竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

第二次世界大戦・終戦 宮城事件 決起

2018年08月15日 | 日本の歴史
平成30年8月15日(水)
今日は、戦後73回目の終戦記念日となりました。
二度とこのような過ちを犯さない為にも過去の出来事をしっかりと、後世に伝えていかなければなりません。

 1945年8月15日、午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により身柄を拘束された。
彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。
井田中佐と椎崎中佐は、近衛第一師団司令部で義弟の第二総軍参謀白石通教中佐と会談中であった師団長森赳中将に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。
井田の記録によると、森師団長は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされる。
井田中佐はこの言葉を聞き一時部屋を退出したと述べている。
入れ替わりに師団長室に入った畑中少佐は、しばらくすると部屋を出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉とその同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ再度入室した。
畑中少佐は無言のまま森師団長を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。同席していた白石中佐も上原大尉と窪田少佐によって斬殺された。
森師団長と白石中佐の殺害の詳しい経緯については、窪田少佐が東部憲兵隊で聴取を受けた際の聴取記録が残っており、概ね明らかである。

 この殺害後、師団参謀の古賀秀正少佐は畑中少佐が起案したと考えられる近作命甲第五八四号を各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じた。
ただし、古賀少佐がクーデター計画にどの程度積極的に関与したかについてははっきりとしていない。
また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。
宮内省では電話線が切断され、皇宮警察は武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸幸一内府は金庫室などに隠れて難を逃れた。
井田中佐は水谷一生参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍司令部を兼務)のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官と高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。
高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森師団長の殺害を知り畑中少佐らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。
芳賀連隊長はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。
宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されている。殴打した理由について若林軍曹は後日、「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、このままでは侍従が殺されてしまうと思った。それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」と親族に語っており、直接の殺意や害意は無かったと思われる。
宮城を離れた畑中少佐は第一中隊の占領する放送会館へと向かい決起の声明の放送を要求したが、職員の機転によってこれは防がれた。

 日が昇ってすぐの午前5時頃、東部軍の田中軍司令官が数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。
連隊長のそばに居た近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は東部憲兵隊により身柄を保護された(逮捕されたのではなく、石原は当日夕方には師団司令部に復帰している)。
午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。
その頃、陸相官邸では阿南陸相が自刃した(「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もあり)。
竹下中佐は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田中佐に示唆したが、井田は既にクーデターの失敗を悟っていた。
田中東部軍司令官は乾門付近で芳賀連隊長に出会い兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらに宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝えた。
これを境にクーデターは急速に沈静化へと向かった。
このとき既に畑中少佐らは断念しており田中大将が鎮圧したという俗説は誤りとする説もある。

 放送会館では東部軍からの電話連絡を受けた畑中少佐が放送を断念し、守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放された。
午前8時前には近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸幸一内府はここを出て御文庫へと向かった。

玉音盤 厳密には放送で使用されなかった1回目の録音のもの(副盤)で、NHK放送博物館で保存されている

2枚の録音盤は1回目に録音された録音盤を「副盤」、2回目に録音された録音盤を「正盤」として皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬された。
運搬に際しても副盤をいかにも正式な勅使らしい偽物を仕立てつつ、正盤は粗末な袋に入れて木炭自動車で運搬するという念の入れようであった。

最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎中佐と畑中少佐は宮城周辺でビラを撒き決起を呼び掛けた(佐藤大尉と藤原憲兵大尉が撒布したとの証言もある)が、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自殺した。

また古賀参謀は玉音放送の放送中に近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森師団長の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自殺した。

午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。

そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われた。

上記のようにクーデター首謀者中の生存者である井田中佐および稲葉中佐等の証言では、自分達より階級の低い自殺した畑中少佐が森師団長殺害以降のクーデターを主導したと示唆されている。
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