ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

『教育に関する報告』目次(邦訳版)2 第3部・第4部

2018年06月30日 | 研究余話
第3部 白痴と精神薄弱の教育 (合わせて『知的障害教育』とすべきか。
第1章 白痴のための他国の学校
XXXII 起源 アヴェロンの野生児
XXXIII 1.ドイツの白痴学校
XXXIV 2.ベルギーとポーランドの学校
XXXIV フランスの学校
XXXV ビセートル
XXXVI ラ・サルペトリエール
XXXVII イギリスの学校
XXXVIII (イギリス)東部伯爵領の精神病院
XXXIX (イギリス)アールスウッドの学校
XL ランカスターの学校
XLI ノーマン-フィールドの学校
XLII スコットランドのラルベルグ教育施設
XLIII 愛徳会組織委員会プログラム
XLIV スイスのクレチン病患者
XLV イタリアのクレチン病患者
第2章 白痴の子どものためのアメリカの学校
VLVI バレの学校
XLVII ニューヨーク州の教育施設
XLVIII ペンシルヴァニア州の師範学校
XLVIX オハイオ州の師範学校
L 生理学的方法の後の白痴の授業に関する幾つかのポイント
a) 玩具を使った訓練方法
b) 音楽による訓練
c) 視覚による訓練
LI 結語

第4部 大衆教育
第1章 私が見てきた地域公立学校
LII 近年の起源
LIII イギリスの大衆教育
LIV スエーデンの諸学校
LV スイスの諸学校
LVI イタリアの諸学校
LVII ポルトガルの諸学校
LIX ドイツの諸学校
LX ベルギーの諸学校、ポーランドの諸学校
LXI フランスの大衆教育
LXII アメリカの大衆教育
LVIII 基準(選抜試験?) 
第2章 これからの地域公立学校
LXIV 設計明細
LXV 教室の図書
第3章 庭園学校
LXVI. a)この理念の起こり
b)生理学的教育の原則
c)理念の発展
d)最初の庭園学校
e)植物園
g)モンス-リ公園
LXVII ケンジントンとシデナム
XLVIII ニューヨーク公園
LXIX アメリカの他の公園
LXX 村の庭園学校
LXXI 地理、指導
LXXII 測定
第4章
LXXIII メートル法
第5章 感覚教育
LXXIV 現在の状況
LXXV 医学的観点での感覚教育
LXXVI 産業的観点での感覚教育
LXXVII 手の教育
LXXVIII 目の教育
LXXIX 書くことと読むこと
LXXX 話すことと語ること
LXXXI 言語
LXXXII 楽器
LXXXIII 想像力
第6章
LXXXIV 学校組織
第7章
LXXXV 教育における性について
第8章
LXXXVI 先生の性について
第9章
LXXXVII 学校長
LXXXVIII 小学生
LXXXIX 心理生理学のマニュアル
第10章
結語 まとめ
コメント

『教育に関する報告』目次(邦訳版)1 第1部・第2部

2018年06月29日 | 研究余話
第一部 児童教育
第1章「ゆりかご」と託児所
I 導入
II 「ゆりかご」
III 託児所
第2章 保育室
IV 先生のような母親
V 保育室
VI 目標
第3章 幼稚園
VII 目標と目的
VIII 歴史
IX 方法
X 授業
第4章 生理学的児童学校
XI 起源と基礎
XII 生理学的考察
XIII 授業
XIV 授業の組織について
XV 教育への適用
第5章 感覚について
XVI 感覚内容について
XVII 実物教育

第2部 聾唖教育
XVIII 導入
第1章 ポーランド-ドイツの学校
XIX 歴史
XX 方法の拡がり
XXI 方法の成功
XXII 集団教育
XXIII 結論
第2章 フランス-スペインの学校
XXIV 歴史
XXV ペレールの方法
VVVI 科学アカデミーへのビュッフォン報告
第3章 ド・レペ師とその時代
XXVII 歴史
第4章 イギリス-アメリカの学校
XXVIII 歴史
XXIX 可視言語
XXX ドイツの方法
XXXI 比較

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『教育に関する報告』目次(フランス語版一括編)

2018年06月28日 | 研究余話
 『教育に関する報告』は入手が困難であり、書物の全体内容(概要)についてもあまり知られていない。しかし、セガンにとっては、「1846年著書」の続編ともいうべき位置づけにある。向後のセガン研究に資するであろうと思い、目次を以下に掲載する。ただし、フランス語翻訳版のそれであることはお断りしたい。
 目次の和訳については逐次アップしていく予定である。

Rapports sur l'Education 原題 Report on education

PREMIERE PARTIE Education de l'enfant.
CHAPITRE PREMIER.
Le berceau et la crêche.
I. Introduction
II. Le berceau
III. La crêche
CHAPITRE II.
La salle d'asile.
IV. Les mères considérées comme institutrices
V. La salle d'asile
VI. Buts
CHAPITRE III.
Les jardins d'enfants.
VII. But et objet
VIII. Historique
IX. Méthode
X. Enseignement
CHAPITRE IV.
Ecole enfantine physiologique.
XI. Origine et base
XII. Considérations physiologiques
XIII. Enseignement
XIV. De la symétrie dans l'enseignement
XV. Application à l'éducation
CHAPITRE V.
Des sens.
XVI. De la sensation
XVII. Leçons de choses
DEUXIEME PARTIE Education des sourds-muets.
XVIII. Introduction
CHAPITRE PREMIER.
L'école hollando-allemande.
XIX. Historique
XX. Etendue de la méthode
XXI. Succès de la méthode
XXII. Enseignement collectif
XXIII. Conclusion
CHAPITRE II.
L'école franco-espagnole.
XXIV. Historique
XXV. Méthode de Péreire
XXVI. Rapport de Buffon à l'Académie des Sciences
CHAPITRE III.
L'Abbé de l'Epée et son temps.
XXVII. Historique
CHAPITRE IV.
L'école anglo-américaine.
XXVIII. Historique
XXIX. Langage visible
XXX. Méthode allemande
XXXI. Comparaison
TROISIEME PARTIE Education des idiots et des faibles d'esprit.
CHAPITRE PREMIER.
Ecoles étrangères pour les idiots.
XXXII. Origine. Sauvage de l'Aveyron
XXXIII. 1. - Ecoles allemandes d'idiots
XXXIII. 2. - Ecoles belges et hollandaises
XXXIV. Ecoles françaises
XXXV. Bicêtre
XXXVI. La Salpêtrière
XXXVII. Ecoles anglaises
XXXVIII. Asiles des comtés de l'est
XXXIX. Ecole d'Earlswood
XL. Ecole de Lancastre
XLI. Ecole de Norman-Field
XLII. Institution écossaise de Larberg
XLIII. Programme du Comité d'organisation de la Charité
XLIV. Crétins suisses
XLV. Crétins italiens
CHAPITRE II.
Ecoles américaines pour les enfants idiots.
VLVI. Ecole de Barre
XLVII. Institution de l'état de New-York
XLVIII. Ecole normale de l'état de Pensylvanie
XLIX. Ecole normale de l'état d'Ohio
L. Quelques points sur l'enseignement des idiots d'après la méthode physiologique
a) Moyens d'entrainement par les jouets
b) Entrainement par la musique
c) Entrainement par la vue
LI. Conclusion
QUATRIEME PARTIE L'éducation populaire: ce qu'elle est et ce qu'elle devrait être.
CHAPITRE PREMIER.
L'école communale telle que je l'ai trouvée.
LII. Origine récente
LIII. L'éducation populaire en Angleterre
LIV. L'école suédoise
LV. Ecoles suisses
LVI. Ecoles italiennes
LVII. Ecoles portugaises
LVIII. Ecoles autrichiennes
LIX. Ecoles allemandes
LX. Ecoles belges et écoles hollandaises
LXI. L'éducation populaire en France
LXII. L'éducation populaire en Amérique
LXIII. Critérium
CHAPITRE II.
L'école communale telle qu'elle devrait être.
LXIV. Spécifications
LXV. Livres de classe
CHAPITRE III.
Jardins-écoles.
LXVI. a) Origine de cette idée
b) Axiômes d'éducation physiologique
c) Développement des idées
d) Premiers jardins-écoles
c) Le Jardin des Plantes
f) Jardins populaires
g) Parc de Montsouris
LXVII. Kensington et Sydenham
LXVIII. Parc de New-York
LXIX. Autres parcs d'Amérique
LXX. Jardins-écoles de village
LXXI. Géographie, orientation
LXXII. Mensuration
CHAPITRE IV.
LXXIII. Le système métrique
CHAPITRE V.
Education des sens.
LXXIV. Ce qu'elle est
LXXV. Education des sens au point de vue médical
LXXVI. Education des sens au point de vue industriel
LXXVII. Education de la main
LXXVIII. Education de l'oeil
LXXIX. Ecriture et lecture
LXXX. Parler et causer
LXXXI. Le langage
LXXXII. Instruction musicale
LXXXIII. L'imagination
CHAPITRE VI.
LXXXIV. Organisation de l'école
CHAPITRE VII.
LXXXV. Du sexe en éducation
CHAPITRE VIII.
LXXXVI. Sexe des maîtres
CHAPITRE IX.
LXXXVII. Le directeur de l'école
LXXXVIII. L'écolier
LXXXIX. Manuel psycho-physiologique
CHAPITRE X.
Conclusions. Résumé
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『教育に関する報告』を読む (6)「セガン家の悲劇」へ

2018年06月26日 | 研究余話
J'allais écrire cette méthode afin de nous aider dans l'éducation de notre fils — tout-à-fait semblable à sa mère par le caractère — et maintenant, après trente-quatre années, je suis à peine capable d'en donner un aperçu, ayant été interrompu par d'autres travaux et d'autres devoirs, de sorte que mon fils a grandi au point de pouvoir être mon maître en beaucoup de choses — si je n'étais trop âgé pour apprendre.
(訳文)
 私は、結局のところ、我が夫婦(*)の息子ー彼の性格は母親そっくりーの教育での一助とするべく、本書の方法を書いたのだった。そして今、34年後に(**)、私は、他の仕事によって、他の義務によって、たとえ私が歳をとりすぎて成長発達に追いつけなくなったとしても、わが息子がいろんなことで私の先生であるほどに成長したことによって、中断されたとしても、概観することさえほとんどできない。

(*)原典で言うnous、notreを意訳した結果の表現が「我が夫婦」。しかし、セガンは英語一人称Iをweと表記するのが常であるので、ここもそれに従い、「私が息子の教育の一助とすべく…」と訳出する方がいいのだろう。
(**)原語après trente-quatre années。『教育に関する報告』は1880年が再版、セガン68歳時である。記述に従って計算すると、34歳以降の思考が綴られていることになる。同書初版は1875年、セガン63歳。計算上は初版に寄せた「あとがき」ではありえない。

Crainte de ne pas avoir le temps d'écrire cette méthode si longtemps rêvée, je la dédie, dans son expression imparfaite et incidente, à mes petits enfants, Edouard, Jean et Jeannette Séguin, afin qu'elle leur soit appliquée par leur institutrice.
(訳文)
 長い間、不完全で取るに足りない表現でしかないとしても、この方法を綴ることを夢見てきたが、その時間が足りないという恐れを持ちながら、本書を、孫、エドワード・セガンとジャネット・セガンに献呈する(***)。彼らの教師が彼らにこの方法を適用することだろう。

(***)セガンの死の2年後1882年10月末日、セガンの息子エドワード=コンスタンス・セガンの妻マーガレット・セガンが、3人の実子(セガンの孫、上記の2人のほか、ジャン・ヴァン・ドィン・セガン)を道連れにし、銃自殺をした。「セガン家の悲劇」とされる。
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『教育に関する報告』を読む (5)

2018年06月25日 | 研究余話
 昨日の記述の訂正を含めて・・・

 妻子と一つ明かりのもとで1846年著書を綴っているが、この3年前、隣二部屋で、マンとサムナーとセガンの三人で、向後のアメリカにおける白痴教育の方法に1846年著書に示した方法をてきようすべきかどうかついて話し合ったのだった。1837年にはフレーベルが幼稚園を開設しているー。(ここまで、訂正を含めて、昨日の記述)

 セガンは、自身の白痴教育実践が、狭い意味での白痴教育に適用するだけに留め置く意識はなかった。というより、人の発達過程に寄り添う教育の方法科学的な意識を強めていた。だからこそ、幼児教育に具体化することができるはずだという確信も持っていた。じゃあ、幼児教育では、すでにフレーベルが発達教育を開発している。アメリカの「白痴教育」の同志たちと教育を進展させていくとしたら、セガンの方法がいいか、フレーベルの方法がいいか。真剣な話し合いが進められた。
 彼らの協議は、セガンの方法を選択した。
 セガンは、1846年著書を次のように締めくくっている。
 
J'allais écrire cette méthode afin de nous aider dans l'éducation de notre fils — tout-à-fait semblable à sa mère par le caractère — et maintenant, après trente-quatre années, je suis à peine capable d'en donner un aperçu, ayant été interrompu par d'autres travaux et d'autres devoirs, de sorte que mon fils a grandi au point de pouvoir être mon maître en beaucoup de choses — si je n'étais trop âgé pour apprendre. etc.
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『教育に関する報告』を読む (4)

2018年06月24日 | 研究余話
 まずは前号(昨日の記事)の訂正から。
 セガン一家が住まいを定めたところは「人里離れたところの二部屋」住宅としたが、とんでもない誤訳だ。正しくは、セガン家族が同じ灯の下で過ごしていた「その部屋から少し離れたところの二部屋」という意味である。
 さて・・・セガンが綴るところに戻ることにしよう。

「(セガン家族が集う部屋から)少し離れた(=壁を隔てた隣の?)二部屋に、3年前、ホーレス・マンとジョージ・サムナーが訪ねてきた。彼らと私の3人は、アメリカの白痴たちの向上への、8年前に幼稚園と名付けられたフレーベルの仕事の方法の適用ついて、話し合ったのだった― 」

 フレーベルが幼稚園を設立したのは1837年のこと。これから計算すると、セガンのところでホーレス・マン、ジョージ・サムナーと語り合いがもたれたのは1842年ということになる。セガンのビセートル時代だ。ビセートル時代は、救済院総評議会から、「24時間常駐、男子養老院(=ビセートルのこと)に住まうように」との雇用条件が付けられているのだけれども、それは無視し、家族同一住居を構えていたのか?1842年夏にセガンは結婚したはず(息子の生年から計算)だから、常駐勤務は逃れることができたのだろうか?ただ、このことを前提にして考えると、推測居住地Rocherからビセートル救済院(男子養老院)まで(旧パリ西端からパリ南郊外)は、あまりにも離れすぎている。だとするとRocher通りの住まいは、それよりかなり後年のことだと考えるべきかもしれない。となると、セガンがマン、サムナーと話し合いを持ったところはどこなのか?まさか養老院内ではあるまい。
 マンとサムナーとがセガンを訪問したのは、アメリカ障害児教育史研究者の間では1842年から翌年にかけて、ということされている(「セガン・関係年譜」、清水寛編著「セガン 知的障害教育・福祉の源流」第4巻、参照)。ちなみに、1843年著書、1846年著書、1847年著書にはマンの名もサムナーの名も登場しない。
 私の推定するところでは、1843年末に馘首されて以降のセガンの住まいとしたところはRocher通り。サン=シモン主義者のぺレール兄弟を頼りとしたと思わる。そここそが、アメリカの「同志」たちと、セガン自身の身の振り方を含めて、アメリカの白痴教育(運動)について議論し、思いを共有しあったのだろうと、推測しているのだが、そうすると年数が合わないし、居住地、ディスカッションの場所は、不明なのである。

 さて本論。セガンたちはフレーベル流儀を採用すべきだとしたのか?セガン教育の本質にかかわる「話し合い」の結末や、いかに? (続く)
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『教育に関する報告』を読む (3)

2018年06月23日 | 研究余話
 セガンは、『教育に関する報告』の終部において、フランス時代の1846年著書の執筆過程について、次のように綴っている。

 「若者の自信にあふれたこの著作は、わが息子のゆりかごの傍らで書かれた。同じ明かりの下で、妻は縫物をしながら息子をあやす。妻の運針はまるで私の考えを強め、導いてくれるがごとしである。

 セガン家族が住まいと定めていたところは、セガンが言うには「人里離れたところの2部屋」住居だった。さて、それはどこだろう?パリ大改造前のことゆえ、現代的地理感覚では及びつかない。先行研究やセガンの他の著述を頼りとして推定しよう。
 セガンの論文等関係文献を発掘し公刊することによってセガン研究を急速に進歩させたぺりシエは、ピガール通り6(現在パリ9区)の共同住宅屋根裏部屋であったと推定している。しかしこの推定は、ピガール通り6の学校が1843年以降に開設されたという誤情報をもとにしていることを注記しておかねばならない。
 一方、セガンは、1837年に公刊したぺレール伝の執筆者肩書にロッシェル通り35(35, Rue du Rocher)と居住地名を添えている。パリ大改造前に綴られた「パリのカルティエ(パリ街区)」によると、ロッシェル通りは「モンソー公園地区」にあるという。この公園はパリ8区で現在も存在する。というより、幾多の著名画家の絵画舞台として有名である。講演の周辺はパリ城壁内の緩衝地帯であり賑わいとは程遠いところだったようだ。私は、1837年情報ではあるけれども、ここを強く推定する。サン=シモン主義者たちの活動の地でもあるから。
 この居住先で、セガン史にとっても、アメリカ白痴教育史にとっても、意義深い出来事がなされていた。(続く)
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『教育に関する報告』を読む (2)

2018年06月22日 | 研究余話
 セガンはパリ時代の総決算として1846年著書をまとめた。それは彼の、「白痴」にかかわる医療、教育に関する思考、実践、思想のすべてが綴られたものである。その翌年には聾唖教育の真の創設者ぺレールの教育事実と伝記を公刊しているが、それは、セガンの生理学教育の気づきの源を綴ったものであるとも評することができるから、1846年著書の一環といえるかもしれない。セガンの教育はルソーからの思想的発達理論的影響だと清水寛氏は強い口調で断言し続けておられるが、ルソーがぺレール実践を方法的モデルにして『エミール』を綴ったことは周知のことであるから、むしろ、セガンはぺレールから多くを取り入れていると、評価替えをすべきだと、強く思う。このことはいずれ、ぺレール伝を詳細に検討することで、明らかにされるだろう、後世のセガン研究者に期待したい。
 さて、セガンは、1846年著書の結びに、「あと書き残していることといえば、一般教育についてである」と、次なる課題を明示している。その一般教育は綴られたのか?『教育に関する報告』がそれである。次に、該当個所の原文を提示しておくことにする。(同書フランス語翻訳本より)

Les premiers matériaux en furent recueillis avant 1839 et six fragments publiés antérieurement à 1846. A cette date apparut « L'Éducation des Idiots » dont les derniers mots sont (page 729) : « Je dépose ici les matériaux pour une méthode d'éducation physiologique, applicable à tous les enfants Il ne reste plus qu'à l'écrire........ »

(以下、明日へ)
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communism概念について

2018年06月21日 | 研究余話
 「共産主義」。コミュニズム。communismと綴る。少年期からずっと、それをマルクス主義そのもの、それ以外にはない、と思いこまされてきた。
 しかし、困った問題が起こった。セガン研究において問題にぶつかったのだ。昨日綴ったように、セガンは著書の中でcommunism批判を激しくしている。そうか、アンチ共産主義者だったのか!と簡単に分かってしまう気にさせられるほど、批判の筆は厳しい。分かった顔をなさる某セガン研究者は「セガンはパリ・コミューンに反対だったんですよ!」と嘆きの表情をぼくに見せた。パリ・コミューン(1871年)を「共産主義勢力による革命運動」だと認識されたうえで、である。
 が、セガンが批判するcommunismにのっとった社会団体は、某セガン研究者がイメージする共産主義団体とは対極の、19世紀フランス中期に、「黒服の軍隊」と揶揄されていたキリスト教イエズス会修道士会のことなのである。セガンはそう明記している。
 しかし、セガンの所属するサン=シモン主義もまた、communismにのっとった社会建設運動を実践していた。ユゴーの『レ・ミゼラブル』に、ヴァルジャンが市長を務めた自治体(コミューン)がまさしく産業共同体としてのcommunismを導入していましたね。

 「共産主義」は天下の誤訳だ、という強い指摘がある。マルクス主義専用語にしてしまったことが間違いのもとだ、と私は思っている。communismの語幹commun(共同)に忠実に倣うならば、「共同体主義」とすべきであったのだろう。
 かといって定まった名前を変更することは無謀なこと。ここは、「共産主義」と「共同体主義」とを使い分けていくしかないのだろうな。


(付記) ここで何度も言ってきたように、セガンはサン=シモン主義者であった(青年期から終生)。同主義はマルクス主義以前に勃興し、思想(文化、芸術等)、社会(制度等)、産業(工業、商業、農業等)の変革に強い影響を与えた。我が国におけるセガン研究の世界では「未熟」で、「超克されるべき」歴史過程だ、と通説されてきている。「しかし、セガンはその限界を乗り越えようとした」と。この説は、私に言わせれば、「セガン神話」そのものである。
(付記2)広島県府中市の市議を務めておられる、尊敬すべき二見慎吾さんが次のように綴っておられる。へごな知ったふり自他称進歩的民主主義的学者より、歴史科学的哲学に裏付けを得たご賢察である。
「ヨーロッパではコミュニズムもソーシャリズムも長い歴史があり、それぞれのなかにさまざまな流派もあったんですね。手元に「18世紀社会主義」という分厚い本がありますが、百科全書派、重農主義者、フリーメーソンなども含められています。
 日本では、マルクス主義という共産主義だけが、その過去・歴史的蓄積から切り離されて輸入されてしまった。せいぜい、エンゲルスが言及した3人までぐらいしか紹介されず、しかも「空想」と切り捨てられた。エンゲルスはそういう風に書いていないのですが、読む人はタイトルに引きずられて、あっさりと水に流してしまった。
 遡行して、もう一度捉え直す必要を感じています。

 2017年秋の宮島の旅の際に宿泊宿で初の「デート」、二見さん。
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セガンは「自由」を希求した 1875年著書を読む(1)

2018年06月20日 | 研究余話
 セガン1875年著書『教育に関する報告』の読みを始めた。原典(英語版)を喪失してしまっているので、ブルネヴィル編集のフランス語翻訳版(1895年)で、代替しているのが悔しい。
 で、今まで、重要なテクにカール・タームには位置付けてこなかった「自由」の概念が、輝いて見える。次の三つの「自由」が強調されている。
  terre libre, institutions libres, écoles libre
 自由な土地、自由な体制、自由な学校
 この「自由」とはどのような内意を含んでいるのだろう。誰にとっての「自由」なのか、何にとっての「自由」なのか。「土地」は単数表記、「体制」と「学校」は複数表記。そのあたりの検証を文章の中から求めなければなるまい。以下の問題が大きい。
 ★イエズス会の修道士会の画策する共同体主義計画に強い危機感を持ち、それに対抗する意識として「自由」概念が使用されているのだろうか?「イエズス会によって追求されている共同体主義普遍化計画の実行のために」(pour l'exécution du plan de communisme universel poursuivi par les Jésuit)の表現が強く気になる。
 ☆communismeの適訳は何だろう?字義的には「共産主義」なのだが、マルクス主義のキー概念でもある。しかし、セガンはその使用意図はないだろう。communisme概念は、そもそも、サン=シモン主義運動の中で生み出されたもの。セガンと同時代概念である。それは、国家を産業共同体としてとらえ、同時に軍事共同体ともとらえる。一応、ぼくは、共同体主義と字義を当てた。黒服の軍隊と揶揄されたイエズス会修道士会は、共同生活をしながら、宗教活動、生産活動、社会(教育)活動を送る集団であったから、セガンはその集団の性格をコミュニズムとしたのだろう。
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