竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

今昔の三谷 ”三河大島の島取り話”

2021年05月03日 | 一般
令和3年5月3日(月)
お早うございます。

<5月3日は憲法記念日>

1947年のこの日に日本国憲法が施行したのを記念して、1948年7月公布・施行の祝日法によって制定された。
日本国憲法は1946年11月3日に公布され、半年の準備期間を経て翌1947年5月3日から施行された。
前文と11章103条の本文で構成され、「国民主権」「戦争放棄」「基本的人権の尊重」を基本理念としている。
なお、公布日の11月3日は、日本国憲法が平和と文化を重視していることから「文化の日」になっている。

さて今日は、今昔の三谷 ”三河大島の島取り話”を取り上げたいと思います。

<今昔の三谷、過去の掲載>
・三谷町の賑わい ”六間道路”・・・・・2014年02月26日
・今昔の三谷 ”星越バイパス”・・・・・2015年12月11日
・今昔の三谷 ”蒲郡市の誕生”・・・・・2018年03月30日
・今昔の三谷 ”東前地区の埋立て”・・・2018年04月29日

三河湾に浮かぶ蒲郡市の無人島・三河大島。
かつて地元の複数の村がその帰属を争い、手こぎ舟による海上レースで三谷が勝ち取ったという言い伝えが残っています。
現在の三河大島を管理するのは三谷町財産区です。
一九五四(昭和二十九)年に蒲郡市ができる前は旧三谷町の所有だった経緯から、合併後も地域性を残した形になっています。

 江戸時代中期の地誌書には大島が三谷村に属すると記されており、「島取り」のレースが実際に行われたとすればこれ以前か、明確な記録はなく、三谷の勝因や、争ったのも「三谷と形原の二村」から「三谷、不相、形原、西浦の四村」まで諸説あります。
 島の周辺が豊かな漁場だったので漁師らが争ったとの見方もあるが、三谷漁協の小林俊雄組合長(75)は「昔の三谷は海運業で栄えていた。漁船ではなく荷船の船頭たちが競ったのでは」と推測しています。
 島には神社がまつられています。
記録によると、一八一九(文政二)年に三谷村で大火があり、村を火災から守るために建立されました。
社殿は三谷の街並みを見守るように北向きに配置されており、人々は樹木が茂って見通しをふさがないよう手入れを続けてきいます。





三河大島の区割り図です。
明治29年4月16日 上区区長 竹内六太夫 殿 の名前がはっきりと読み取れます。

上空から見た三河大島、小島
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