ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

特報!セガンの実践の場の写真

2018年09月19日 | 研究余話
 2012年10月下旬に、フランス、ニエヴル県クラムシーで開催された「セガン生誕200周年記念シンポジウム」会場に展示さえていた写真の数々のうち、明確な史実として確信することができていなかった2葉の写真の被写体の具体を特定することができた。(今頃、なんだよ!)
 ビセートル救済院内の精神病棟エリアには児童病棟がある。白痴、癲癇、精神病などの子どもが収容されていた。白痴と転換は混住、精神病他と区別されている。写真はその児童病棟の全容。19世紀末のものと思われる。この児童病棟には「セガン棟」と名前が付けられていた。

 そして、セガンが働いた主要な場である「白痴学校」。その正面写真。
 児童病棟と白痴学校との位置関係の具体はわからない。それを明らかにするのも、セガン研究の宿命なのだろうか?白痴学校は精神病治療の一環とされていたから、ビセートルの治療部門(第1セクション)内の「児童部門」で当て、管理対象としては、「児童病棟」ではない。今後詳しくしていく課題である。

「ビセートル史」記述に、次のようなことが書かれている。精神病棟エリアが第1セクションから第5セクションまである。その第1セクションにかかわって。
「十分な広さの1つの中庭の両端には、2つのホールがある。1つは36床があるホールである。そこは回復期にあって労働をしている人たちの寝るところである;もう1つは、石塀で囲まれており、塀に添って道が通っている。ただ、不衛生故に、患者を通行させることができない。つい最近、このホールは利用されるようになった。そこに食堂と学校とが一つずつ設置された。」
 つまり、「白痴学校」はホールの利用であり、児童病棟との関係はないようだ。不潔で通行できないようなところ。要するに日陰であり、治療等に要する「水」などが垂れ流されていた、ということだろう。ヴォアザンがこの不使用建築物に目を付けて、「学校」を設置した。1839年のことである。
 さあ、こうなると、当時のビセートル救済院の見取り図が欲しくなるなあ。

翻案 パリ・コミューンと少年(7)

2018年09月18日 | 研究余話
2-2  学校、そこでぼくたちは時々、プチ・ヴァンヴの石切場の白い石鹸石を一つ使って、一緒に楽しむ。学ぶのはとてもやさしいから、誰でもできる!それにとても楽しい。
 パパとママンはドイツ人に対してどんな憎しみも持っていない。おじいさんはアルマーニュのマインツの出身だ。ドイツの第一議会の代議士で、おじいさんは、逃げなければならなかった。1848年の革命の驚きが過ぎ去り、封建制は、彼が言うように、再び支配力を取り戻し、民主主義者を監獄に入れた。印刷業者だった彼はフランスに隠れ場を見つけた。それにも関わらず、ぼくたちの不幸の原因であるビスマルクとプロイセン人とを彼が非難することに変わりはない。彼はプロイセン人と他のドイツ人とのあいだの違いに気づいている。
 ぼくは彼ら、プロイセン人たちがシャンゼリーゼを占拠しているのを見かけた。パリの他の界隈では、窓に黒い旗が垂れ下がっていた。おじいさんは、老練なティエールが美しい街を彼らに引き渡すはずがない、と言っていた。まったく、彼が、プチ・モントロージュやベルヴィル、フォーブル・サンタントワーヌ、ラ・ビュット・オー・カーユ、モンマルトルといった要所を、彼らに渡すはずはない。
 「ピエロ、忘れるんじゃない、ティエール、ナポレオン、それにビスマルク、みんな同じだよ。彼らがフランス人であるとかドイツ人であるとかということはどうでもいい。おまえとしては、働くための手の他は何も持たない人々の側にいるのは誰なのか、あるいはすべてを持っている人々、なぜかって、彼らは卑劣なやり方で私たちの労働で暮らしているのだから、そういう人々の側にいるのは誰なのかを知っているために、いつも 目を開けておきなさい。」
 ぼくは黒の色が好きだ。それは生活のために身を守る激しい意欲以外の何ものをも語っていないのだから。

翻案 パリ・コミューンと少年(6)

2018年09月17日 | 研究余話
2ー1  妙なことなんだけど、ぼくはママンとパパ、おじいさん、ぼくにとって幸せでありたいと、将来のことを思えば思うほど、ますますぼくは過去のことを考えてしまう。ぼくの頭の中ではたくさんの光景が押し合いへし合いしている。ママンは言う、ぼくたちがつい先月体験したことすべてが思春期の人間にとってはあまりにもつらすぎるのさ、と。パパは言う、人間であるために苦しむんだよ、と。パパは、生まれること、ママンのおなかから出ること、人間ばかりじゃなく、おかあさんの胎内から生まれることは、他のことよりずっとすばらしい出来事だ、でも生まれてからは争いが絶えることはない、と言い足す。ぼくはそれらのことがよく分かったわけではない。だけど、それらのことは正しいと感じた。ぼくは二人とも愛している。
 地区の友だちの、アンドレやアルフレッド、マティウと話し合うことがあった。誰も学校に行っていない。彼らは両親を愛していると認めることが、時々、つらくなると、ぼくは思ったことがあった。パパは、ぼくが学校に行っているんだから恵まれている、それにぼくの家には本もある、と言う。おじいさんの本、中でもヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』。彼は国会の下院議員を務めている人で、流刑者のことを書いた人だ。ぼくもその本が好きだが、両親もおじいさんも、そうだ。だって、彼らは、その本の全部を話してくれるまで、途中でやめないもの。
 ぼくは、時々、ムッシュ・パタンのことを知らない友だちのことを考える。だって、彼らはいつも、食べることでさえ簡単ではない。寝るところの苦労をしている。アンドレのママンとアルフレッドのママンは他の家の洗濯している。マティウは自分の父親も母親もまったく知らない。彼はおばあさんと一緒に暮らしている。おばあさんは、戦争の前、大きなお店の下請けの仕事をしている家で、刺繍をしていた。
 それにほら、ぼくたちが小プチ・ナポレオンによってはっきりと戦争に負けてしまってから。ティエールとその政府が、ぼくたちに、プロイセン人に従うように言いふらしているだろう!奇跡的にも、ぼくの友だちがおなかが空いたときに食事をし、本当のベッドで眠り、そして学校に行くことができる、決して貧しくはないプロイセン人とティエールが、そのようにするかのように。

翻案 パリ・コミューンと少年(5)

2018年09月16日 | 研究余話
1-5  昨夜、ママンはウジェンヌに尋ねた。「うちの人が今いるところは、どこだろうねぇ。」
 モンマルトルに!彼女は教えてくれた、モンマルトル!って。モンマルトルの丘の上。シャン・ド・ポロネに。パパは大砲を守ってる。
―それで、ぼくはママンにせがんだ。お願い、ぼく、パパに会ってきていいでしょ。会いに行かせて。パパはきっと下着が必要だよ。ママン、いいでしょ?
 ママンの父親であるおじいさんも、ぼくに味方して口添えをしてくれた。「いいよ」。ママンはとうとうぼくたちに応えた。それからぼくは、ぼくの先生、ムッシュ・パタンに会いに行った。先生にはモンマルトルにはどうやっていくのか、聞きにいったのだ。先生は、黒鉛筆を片方の手に、もう片方の手に赤と緑を持ち替え持ち替えして、すっかり描いてくれた。両方の手を使って同時に書いたり描いたりするような、そんなすごい能力を、ぼくはこれまで一度も見たことがない。
 ぼくはすっかり興奮してしまって、ほとんど寝なかった。目を覚ましたとき、ママンは一晩中、起きていた。ママンは、パパのために、この下着の小さな包みを用意してくれたんだよ、パパ。ぼくがプチ・モントロージュを出たときは、まだ夜だった。ラ・セーヌを渡ったとき太陽が昇った。

翻案 パリ・コミューンと少年(4)

2018年09月15日 | 研究余話
1‐3 「さあ、おれのピエロ?みんな見てくれ、これがおれのピエロさ!」パパはとても自慢げに言い、近くにいた仲間たちの方に幸せそうな顔をぐるりと回した。仲間たちは噴水の水で下着を洗っていたのを中断した。
 パパはまだ嬉しくて心が高ぶっているようすだ。男たちはほほえんでいた。彼らの一人が言った。
「へえ、なるほど、この子がおまえのピエロかい!ああ、みんなこの子のことを話題にしているし、おまえがおれたちにこの子のことを話しているよね。で、まったくいきなりこの子が来た!
 で、君、ピエロ、なぜ君の父親がここにいるのを知ってるのかね?」
 男の人は、ぼくの父親とまったく同じようにひげ面で、無愛想に見えた。その人も父親も、口元にいっぱい笑みを漂わせ、うなずいて、ぼくに応えるように促した。
「パパ、ウジェンヌが、昨日の夜、うちに来てね、パパがモンマルトルにいるって教えてくれたんだ。」

 

翻案 パリ・コミューンと少年(3)

2018年09月13日 | 研究余話
1ー2  少し前、ママンが用意してくれた小さな包みを持って、ぼくはピガール通りを急いで駆けていた。やがて、遠くに青いもの、白いもの、そして赤線の入った青いものが浮かんで目に映ってきた。それらは、ぼくがぐるーっと見渡して見つけた噴水の縁のところで、ほとんど動かなかった。まちがいなく、国民衛兵隊だった。
 ひとつのグループはブルーマリンの上着を身につけていた。もうひとつのグループは、もっとくつろいだ恰好で、白いワイシャツだけの姿だった。それは赤が縫い込まれた仕立てのズボンと対照をなしていた。三つの色が集まっているのが非常にすてきだと思った。とても純粋で、とてもすっきりしていた。でも、パパの姿を見分けることはできない。
 ぼくはこの噴水をはじめて見た。なぜって?噴水はぼくの家からあまりにも遠すぎたのだ。

翻案 パリ・コミューンと少年(2)

2018年09月12日 | 研究余話
1ー1 おおぃ、ピエロぉ!
 パパがすっくと立ちあがり、ぼくを認めた。両腕を広げた。ぼくは走りを続けた。パパの首に飛びついた。パパの手はずぶ濡れな上に、ぼくをきつく抱きしめてきた。ぼくの両足が地面には届かなくなるほどに、抱き上げた。
 パパが笑った。ぼくも笑った。ぼくは泣いた。パパも。両の目には涙がいっぱい溢れていた。軽くカールしたパパのひげが、ぼくの鼻、頬、耳を代わる代わるくすぐった。ぼくたちは会えない日々がとても多かった。いいや、パパと会うなんてことは考えてもいなかった。それほどこの時代の毎日毎日が騒がしく不安だった。
ぼくの心臓は、もうちょっとで変になってしまうほど、激しく動悸を打っていた。
 長い間ぼくはパパの首にぶら下がっていた。時間が時間でないなんてことは、多分、ぼくの生活のはじめてのことだ。:一秒が一時間でありえたし、一時間が一秒でありえた。ぼくは幸せだった。パパもそうだ。
 パパは石畳の上にぼくを降ろした。ぼくはようやく、もうさみしくないんだという意識を取り戻した。

パリ・コミューンと少年(1) 原著者まえがき

2018年09月11日 | 研究余話
 本連載はFrançois Mathieu,“J’étais enfant pendant La Commune de Paris", éditions du Sorbier, 1997. を底本とした翻案児童文学である。

原著者によるまえがき
 ドイツは、まだ、39の政府の一つの連邦の形態ではなかった。プロイセンの首相、ビスマルクはプロイセンによって支配された大ドイツを望んでいる。そのようなドイツがフランス国より強大なヨーロッパの一国になることを恐れて、ナポレオンⅢ世は、1870年7月に、プロイセンと対立し、プロイセンに宣戦布告した。数週間後に敗北する。パリは屈辱に発憤し、共和国を宣言する。
 しかし戦争は続き、プロイセン人たちはパリを包囲する。パリは15万人の兵士と30万人の国民衛兵隊とで防戦する。恐ろしい月々は1871年1月の終わりの休戦協定で完了する。ビスマルクはつぎのように望んでいた:そのうちに、ドイツ帝国はヴェルサイユで宣言される、と。フランスでは選挙が行われる。:地方の国民議会下院議員の大多数は王党派である(右派)。パリは共和派である(左派)。国民議会と、その長であるティエールは屈辱的な平和条約にサインをし、不評な措置をはかる(たとえば、国民衛兵隊の1.50フランの俸給を削除する。それは、5度にわたるプロイセンの包囲以降は、パリの大部分の家庭にとって唯一の収入であり、アトリエが、つまり仕事場だが、まだ閉ざされていた時のことである。)。しかしパリはあきらめず、3月18日早朝に、ティエールが街を武装解除しようとしてから、4,000人の兵士が、国民衛兵隊の大砲を引き取るために、モンマルトルの丘に登ることに着手した……。ティエールは政府をヴェルサイユ-宮殿-に置いた。数日後に、国民衛兵隊の中央委員会が選挙を組織し、その上、パリの人々に権限を委ねた。:それが「市の共和制」であるラ・コミューンであり、大胆で非常に困難な、独立した社会共和制の経験は、9週間存在した後、残酷に圧しつぶされた。




Enseignement の訳語

2018年09月10日 | 研究余話
Enseignement は、字義的には、「教育」「教職」そして「教訓」である。
サン=シモン教の教義書(活動記録を含む)に、
Religion SAINT-SIMONIENNE.
Enseignement central
(EXTRAIT DE L’ORGANISATEUR.)
という、1831年刊行書物がある。
これをどう邦訳題にするか。

サン=シモン教
中央Enseignement
(『オルガニガトゥール(組織者)』紙抜粋)

 「教職」はない。「中央教育」?「中央教訓」? もっと宗教的な活動を意味する言葉はないものか。
 évangélisation福音の唱導という意味内容だろうか。だとすれば「伝導」という言葉を選んでも誤りではあるまい。セガン研究でサン=シモン教に関してはenseignementに「伝導」との訳語を当てようと思う。




サン=シモン家族で第3位階に位置付けられた「セガン」

2018年09月09日 | 研究余話
 19世紀フランス史書には人物名Seguinは、複数名登場する。我らがセガンはそのうちの1人でしかない。史書関係で明らかにされているのは、1848年革命にかかわって登場するバルべ巣が中心になって組織した委員会メンバーであり、Edouard Seguinと署名しているから、間違いなく我らがセガンである。
 しkし、アンファンタンによってサン=シモン家族の一員だと承認されたSeguinは我らがセガンではない、とする者もあらわれるに至っては、のほほんとしているわけにはいくまい。事実はこういうことである。
 『サン=シモンおよびアンファンタン著作集』(1865)の第3巻に1831年5月の記録で、third degreeのメンバーとしてセガンの名が挙げられている 。それとは別にSébastien Charléty, Histoire du saint-simonisme (1825-1864). PAUL HARMANN, 1931. p.78.に 、1831年6月の記録として、「(入信希望者を除く)」とのカッコ書きを付け、サン=シモン主義「家族」全員79名の名前が載せられている。やはり3e degréの39人の一人としてSéguinの名を見ることができる。両著で使用されているメンバー・リストは第一次史料として扱うことができる。
 だが、両史料に登場するSéguin(あるいはSeguin)が、我らがエドゥアール・セガンであるのかどうか、多少の検証を要するだろう。同時期、社会活動家でファースト・ネームをSéguin(あるいはSeguin)とする人物が複数名いることはすでに明らかにされているからである。
 これまでの我が「セガン研究」では、セガンその人を追跡調査することによって、我らがセガンだと、断定してきた。今もその核心に揺らぎはない。しかし、そうではない、という論が登場し、支持を得ているとなれば、その論を検証し、批判をしなければなるまい。
 だが、それはぼくの「仕事」なのだろうか。そんな戸惑いのある今。