙虚に立ち向わなければならない。特に「天正大地震」海中に水没した海岸線に近い立地の原発は廃棄に向けて
準備を始めてもらいたい。福島の二の舞いは御免こうむりたい。