竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

こどもの日(端午の節句)

2021年05月05日 | 一般
令和3年5月5日(水)
お早うございます。

今日は5月5日子どもの日です。
子どもの日といえば「こいのぼり」がすぐに出てきます。
では、どうしてこいのぼりを飾るのでしょうか?
「鯉」というお魚は、強くて流れが速くて強い川でも元気に泳ぎ、滝をものぼってしまうお魚。
そんなたくましい鯉のように、子どもたちが元気に大きくなることをお願いする意味が込められているよ。
五色の吹流しは、子どもの無事な成長を願って悪いものを追い払う意味が込められているんだって!



「館林こいのぼりの里まつり」は、群馬県館林市の鶴生田川(つるうだがわ)や、近藤沼公園などで開催されているお祭りです。
全会場を合わせると5,000匹を超える鯉のぼりの数は、2005年、ギネス世界記録にも認定されました。
桜やツツジの見頃とも重なり、美しい花々と共に鯉のぼりを愛でることができます。
夜間にライトアップされた鯉のぼりは、なんとも幻想的で風情たっぷり!大人も楽しめる鯉のぼり祭りです。

そして食べ物といえば、「柏餅」。
柏の葉でおもちを包んだものが柏もち。
柏の葉は、子孫繁栄の縁起を担ぐとされているよ。・・・柏餅(かしわもち)を食べよう。

 柏餅が日本の歴史に登場したのは、寛永年間(1624~1644)頃のようです。
柏の葉は、新芽が出ないと古い葉が落ちないという特徴があるので、 「子供が産まれるまで親は死なない」即ち「家系が途絶えない」という縁起に結びつけ、「柏の葉」は「子孫繁栄」につながります。
中国から渡ってきた端午の節句行事としては珍しく、柏餅は日本で生まれた食べ物だったという事です。
 当初は塩餡を用いていたようですが、江戸時代後期になって小豆餡や味噌餡が一般的になりました。
「守貞漫稿」5月5日の項で「男児生まれて初の端午には粽を配り、二年目よりは柏餅を贈る…江戸にては初年より柏餅を贈る」「赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には裡(うら)を出して標(しるし)とす」という風習が記されています。

粽(ちまき)
 柏餅が日本のオリジナル祝い餅な一方、粽は中国の行事とセットで日本へ伝わってきた習慣です・中国は戦国時代、紀元前278年のことです。
楚(そ)の国の高名な詩人、屈原(くつげん)は国王の側近としてつかえ、人々からも慕われていました。しかし陰謀のため国を追われることになった屈原は、ついに汨羅(べきら)という川に身を投げてしまったのです。
その日が5月5日。屈原の死を悲しんだ人々は、たくさんのちまきを川に投げ入れて弔いました。
ところが漢の時代に、里の者が川のほとりで屈原の幽霊に出会います。
幽霊曰く、「里の者が毎年供物を捧げてくれるのは有り難いが、残念なことに、私の手許に届く前に蛟龍(こうりゅう)という悪龍に盗まれてしまう。だから、今度からは蛟龍が苦手にしている楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい。」 と言いました。
 それ以来、楝樹(れんじゅ)の葉で米を包み五色の糸で縛って川へ流したので、無事に屈原の元へ供物が届いたのでした。
これが粽の始まりと言われています。屈原の故事から、中国では五月五日の節句には、節物として粽を作り、親戚や知人に配るという習わしが生まれました。
 そして、その風習は、病気や災厄(さいやく)を除ける大切な宮中行事、端午の節句となったと言われています。
時が流れて後、中国の三国志の時代、端午の節句は、魏(ぎ)の国により旧暦五月五日に定められ、やがて日本にも伝わって行きました。
そして日本へ端午の節句行事とともに伝わり、今日に至っているわけです。
 一説のよると、楚の国民達は、小舟で川に行き、太鼓を打ってその音で魚をおどし,さらにちまきを投げて、「屈原」の死体を魚が食べないようにしました。
その日が中国の年中行事になり、へさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する行事が生まれたそうです。
これは今日のドラゴンレース(龍舟比賽)の始まりとも言われています。 

台湾北部・台北市の大佳河濱公園での、端午節(旧暦5月5日の端午の節句)の風物詩であるドラゴンボートレース大会「台北端午龍舟錦標賽」。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今昔の三谷 ”三河大島の島取... | トップ | 渋沢栄一の言葉  ” ひとを選... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

一般」カテゴリの最新記事