竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

英霊の言乃葉 妻への手紙 絶筆

2014年05月20日 | 英霊の言乃葉
<英霊の言乃葉 妻への手紙 絶筆>を紹介いたします。
海軍少将 嶋崎 重和 命 昭和20年1月9日 台湾方面にて戦死 大分県宇佐市大字金屋出身 37歳

 御無沙汰仕り候、梅子、重明、瑞枝、高橋の皆さん、皆元気に候や。小生去る十月十日第○航空艦隊参謀に転勤、同時に大戦争が始まったので、すぐ戦地に掛付けた。
 戦争の様子は新聞で御承知の通り、兎に角今迄の様な生易しい戦ではない。真に食ふか食われるかのきびしい戦だ。今日で約50日、いつも敵の爆撃の下で出発の時着ていたシャツ1枚で、まだ風呂にも入ってうない。食物も不自由、ただ懸命に戦っている。兎に角このフィリピンから敵をたたき出せねばならぬ。長井大尉も、柴田中尉も、北尾中尉も、台湾沖で赫々の武勲を立てて戦死された。木更津の部下も殆ど斃れた。転た寂莫の感無きにしもあらず。今宵も明月だ。今もレイテ湾で戦友は戦っている。
 内地はもうボツボツ寒からう。こちらはまだ夏だ。明け方丈少し涼しい。一度風呂に入ってネマキを着て寝たい。これが今の一番の希望だ。それから野菜と漬物が食べたい。挙母の畑がなつかしい。
 健康を祈る。  十一月二十七日   重和   
梅子殿

 鉄道局技師・澤重元の三男として奈良市で生れ、嶋崎家の養子となる。上野中学校、岡崎中学校を経て、1929年(昭和4年)3月、海軍兵学校(第57期)を卒業。1930年(昭和5年)12月、海軍少尉任官。 高橋赫一の薦めにより、高橋の妻の妹と結婚する。
1932年(昭和7年)12月から翌年7月まで、第23期飛行学生として訓練を受けた。1935年(昭和10年)10月、「加賀」分隊長となり、霞ヶ浦海軍航空隊・「蒼龍」・横須賀海軍航空隊の各分隊長を経て、1939年(昭和14年)6月、練習航空隊高等科学生となる。同年11月、「赤城」分隊長に着任し、1940年(昭和15年)11月、海軍少佐に昇進し霞ヶ浦空飛行隊長に就任。第14航空隊飛行隊長を経て、1941年(昭和16年)9月、「瑞鶴」飛行隊長に異動し太平洋戦争を迎え、12月8日の真珠湾攻撃おいて第二次攻撃隊長として参戦した。26日昭和天皇へ真珠湾攻撃の軍状奏上を行う。
1942年(昭和17年)8月、名古屋海軍航空隊飛行長となり、横須賀空飛行隊長、第752航空隊飛行長を歴任し、1944年(昭和19年)10月、海軍中佐に進み第2航空艦隊参謀に就任した。1945年(昭和20年)1月8日、第3航空艦隊司令部付となり、翌日、台湾方面で戦死。全軍布告され2階級特進し海軍少将となった。

嶋崎重和 海軍少将
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