竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

竹谷松平家

2013年10月26日 | 十八松平家
 10月16日のブログで、十八松平(じゅうはちまつだいら)家を紹介いたしました。今日はその一つ竹谷松平家を紹介致します。
(十八松平とは、徳川家康の祖父である松平清康の時代までに分家したルーツを持つ、徳川本家を含めた松平家の18家である。)


丸に一つ引両
 竹谷松平家(たけのやまつだいらけ)は、松平信光の長男の松平守家を祖とする松平氏の庶流。三河国宝飯郡竹谷(現在の愛知県蒲郡市竹谷町)を領したことから竹谷松平家と称する。松平氏の分家では最も古く、代々松平宗家に貢献した。
6代家清は小田原征伐で宗家の徳川家康に従軍し、家康の関東移封後、武蔵八幡山1万石の大名となった。家清は関ヶ原の戦いでも功績を立て、三河国渥美郡吉田3万石に移封されるが、7代忠清に嫡子なく絶家となり、忠清の弟松平清昌が三河国宝飯郡に5千石を与えられ、蒲形(かまがた)陣屋を構えた。清昌の系統は帝鑑間詰の交代寄合の上級旗本として幕末まで続いた。


歴代当主
1.松平守家(もりいえ)?~1503年 本家3代目当主・信光の長男。竹谷に在住したことから竹谷松平氏と呼ばれた。

2.松平守親(もりちか)?~1526年 守家の長男。大永6年(1526年)に死去した。

4.松平清善(ちかよし)1505年~1587年 守親の長男。今川義元が戦死すると家康と共に今川氏から離脱し、永禄5年 (1562年)に上ノ郷城の鵜殿長照を攻め落として戦功を上げた。

5.松平清宗(きよむね)1538年~1605年 清善の長男。三河一向一揆や掛川城攻めなどの戦いで活躍し、家督と領地を長男の家清に譲った後は家康から二千貫文の地を賜わり、駿河興国寺城で暮らした。

6.松平家清(いえきよ)1566年~1610年 清宗の長男。天正9年(1581年)、元服の際に家康から家の字を賜って家清と名乗り、家康の異母妹を妻として娶る。関東入国後は武蔵八幡山にて一万石が与えられ、関ヶ原の戦い後は三河吉田三万石の大名となった。

7.松平忠清(ただきよ)1585年~1612年 家清の長男。父の死後に遺領を相続したが、慶長17年(1612年)に急死し、子供がいなかったため無嗣断絶の危機に陥ったが、忠清の母が家康の異母妹ということもあって弟の清昌が三河西郡で五千石を賜わって相続した。

8.松平清昌(きよまさ) 文禄2年(1593年) - 承応4年3月18日(1655年4月24日)
文禄2年(1593年)、 徳川氏家臣で三河吉田藩の初代藩主となる松平家清の庶子として誕生。異母兄に松平忠清がいる。
はじめ江戸幕府に江戸城書院番士として仕えた。慶長17年(1612年)、父の死後間もなく家督を継いでいた兄・忠清が死去し、三河吉田藩の竹谷松平家は無嗣除封となった。ところが幕府は封地没収としながらも替地として縁ある三州宝飯郡西ノ郡領の地へ清昌を配し、11ヵ村5,000石の領主として清昌への跡式相続が許されることとなった。こうして竹谷松平家は大名から交代寄合となった。なお、藩内には父の弟・清定が家老格として3,200石を給されており、その子である清信への相続も考慮されたが、清信はまだ9歳と幼少であったため、年長の清昌を跡目としたといわれる。家名は存続したものの、3万石が5,000石にまで低下し、緊縮財政の政策が求められた。そこで、それまでの菩提寺が、初代からの龍台院と三河吉田藩以降の全栄院などに分かれていた諸院を、全部併せ龍台山天桂院とした。

9.松平清直
10.松平清当
11.松平義堯
12.松平義著
13.松平義峯
14.松平守惇
15.松平守誠
16.松平善長
17.松平清良
18.松平清倫
19.松平敬信


三河・竹谷城写真館>



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