ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガンは「フランスでは知られていない」ということ

2017年10月31日 | 研究余話
 「セガン」について情報収集を意識し始めた2004年頃、研究協力をお願いした方から、「いろいろと情報がありますが、ほとんどの方から、セガンはフランスでは知られていないので、史料収集はかなり困難かと思います。」と知らされた。名前は知っているがその業績の具体については分からない、というのだ。確かに、パリの古書店を巡り、「白痴教育の開拓者セガンの著書類は無いか」と訊ねても、名前は知っているが資料入手は絶望的だ、との回答ばかりであった。そもそも知的障害教育論・実践ならびに歴史研究が他国に比して貧困なのか。それにしても、国際障害者年へのフランスの意気込みは大きく強いものがあったのだから、貧困ということはあるまいと思ったが、当時のぼくの力ではそれ以上一歩も進むことは無かった。
 「歴史の忘却の彼方に追いやられたセガンを、表舞台に復権させたのは、ブルネヴィルだ」との研究情報に接し、ほかに頼る人とていないぼくは、フランス国立図書館のデータベースにアクセスし、ブルネヴィルに関する諸情報の収集を心がけた。ブルネヴィルは19世紀フランスにおける白痴教育開拓史を当該文献の再刊によって行っているが、彼の意識の中には、フランス時代のセガンの白痴教育論を総まとめし再刊する意図があったようだ。しかし、彼がたどり着いたのは、1880年、セガンの死の年に第二版として刊行された『教育に関する報告』のフランス語翻訳版の刊行、併せてセガンの実践・理論に関する公的評価文書を添付し、ブルネヴィル自身の長大な解説論文を添えたことだった。当時のブルネヴィルは医学界にも政界にも大きな力を持っていたことから、セガンが「真っ当な位置」に据えられることになったわけである。1843年暮れに斯界から放逐されたセガンは、20世紀入り口あたりで、「知的障害教育の開拓者」として評価され、世界に知られ、彼の実践・理論を後継し、発展させようとする人々が現れるに至った。
 約半世紀の期間、セガンは、フランス社会では存在しないことになっていた。しかし、彼は、アメリカ社会で迎え入れられ、活躍をしている。フランス時代の白痴教育実践・論の英語版とも呼ばれる『1866年著書』は、我が国のセガン研究者にとって、導きと深化の書なのである。
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jeu(遊び) セガン研究第2幕

2017年10月30日 | 研究余話
 セガン1846年著書にjeuがどれほど登場するのか、また、どのような位置づけで登場するのか。詳細に検討する意義がある。なかんずく、以下のフレーズをキーとして捉えていきたい。
p.345
la plus grande somme de sensibilité, d’intelligence, de moralité que toutes les resseurecesse de la pédagogique doivent être mises en jeu.
要は、「遊び」は、「感覚」「知性」「道徳」の教育の【資料】(資源)だ、ということ。随所にその具体事例が綴られているようだ。
 ぼくの【セガン研究】の第2幕が幕開けしようとしている・・・・。まずは、セガン教具研究に関わる竹田康子博士論文(「モンテッソーリ教具成立過程の研究ーセガンからブルネヴィルを経てモンテッソーリへー」2016年、大阪大学)を紐解こう。

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「九柱戯」実践

2017年10月29日 | 研究余話
 セガン『1843年著書』と『1846年著書』に、子どもの遊びとしての「九柱戯」が登場する。前者はその遊びの際に子どもがある種のパニックを起こした、と簡単に触れられているだけだが、後者では「遊び」とりわけ「集団遊び」の有意性について字数をさいている中で、「九柱戯」が位置づけられている。
 白痴といっても、しばしば誤解・曲解されるような、「おつむだけ」の問題では無く、身体機能不全とも関わっており、麻痺の強い子どもには、球を投げてピンを倒し、ゲームを続けるために、球を拾いピンを立て並べる行為をしなければならない、これらの行為が「遊び」として子どもに受け入れられ、身体機能の改善に有効だ、というのだ。なるほど!
 セガンは、子どもが仲間とともに共通の遊びをすることの大きな意味を、かなりの字数を用いて、論じている。このことについて、きちんと分析し、研究的に評価しなければならないだろう。
 「九柱戯」ーナイン・ピンボーリングゲーム。古代エジプトにはすでにあった遊び・スポーツであるというから人類の文明発達と共に歩んできたわけだ。それほどに意義深いものだと理解できる。現代のいわゆる「ボーリング・ゲーム」はこれから派生したものであるそうだ。
 「九柱戯」に関する17世紀の絵画と、並べ方、道具セット。


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【セガン追悼 「白痴」と私】

2017年10月28日 | 研究余話
 2012年10月28日、セガン生誕記念祭で約100人の聴衆を前にして、私は日本におけるセガン研究史を語った(通訳付き)。
 語り終えて退席するとき、通路で、「素敵な報告をありがとう。フランスでもあまり知られていないセガンを、あなたは、なぜそこまで研究にこだわるのか、後でディスカッションしたい」と、一人の女性から声を掛けられた。女性は、アメリカのマリア・モンテッソーリ学園でフランス語を教えている教授だという。以下は、ぼくの語りの主要なこと。
 私はセガン研究を主とする障害児教育研究者では無く、19世紀を舞台にする近代教育史研究に「セガン」を位置づけている。しかし、「セガン」には特段の興味・関心を持っている。そのうちの一つの柱が「発達」論だ。今はまとめて語るほどには学んでいないので、そのテーマに関わることをお話しする。
 私は生育史の中で大きな発達課題を持っていた。端的に言うと、6歳程までは、自力歩行が困難であり、ことばの能力も3歳程度、もちろん、知的能力に至っては小学校1年生の学習について行けなかった。当時は「特殊学級」が街の公立学校には無かったので、普通学級で、毎日机に突っ伏して過ごしていたそうだ。今だと、典型的な「知的障害児」だ。
 その私が小学校中学年頃から、次第に、自力歩行、言葉、知能ともに健常児の仲間入りすることができるようになった。社会性は困難性を伴ってはいたが。なぜ、そのような「発達」が可能になったのか。ずっと考えてきた。教育学研究を仕事とするようになってから、少し謎解きができるようになった。その入り口が「ペスタロッチ研究」だ。彼は考えのコアを教えてくれた。「調和的発達」ということ。そして、60歳を過ぎて「セガン」を知るに至って、「三位一体」論に出会い、その方法の具体にも出会い、私の幼児期の未成熟と少年期の発達との謎が解けたように思った。つまり、「セガン」を通して、私自身の生育史を捉え直すことができる、ということだ。
 女性教授は、たいそう興味深い話だ、今後とも交流をしていきたい、と応えてくれた。彼女から、「セガン史」の「謎」を解き明かす数々の示唆・史料をいただいている。日本の「セガン研究者」たちからは、ガセネタ以外何もいただいていないのは、皮肉なものだと思う。
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【セガン追悼 珍しいセガン話と写真】

2017年10月27日 | 研究余話
 エデュワール・セガンは実在の人である。しかし、その「実」の程は今以て不明なことが多い人という意味で、「虚」の人でもある。虚と実とを一致させる作業だからセガン研究は面白い。添付写真は1880年に没した彼の晩年を写したもの。ほとんど知られていない。さて、それはそれとして・・・
 セガンの生誕の地フランス・クラムシー市で開催された彼の生誕記念祭(2012年)の前夜、関係する医学博士、歴史学者、市の学芸協会関係者など、10名弱の懇談会がもたれた。私も参加していた。主題は「セガンとクラムシーとの関係」。以下、会話あらすじの紹介ー
「セガンを知っているクラムシーの人は少ないね。」
「なんせ、父親と母親が死んでセガン家は無くなったからね。話伝える人もいなくなっているし。」
「それよりも、セガンは産まれて程なく里子に出されて以降クラムシーに戻っていないから、親しみを覚える人じゃ無い。」
(そこへ川口の割り込み)
「日本で知られるセガンは、両親がルソー『エミール』主義者で、幼少期から少年期、それはそれは両親の暖かい愛情に包まれて幸せに過ごした、とか、セガン家はクラムシーの名家であった、ということですが。」
(セガン研究で博士号を得た医療教育学者の応え)
「日本でのその話はアメリカで語られていること。実際は、セガン家は貴族・ブルジョア階級に真似た育児・教育をしています。私はそれを証明する記録を発掘した。ルソーがエミールで主張した子育てとは真逆ですね。」
 懇談会は、フランスの特権階級の習俗としての子育ての是非についての話題が熱心に交わされた。言うまでもなく、私自身も、この時点になって積極的に、話の輪に加わったのであった。2010年に上梓した私のセガン研究(『知的障害教育の開拓者セガンー孤立から社会化への探究』新日本出版社)の主旨と同じことを語る人がいた!という喜びからだ。

 
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PCの点検のためしばらく記事は停止します

2017年10月22日 | 研究余話
PCの動作が非常に重くなってきているので、メンテナンスを行います。
再開までしばらくお休みいたします。
11月1日には再開いたします。
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生理学―若いイディオと若い痴愚に適用された教育の方法に関する、セガン氏の研究報告に関わる報告(委員、セル氏、フローラン氏、パリゼ氏―報告者)1843年

2017年10月21日 | 研究余話
パリゼを報告者とする三人の委員報告は、1843年12月11日王立科学アカデミー会議記録(C. R. 1843, 2er Semestre, T. XVII, No 24.)の「科学アカデミー会員ならびに通信会員の研究論文と発表」欄の「報告」の項において、「PHYSIOLOGIE.- Rapport sur un Mémoire de M. Séguen relatif à une méthode d'éducation appropriée aux jeunes idiots et aux jeunes imbéciles. / (Commissaires, MM. Serres Flourens, Pariset rapporteur.)」との表題で記録されている。以下、全訳。

 去る5月8日の会議において、セル氏、フローラン氏、ならびに私からなる委員会に、若いイディオと若い痴愚に適用された教育方法に関するセガン氏の研究報告の審査が付託されました。本日、皆様方の御前で、以下の審査結果を報告いたしますことは、誠に光栄なことであります。
 この方法を適切に評価するために、何よりもまず、イディオの境遇についての的確な見解が形成される必要があります。さらに、可能ならば、イディオたちの知性と、通常の知性すなわち大多数の者に共通する知性との懸隔のほどを測る必要があります。我々が具備している本性の欠陥、どちらかと言えば我々の器官の極端な多様性について解明しうる、他に例の無い研究領域であります。また、恵まれて持った資質を発達させ、さらに強くさせるにせよ、悪癖と戦わせる、あるいは、欠陥を治させるにせよ、そのような手段について解明しうる研究領域であります。
 目に訴えかけてくることしか心に強く響かないと 詩人哲学者は言っております。あなた方に正確なイディオのイメージを持っていただくために、彼らが生活している保養所に入り、彼らをご覧ください。セガン氏は、彼らを教育する義務を負っておりますが、氏もまたそこにおります。何という光景でしょう!一人は激しく動き回り、怒鳴り叫んでいます。もう一人は黙ってままで、ロボットのごとく、びくとも動かず、うずくまっています。ある者にあなた方が話しかけても、彼はにたにた笑って逃げていきますし、また別の者は大げさに、お辞儀と手へのキスを繰り返します。またある者は十字を切り続けます。さらにある者は地面に寝転びます。またある者は自分の拳を口に含んでケタケタと笑います。あなた方が彼らに問いかけても、理解できる応答は為されません。それほどに彼らの言語は不明瞭ですし、それほど彼らの声はくぐもっていますし、雑然とし、はっきりと発音されません。さらに進んで行きますと、並木のあたりでは、体が動かない、盲目の、癲癇の、中風のイディオたちがヨダレと糞尿を垂れ流したままで居ます。彼らは、必要と欲求を満たす為ならばきちんとした動きをいくらかする程度です。
 大型動物の組織において、脳脊髄の樹はあらゆる部位と共同する繋がりがあり、それらが活動する力の源泉であるように、イディオの筋肉組織におけるこうした異常が、彼らの神経組織における異常と相応するように思われます。ここで私は、彼らの身体の組織から彼らが具備する知的精神的状態へと移ります。その状態もまた、損なわれた彼らの器官の避けがたい結果であります。目ですが、見えるけれども決して見分けることはありません。耳ですが、聞こえるけれども聞き分けることはありません。立ったままの姿勢を保ったり、バランスを取ったり、歩いたり、飛び跳ねたり、走ったりするのに脚はまことに覚束なく、腕もまた、触れたり、掴んだり、動かしたり、身体を移動させたりするのには覚束なく、頼りになりません。それだけではありません。人間というものはその資質を知性や人格に負う、つまり、人格や知性が資質の本性と為す、それは感情であり観念なのであります。ところで、感情のカテゴリーには、その基本的な傾向、その根源的な状態、その素質、私が私自身を通してもたらすその関心、分かちがたく、意志のような、あらゆることの習慣のような、すべてに先立ち、すべての眼差しを精神から切り離した、ある種のものを形成する、その刺激が構成されなければならない、と私は考えます。それほどに、私はただ最初の規定に拘束されるばかりでなく、私の一連の行為によって、どうしようもないほどの、そして特有の影響をも及ぼすのです。こうした内面の力はしっかりと才能と道徳的美点を花開かせます。それは非常に多様な、時として非常に対立する本能です。人間社会の準備をするものです。至る所で、多くの支えとして、装飾的なまた魅惑的な、他方で、非常に攻撃的で悪しく混乱的で。そのことから、哲学者によって非常に限定的な本能のいくつかに帰せられ、人間が本性がより自由であろうとする為にすべての創造物のそれを認識するようになることを それが財産になるか、望むなら非常に多様な本能になることを   知る。それは優越性であると同時に不幸でもあるはず。(赤字、さっぱりわからない)
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セガン『1843年著書』書評(1844年) 

2017年10月20日 | 研究余話
『ガゼット・メディカル・ド・パリ』(Gazette médicale de Paris)というパリの医学新聞の1844年5月25日号に、(パリ・)セーヌ県下の施療院・救済院などを統括管理する「総評議会」(Conseil Général d’Administration)から「白痴の教師」(l’Instituteur des Idiots)の肩書きをすでに剥奪されていたエドゥアール・セガン著『白痴の衛生と教育』に対する書評が掲載された。同書は、翻訳を試みようとしている「1843年論文」を、若干の字句修正の上、単行本化したものである。少々長くなるが書評全文を次に紹介しておこう。セガンの実践・理論に対するフランス同時代社会の「目」を正確に知っておきたい。セガン『1846年著書』翻訳を為すにあたって、セガンの「白痴教育」の底流を探るためである。

「本書は、つい最近、数は少ないが哀れな白痴たちに専心した人の記録である。白痴たちは、かつて、囚人と混合収容されていたが、今日では精神病者や癲癇(てんかん)と一緒に収容されている。すでに、幾人かの善良な人、博愛家たちが彼らに注意を払ってはいた。しかし、セガン氏は仕事に着手し、結果を得た最初の人なのである。つまり、彼の努力によって、今日まであらゆることで最後まで放って置かれた階級の人々に、人間的な生活を回復し社会に復帰することの望みを持たせることが可能になっている。そしてそのような人の数は、フランスだけで、我々が知りうる情報が正確であるなら、20,000人を超えている。残念ながらセガン氏の仕事の成果はほとんど知られておらず、この点で言えば、我々に宛てられたいくらかの批判があるのみかもしれない。しかし我々は、近いうちに、この遅れを回復したい、そして、セガン氏によって得られた実際の結果を、我々の読解によって知っていただきたい、と思う。とりあえず、我々は、手短に、方法の基礎を提示しよう。白痴たちを治すばかりではなく、彼らを教育の恩恵に与らせるためのセガン氏の仕事で用いられた方法である。
 この方法は著者がポジティヴと呼ぶところのものであり、生理学的心理学的異常を考慮に入れ、どの子どもにとっても、たとえ機能がきわめて低い状態であろうとも、次第に出来るようになるために、またどんなことでも既知のことと出来ることとを欠落させることなく、既知のことと出来ることから出発するのである。この方法は彼にオリジナルな実践から生み出されたものである。その方法に含まれる原則的な施術について、彼自身によって次のように要約されている。
 『前記の、そしてまさしく適切な指導による体操によって、筋肉組織が強化され、機械的刺激によって、四肢や、胴、顔の随意筋が訓練される。ダンベル、平行棒によって、身体の両側の力を均等に保つことが出来、そのことから、立ったり歩いたり等々の均衡が生まれる。感覚体操によって、モノと自分自身や外部の副現象との正確で簡潔なコミュニケーションをなす。それ以上に、基礎的な知識の学習によって知的生活へとし向けられる。基礎的な知識は具象的な観念へと導く。話し方、読み方、書き方によって、抽象的領域のモノの中にはいることが出来る。その抽象性が、調和とか道徳性は似たもので作らなければならないだろうというような関係感情を与えるのである.... たくさんの棄て児も白痴もそこまで導くことは出来る。しかし、彼らのうちの一定数は、決して、概念と観念とを分ける差異、あるいは具象的観念と抽象的観念との差異を乗り越えることが出来ないということも間違いのないことだ.... なお、少数の白痴病で、非常に不快な習慣を教育によってもほとんど改善できないこともある。癲癇(てんかん)、麻痺、クル病などを併発しているような者たちはとりわけそうである。不治患者の場合と同様に、教育の可能な方法すべてにおいてほぼ無効となる白痴病のケースがあるということもまた、しっかりと認識しなければならない.... しかし、このことは、例外なく何ともひどい状態に白痴たちをうち捨てたままにするという理由にはならない。時代は、数多くの聾唖学校でなされているのと同じようなことを白痴たちにもなされるようになっているのだ。』
 これらの原理は正しい。原理は首尾よく適用され得たことを実践が証明している。我々は諸原理が大きな体系とならんことを望むものである。しかしながら、どうして我々は、少し後段の『この有用な目的も、心配事や虚栄心、中傷のただ中に打ちのめされるのだ....!』とあるのを読まなければならないのか。何を言いますか!すでに7年間も、あれこれ言いふらすことなく、また名誉も金銭的な利益を得ることもなく、続けてきた人間性のある活動に対する中傷ですって!」

書評タイトルは書名のまま。著者名Ed. Seguin、肩書き「前不治者救済院での白痴の教師、現ビセートルの同職」。書評発表時にはセガンはこの肩書きを喪失している。書評子の氏名は記されていない。しかし、これだけの理解をセガンに寄せることができた人といえば、セガンを「発掘」したフェリュスであろうことは推測するに難くない。
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セガンの思想に聖書を見る

2017年10月19日 | 研究余話
 『ルカの福音書』に示されたイエスの言葉「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことであろう。富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がもっと易しい」はよく知られている。セガンが敬虔なクリスチャンだったことは、ほとんど語られてきていない。しかし、彼の1842年公刊の実践記録以降の著作物の中で、たびたび信仰実践の描写があることから、間違いで無いと、確信する。
 では、白痴教育論(実践)とどう具体的に、そのことが結びついているのか。1848年の「労働者の権利クラブ」ポスターから覗えそうだが、それは「当時勃興しつつあった社会主義思想をセガンが身につけつつあったことの証しだ」という反論に使われるだろう。事実、我が国のセガン研究を本格的にアカデミズムの舞台に登場させた松矢勝宏氏などは、セガンをマルクス主義への一里塚の位置にいた人と評価しているし、セガン研究の「第一人者」清水寛氏もその立場を堅守している。
 しかし、セガンの「1856年論文」の結びに、次のような描写がある。この論文は、著書『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)訳出収録した。とくに、最末尾の一文に注目したい。
☆☆☆
 このこと-精神療法-が有力な方法であることについて、その起源を探ってみよう。医師が、狂気に下剤をあるいは白痴者の頭骨の機能低下に瀉血を用いるという誤った考えや意見を正す計画を思い付くより遥か前に、スペインでは、何世代にも渡る修道士たち-彼等は治療にも携わっていた-が、薬物に依るのではなく精神訓練だけであらゆる精神病に非常な成功を収めてきていた。一定の規則正しい労働、単純でたゆまない義務の履行、開化的で自主的な自発意志、患者たちを常に観察すること-このようなことが治療に用いられただけであった。善良な神父たちは言った。「私たちはほとんどすべての精神病者を治しています。ただし貴族は除きます。彼等は自分の手を汚して働くことを不名誉だと考えたがるものですから。」死に瀕したある貴族の最期の言葉、-「何もしたくない、さもなくば死を」。彼は狂気であったにもかかわらずそう叫んだ。人々はただちに返した、「死はただただ働く人にとって生命と自由への権利なのです。」
 考えてみるに、それは不思議なことではない!―これらの人々は俗世や人間の科学とは隔絶し、キリスト教的愛以外の知識を持たなかったのだ。―しかし、彼等のたった一つのそして信仰に基づいた目一杯の義務で、狂人に対して、激しさには穏やかさを、痴呆には注意を、破壊衝動には有益な労働を与えた。このように彼等は、実際に、さまよえる魂から悪魔を追い出したのである。狂人たちは、これらの貧困な修道士たちが患者に次のように言っていることは何も分かっていなかった。―「神の御名において、万有の偉大な思索家よ、汝の思考を制御せよ。―神の御名において、偉大な愛する人よ、汝の感情を制御せよ。」これらの貧困な修道士たちはただその信仰にもとづいて行動することだけを知っていた。そしてわれわれは-われわれが、盲目の信仰ではなく卓越した信念、すなわちその試みに対する理由を持っており、修道士たち以上のことを実施している。われわれは、白痴者に療法を適用する際に、為すべき理由と方法とを知っているのである。
 こうして、白痴者たちのおかげで、スペインの修道士たちの手の内にあった神の奇跡は、人類学の基本的な原理となっている。それが白痴者たちの療法と教育との起源なのである、部分的には神により部分的には人間により。そうは言っても、われわれは、療法と教育との、そしてわれわれの偉大な発見の基底には神が存在するということは、はっきりと理解しているのだが。
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遠い昔の旅日記

2017年10月18日 | 研究余話
畝傍山ぐるりめぐりて春は来ぬ

 さて翌朝。ホテルロビーにて飛鳥さんと落ち合い、橿原巡りとなりました。
万葉人(まんようびと)が大和三山(やまとさんざん)と名付けたそのひとつ、畝傍山。奈良盆地の真ん中になだらかな三角形の山の存在は、なるほどなるほど、神秘といおうか心が落ちつくといおうか、じっくりと味わい尽くしたい思いがいたします。「橿原神宮と、久米神社と、八木に、今井町といって江戸時代につくられた町並みが今なお保存されているところがあるのですが、そこをご案内する予定です。」という飛鳥さんの先導で、まずは橿原神宮へと参りました。伊勢神宮は内宮が天照大神(あまてらすおおみかみ)、外宮が豊受大神(とようけのおおみかみ)、と、ここまでは日本の農耕社会における自然(原始)信仰が天皇制社会形成期に政治的に利用されて宗教化されたもの、ということは理解できます。しかし、橿原神宮の御祭神は何だっけ?飛鳥さんにお尋ねいたしますと、即答、「神武天皇です」。
 神話にしか登場しない天皇を御祭神とするのはいったいいつの時代からなのでしょうか。神宮とは畝傍山を挟んで対角線上に神武天皇陵があります。確かに立派な古墳ではありますが、墳墓史的観点からいくと、時代的には前方後円墳時代の中前期というところでしょうか、当然のことながら「渾然とした大海をかき回し、大和国を創り、天空よりスメラミコトをご光臨なされた」太古の、初代天皇・神武天皇であろうはずはありません。橿原神宮、そして神武天皇陵、これらは明治国家体制確立期に宮内省が国学の「成果」を取り入れて確定したものだったと思います。今もなお宮内庁管轄下に置かれており、「天皇家の私有財産」と解釈をしているため、本当の所は誰がいつ葬られ、祭られたのか、その点については不明のまま。おそらく大和国内の豪族、しかも相当の権力を有したものが、ここの本当の主なのでしょうが、そんなことは今の歴史学、それと合体可能な自然科学の力量から言えば朝飯前。いつまでも神話を後生大事に「証拠物件」としていただいていないで、真の文化を所有したいもの。それでこそ、私のような自称国粋主義の求める「神話の科学性」が明らかになろうと言うもの。主が神武天皇でなくなったとしても、新たな天皇が登場するだけなのでしょうに。ねえ。
 しかし、畝傍山は、「天皇ご光臨」を象徴するに格好の存在感を示しておりました。ほら、平野の何の変哲もないところに、あの山の存在でしょう。雷が多く落ちますわな。その雷という自然現象は、その後、何らかの変化をもたらすことが多くあります。木々が倒れ、山が焼かれ、というようなマイナーな現象ばかりでなく、雨を多く恵み、河川の流れを変え、そのことによって自然の恵みが多くなる・・・。そういえば飛鳥川はたえず流れを変えた、とありましたよね。自然についての説明が論理的になされない時代、その時代の人々にとっては超人工現象すなわち神秘現象となるわけで、その時代の宗教者(神子・御子・巫女)の絶対的権限は、今の私たちには測ることのできないものでありましょうや。
 方や飛鳥さんはお寺のお嬢さん、方や老いの国粋主義者は敬虔な!無宗教者、ということからなのでしょうか、それとも飛鳥さん、ご遠慮があったのでしょうか、「神の御前にての初詣」ならず、考古学、そして、社殿に関する建築学の初講義となってしまいました。でも、あの自然の森は、ぼくの心を洗い清めてくれていたことは事実です。「知ったか振り」の態度でしたら、ごめんなさい。ついつい目が引かれる、心が揺すぶられる対象と出会ってしまうと、それについてのなにがしかを知りたい、もっと近づきたい、となってしまうし、語りたくなるものですから。
 人気のないところへ、人気のないところへ、と、足が自然に?向いていきます。畝傍山の登山口のところに参りました。沼というんでしょうか、大きな水たまりというのでしょうか、そんなところに柳などがあります故、ついつい「化けて出る~」なんて下世話な話にもなりますが、その近くに鎮守様なんぞがおわしました。村全体の守り神として、氏を象徴するものとしての歴史ばかりに気が取られましたが、ひょっとしたら、物好きにもこの沼だか水たまりだかに身を投げた、うら若き乙女がきっといたことでありましょう、それほどに、古は「草むす」里を思い起こさせました。
 ・・・とこんな案配で、次から次へと好奇心の固まりが吹き出てくるものですから、足が自然に?向けてくれた人気のないところ、も、ハニーの場として活用することもありませんでした。
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