ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガンがちょっと挟み込んだ文に生育史を見る

2018年05月31日 | 研究余話
 エデュアール・セガンの文章は詩的で美しい、という人がいるそうだ。清水寛氏がそういっていた。だが、私に言わせれば、とても分かりにくい文章を綴ることが多い人だ。言っちゃなんですが、セガンさん、思い付きの(連想する)人なんですな。
 例を挙げると、「白痴の子どもには華美でない専用の子ども部屋を用意すべきだ」という主張文に、突如、「私は父親から祖母の家の子ども部屋を取り上げられた」という一文が挿入されている。これは1846年著書に見られる。清水寛氏はこの体験はクラムシーでのことだと綴っておられる。これに対して、ぼくは、強い違和感を覚え、「祖母の家探し」のために戸籍調査をし、実際の居住地の特定のためにフィールドワークを重ねた。言うところの「祖母」とは母方の祖母であり、その家は、クラムシーではなくオーセールであり、現存していることを明らかにした。その研究成果は「知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』(2010年、新日本出版社)第1章で詳述した。次の写真は、現存するオーセールの祖母の家である。

 さて、セガンは、計量・数値の教育は大事である、という論の中で、やはり、突如、「ニヴェルネ地方の小麦市で、7種類のマスで小麦を量って売っているのを見ていた」という一文が挿入されている。『教育に関する報告』1875年刊行の中で綴られている。この検証は誰も行っていない。ぼくがほんの触りとして前記著書で触れておいた程度だ。
 ニヴェルネ地方というのはセガン家があったクラムシーを含む地域名。「小麦市」というのが立っていた、という理解が可能だ。クラムシー市には「グラン・マルシェ」(大市=常設市)と「プチィ・マルシェ」(小市=定期に立つ市)とが立っていた、そして「プティ・マルシェ」では各種麦の販売がなされる「麦の市」が立っていた。さらに、セガン家の前を走る道路名が「下・小市(オーバー・プティ・マルシェ)通り」であるわけだから、セガンの叙述は、自身の生活史の中ではっきりと刻まれている印象表現であることが分かる。
 この麦の市を実感的に知る方法はないか、セガンの目線を追体験できるだろう…。
 添付写真は、パリの古書店で見出した古絵葉書。20世紀初頭の麦の市光景。アーケードの下で市が開かれた。

 道路右側のアーケードに市が立てられた。次はその拡大。

 実写写真は市が開かれたアーケードからセガン家方面を覗き見た光景と旧セガン家正面光景。


 現地に行きもしないで、自分の観念だけで分析することの危険性を痛感したフィールド・ワークである。とくに、既述のように、まるで連想的思い付きのようなセガンの記述にぶつかると、このことを痛感する。そして、やはり、セガンってやな奴だ、と思う次第。自分だけわかっている、というタイプだからだ。

セガン論文「白痴の衛生と教育」翻訳秘話 ③=終わり

2018年05月30日 | 研究余話
承前)
 結論を言えば、同論文は、セガンにとって、知的障害教育論の体系化の試みであり、かつ後の彼のさまざまな教育論の土台・骨格をなしているということであり、同誌がフランス王立医学アカデミーの第8分野〔公共衛生・法医学・医療警察〕の紀要であることから、セガン教育論初の学術的問題提起論文であるということである。アカデミー会員でない者の論稿が掲載されたことの意義は、しっかりと評価しなければならないだろう。
 長々しい「1846年著書」を基にして研究することも確かに必要であろう(セガンのフランス時代の「到達」点を明らかにする、という意味で)。だが、しっかり築かれた土台骨は、セガンにとってもセガン以外の客観世界にとっても、その後の知的障害教育論の進展を約束する第一歩、すなわち『知的障害教育論草稿』なのである。

[ご挨拶を兼ねて] 2015年の今頃、眼科医師から「加齢黄斑変性症」が進行しており、左目はすでに文字判読不能、右目もどう進行していくかは明言できないが、文字判読が不能になる可能性がないわけではない、と宣告されました。身体は不自由で外出ままならず、読み書きも不能になるとしたら・・・、などと自身の今後のことを考えるのですが、考えたところでどうにかなるわけではありません。ただ、この日を以てセガンの1843年論文の訳出を決意した次第です。
毎朝起床するたびに、ああ、今日は文字が読める!
しかし、「セガンの文章は詩的で美しい!」などと言う人がいるかと思えば、「セガンのあの癖のある文章!」という人もいる文体の責め苦はなかなかのものでした。訳文には前者の文体性質は一切表すことができませんでしたけれど、日本語を通してセガンの主張を正確に捉えることができた、とは自負しております

セガン論文「白痴の衛生と教育」邦訳秘話 ②

2018年05月29日 | 研究余話
(承前)
 中野氏の論から伺える主張は、前記の誤認を削除ないしは訂正するにしても、セガンは、その優れた実践ゆえに、いわば「籠付きのお迎えが来た」というように、史実を理解していると読み取ることができる。権威ある公的機関に招聘されるほどに優れた教師だった、実践ばかりではなく理論においてもそうだ、ということが暗喩されている。また、セガンの知的障害教育はセガンが自ら資金を稼いで子どもたちを養った旨の記述は、ほぼ、セガン研究に共通しているのである。その必然性も根拠もない。
③.『公衆衛生と法医学』誌(中野表記のまま)にセガンの論稿が掲載されたのは1843年である。蛇足だが、中野氏の説明にもかかわらず、1840年にはエスキロルはすでに没しているから編集委員にその名を見出すことはできない。中野氏は同訳書75頁で同誌の編集委員名を列挙しているが、その中にエスキロルの名を見出すことができないのだから、実に皮相なミステークだと言うべきだろう。
 セガンの論文がなぜに同誌に掲載されているのかについての中野氏の言及はない。セガンのそれまでの著作類は自費出版であったと思われるゆえ、私は、『公衆衛生と法医学紀要』(こちらが誌名としては正確)に論文が掲載されたという事実を、極めて重視しているのだが。つまり、セガンの知的障害教育が客観的な媒体によって公開された、ということの重さだ。ここで言う「客観的」ということについては後に具体的に触れることにする。
 中野氏によると同誌は「1827年から発行された。月刊で、15ないし16ページの論文からなり、総ページ数は250頁で装填されている。年間購読となっていて(後略)。」ということであるが、少なくとも私が入手したセガン論文掲載号は、『公衆衛生と法医学紀要』年2号発行による前半期号であり、総ページ数も各号500頁を超える。収録論文の頁数が各15ないし16頁だというが、セガンの当該収録論文が100頁余であるということの説明はどうするのだろうか。また、私の調査によると、『公衆衛生と法医学紀要』誌の創刊は1829年。創刊時から同誌は年2号発行、創刊号総頁は582頁。確かに、創刊時にはエスキロルが編集委員に加わってはいるが、中野氏は何をもってこのような実証的に説明することができない情報を提供されたのであろうか。
 中野氏が訳出したのは、同誌掲載同論文ではなく、同論文を字句・文書修正等の上、同じ1843年に単行本化されたものである。単行本の表紙タイトル上部に、「公衆衛生と法医学紀要抜粋(第30号、第1部)」と書かれているから全く同一作品だとみなしてのことだろうと思うが、そのために掲載雑誌の性格にまで理解を及ぼす必要が無いと判断したのだろうか。
 はたして、同誌はどのような性格のものなのだろうか。その編集主体はどのような集団なのだろうか。それによっては、セガンの同誌掲載論文、すなわち「白痴の衛生と教育」の歴史的位置づけが、従来そうされてきたのとは大きく異なってくるのかもしれない。

セガン論文「白痴の衛生と教育」邦訳秘話 ①

2018年05月28日 | 研究余話
 セガンの1843年論文(著書)「白痴の衛生と教育」は二度邦訳されている。第1は中野善達氏によるもので、1980年『エドアール・セガン 知能障害児の教育』(福村書店)に収載されているそれ、第2は川口幸宏つまり私の手になる2016年『初稿 知的障害教育論 白痴の衛生と教育』(幻戯書房)がそれである。中野訳書が刊行されて30数年たっていること、古書店でも入手しがたくなっている、という理由から、拙訳書の上梓となったのだが、もっと深く、研究的な背景がある。それについてしたためたい。

 これまでの我が国におけるセガン研究・学習にとっては、中野氏の訳書の「解説」を含めて、好個のテキストとされてきたことは否めない事実であり、そのことが意味するのは、無礼を承知の上で書くと、わが国におけるフランス時代のセガンの知的障害教育論に、マイナス的な意味での大きな影響を与えてきた。
 私は先行するセガン研究者の名誉を傷つける意思は全くない。セガン研究を開拓し、わが国の障害児教育に位置付けてきた業績は大きいものがある。だが、研究上犯しているミステークは継承されてはならないというかたくなな態度を持って諸研究を読み進めてきた。そのミステークをいちいち指摘する必要はないが、その後のセガン研究に、長い間、住み着いてしまっていたミステークは糺されなければならないだろう。そうしたことを前提にして述べると、中野善達氏の訳書は間違いなく、セガン研究を大きくミスリードしてきたと言わざるを得ない。
 1.訳出されていない段落、文章、語句が数多くある。つまり、セガンの論理の読み取りに強い齟齬を持ち込むことになる。
 2、意味が逆転している文章構造理解が少なくない。これはセガンの論理そのものを壊すことになる。
 3、歴史事象を理解していない訳出個所もいくつかある。など。
 また、解説を意図しているであろう「訳者あとがき」における、セガンのフランス時代の活動に関する誤認は、あまりにもひどすぎると言わざるを得ないことが少なくない。これは例示しておきたい。一例にしか過ぎないのだが(中野訳書、210~211頁)。下線部は私が記したもので、史実と明確に異なっている。
「・・・1839年、パリ救貧理事会はセガンに対して、サルペトリエール院内の不治者施療院に、白痴児教育のための実験学級開設を許可した。セガンが実際にサルペトリエール院内で実験教育を開始したのは1841年10月であり、その三か月間のまとめが(中野訳書に収録した―川口付記)『知的遅滞児・白痴児教育の理論と実践』である。これは10人を対象に行ったことの報告であるが、彼は教育の成果を自信をもって、また熱をこめて語っている。これこそ、「私の知性と愛の業績」だというわけである。
 セガンの実践は、パリ医科大学の学長オルフィラ(…)を長とする調査委員会によって調べられ、きわめて高く評価されるとともに、さらに多数の子どもたちへの適用が求められた(この結論は、『白痴の衛生と教育』の末尾に掲げられている)。彼は、1842年末、ビセートル院内に学校を設け、一人の助手とともに知能障害児たちの教育にあたった。そして、これまでの彼の実践を基に、体系的な白痴教育の著述『白痴の衛生と教育』を発表した。これは「公衆衛生と法医学」誌に掲載されたのであるが、この雑誌にはオルフィラやエスキロルが名を連ねていた。…」 (続く)


セガンにおける「服従」ということ その2

2018年05月27日 | 研究余話
 maïtre(メートル)が盛んに出てくる。「教師」と、中野善達氏はセガン論文の翻訳で充てている(『エドゥアール・セガン 知能障害児の教育』福村出版、1980年)。ただ、ぼくたちが日常的に使う今日的な意味での「教師」とはまるで違った意味合いでセガンはmaïtreという言葉を使っている。絶対的服従関係の「主人」と言ったほうがよい。
 フランスの小学校での参観を繰り返していくと、やがて、子どもたちが教師を固有名詞・愛称で呼ぶ場面とmaïtreと呼ぶ場面とがあることに気づかされる。前者は親和的な関係性を示し、後者は畏怖的な関係性を示す。だから、フランスでは、今日もなお、教師と子どもの関係は畏怖的関係、すなわち絶対的服従関係を残しているのだな、と思わされる。そういえば、「教室に入るのはメートルの許可がなければ絶対に入れないんだよ。」と教わり、ぼくも子どもたちの列に混じって、メートルの号令によって教室に入ることを求められた。
 こういう文化性を背負っていることを踏まえて訳出をしなければならない。セガンがOという人の子息の教育のあり方について助言をしている文書。内容から言ってO氏は資産家である。つまり、家庭教育方針についての助言。セガン27歳の時のことだが、まるで、ジャン・ジャック・ルソーが『エミール』をしたためたのと同じである。『エミール』はある貴族の婦人に対して子育てのテキストとしてしたためたものであったのだから。そして『エミール』にもmaïtreという言葉は頻出するし、maïtreは子どもに対して絶対的服従を求める関係にある。
 「白痴」とはセガンはこの書では書いていない。一般的な子育ての書のように読むこともできる。しかし、「白痴」教育を手がけ始めたばかりではあった。「白痴」の子どもについての子育ての書。裕福な家庭では幽閉し、放任し・・・など、「白痴」の子どもはなんら未来の「市民」として期待されることはなかった時代、もちろん貧窮家庭では「白痴」は棄てられた時代、そういう時代背景を持っている『子息の教育についてのO氏への助言』は、きちんと読まれなければならない。
 そういう意味でも、「教師」?「主人」? 安定した訳語を考えなければなるまい。

 結局、「服従」を、現代日本における文化観の枠内で評価することは、非常に危険である、ということだ。歴史的にも社会的にも「異文化」概念である(もちろん、共通文化の側面も見逃せない)ことを前提に議論をする必要があろう。ぼくが常に語り言葉化していることで言えば、「時代社会の中で言葉や事象をとらえる」ということだ。

セガンにおける「服従」ということ その1

2018年05月26日 | 研究余話
 かつて以下のようなことを綴っていた。
 
 セガン研究の入り口で、我が国における研究の先駆者・清水寛氏(埼玉大学名誉教授)から、オネジム=エデュアール・セガン(1812年フランス生まれ、1880年アメリカで死す )の白痴教育の近代史的先駆性について、しばしばレクチャーをいただいた。「白痴は人間でないとされていた時代に、教育を通じて白痴もまた人間であることを実証した」というのがその趣旨であった。「白痴は人間ではないとされる時代」をどう読むか、今もなお、考え続けさせられている(1840年代、精神医学では「動物的人間」と形容することもあった)。その時、清水先生は、こうもつけ加えた。「これほどすばらしい人間観を持っているのに『服従』が大切だ、と言っているのですよ。」と。これもまた、考えさせられ続けている。
 そもそも「教育」とは「社会化」のために行われる社会的営みである。どれほど自由で自治的な教育を行っているというフレネ教育であっても、その到達は「社会化」である。教育史上、「教育」とは社会による目的的な誘導があり、それにふさわしい指示がなされる、それが専門職者の「教師」によってなされる。考えようによっては、「教師」による「指示」に従わなければ、つまり「指示」に「服従」しなければ、「社会化」はおぼつかない。
 こう考えると、セガンは、白痴の子どもたちの社会化の可能性を求めたが故に、「服従」を重要な概念として定めた。だから、清水先生風に言えば、「白痴は人間であるからこそ社会化が求められる、社会化のために服従はなくてはならない資質なのだ」ということになる。
 国家主義的権威への盲目的服従を強いる機関だとして近代(学校)教育を否定し、破壊する思想と行動を、少なからず内包し続けてきたぼくの「近代学校」観を、セガンを通じてきちんと洗い直さなければならないところにいるようだ。
 ちなみに、「服従」とは、セガンの原語で、obéissance。「統治下に置く」というような意味になる。

 「服従」概念は、セガンの1843年論文に登場する。同論文は、訳書『初稿 知的障害教育論 白痴の衛生と教育』(幻戯書房、2016年、川口幸宏訳)でいうと、「第17章 服従―権威」で触れられている。これは、清水氏の言うような嘆かわしい考えなのかどうなのか、をぼくなりに簡単に考察したのが、前記のことである。やや機械的に、清水氏に反論意図を込めて、綴っているところもある。子どもたちの「自治」の問題、「自由」の問題も含めて、考察すべきだろう。

悩ましい史料との出会い 精神病者の描き方

2018年05月25日 | 研究余話
 添付図版は『イリュストラシオン』紙1844年発行に掲載されたもの。コピーに「(ヴィルヘルム・フォン・)カウルバッハに倣った精神病者」とある。カウルバッハとはドイツの画家、歴史画や宗教画、人物画を描いた(そうだ)。
 私のセガン研究では避けて通ることができない史料。しかし、史実と合致するかどうか、悩ましい問題とぶつかる。
 19世紀前半期に、精神病者の治療法として、「演劇」(観賞も含む)が導入されている。目覚ましい治療効果があったという報告書もある。劇場も病院内に建設され、知的障害を持つ子どもたちには音楽、とりわけ合唱が導入された。セガンは熱心に指導に取り組んでいる。
 ところで、添付図版を見る限り、描かれているのは成人の男女である。これが私の頭を混乱させている。
 かたくなに男女を区別し、空間もまた別々にしていたフランスの時代・社会にあって、精神病者も同じ処遇であったのは確たる史実である。
 しかしこの絵は男女混合。これは作者の精神病者のトータルイメージとして描かれたものなのか、それとも事実であったのか。
 悩ましい史料との出会いである。

精神病者に対する療育改革(ビセートル)

2018年05月24日 | 研究余話
イリュストラシオン紙1844年版より

 巨額の金額が3年来ビセートルの第5部局ならびにサルペトリエールにかけられていた;要するに、救済院評議会はまったく資金を出すつもりはなかったわけである。
財布の紐を弛めない施療院の開設、それは困難なことである。にもかかわらず、難題は厳然としてある。ビセートルから3キロメートルのところにありサンテ門の近くの、サンタンヌ農場はかつて1200フランで賃貸しされ、様々な借地人によって、それなりに、うまく開発されていた。しかし、かなり以前から、それらは放置されたままになっている;土地は石材を採掘するためにあらゆるところがめちゃめちゃになっており、耕作に適したものは一ヘクタールとてなかった。建物は荒れ果てており、内部の諸設備はすっかり損ない、覗き窓と門は外枠も風抜きもない;要するに廃墟であった。
 フェリュス(Ferrus)氏は、まず、患者たちの手で土地を平らにすることを勧めた。やがて、およそ5ヘクタールの広さの、塀で囲まれた小さな屋敷の土地が耕作されるようになる。その最初の年(1833年)から、この小さな屋敷は、純益1900フランを救済院にもたらしている。
 この成果によってさらに強く、フェリュス氏は、労働者を農場の建物に住まわせることを要求した。さらに管理上、その建物は住まいとするには困難であること、修理のための資金に欠乏していることを申し立て、建物を回復期にある病人を受け入れる状態にすることを提案した。提案は受け入れられ、最善を期して修復され、入念に清潔にされ、サント・アンヌ農場の建物は、ある程度まで、自身がそこで暮らすのだとみなす新しい住人を迎えた。石工、骨組み、指物細工、金物細工、屋根、ペンキ塗りなどの仕事全部、精神病者によってなされることになっていたからである;管理は、道具や原料の調達、そしてベッドを運び込むこと以外はほとんど援助をしなかった。
 フェルス氏は、この点で、そして力強く、故デスポルト(Desportes)氏による救済院評議会に対して、要求を変わらずに出し続けた。1835年に公刊された、ビセートル施療院ならびにサルペトリエールに関する報告が、我々が詳しく語る諸事実を裏付けている。また我々は、ビセートルの管理者であるマロン(Mallon)氏によるあらゆる改良事業の、見識のある協力に関する証言を聞かなければならない。賢明な管理と哀れな在居者を日々改善することに示した配慮によって、彼は、ピネル(Pinel)によってその名を不朽にならしめられた、ピュザン(Pussin)の立派な後継者としての姿を見せるようになった。さらに、サンタンヌの主任監督であり、農業に対する気配りといい、活動といい、認識といい、それらによって今日の恵まれた状態にあるまで持ってくるのに非常に貢献しているベギン(Beguin)氏の言葉を引用する:地味にすばらしいことをなした謙虚な人たち、また、多くの場合、より重要なことを措置うまくなしてくれた謙虚な人たちは、彼らが科学と人間性の名で求めたこれらの改革に与っていたとして、広く知られてしかるべきである。
 畑仕事が中断されている季節の間、デスポルト氏は、精神病者に仕事を与えるために、救済院のおろしたてのシーツを洗濯させることを、提案した。当局は毎年10000フランをシーツの洗濯のために使った。洗濯場がサンタンヌの塀で囲まれた小さな屋敷内に設けられ、屋敷の近辺はシーツを干すのに役だった;この簡単できちんとした仕事は喜んで精神病者たちによってなされ、当局はすぐに10000フランの年間利益をあげた。後に、衣類やビセートルの毛布を精神病者たちに洗濯をさせるようになる;この仕事領域は、汚くてまったくいやな仕事であるが、できるだけ楽になる薬を与えるべきであると心得た医師によって許可されなくなる。しかし、当局は無視し、ビセートルの衣類の洗濯はつねにサンタンヌで行われた。我々は、その点で、当局が医療指示違反を気にとめていないことを見て取るであろう。

「家族協会」のいう「弱者」について 「白痴」を含むのか?

2018年05月23日 | 研究余話
 1830年代から40年代のフランス社会は、革命運動組織が結成されては弾圧されるという繰り返しの急流ひたはしる激動期にあった。秘密結社「家族協会」は繰り返される弾圧にもめげず、革命への情熱を失うことなく、言論、運動、集会、決起等を試み続けている。
 エデュワール・セガンは白痴教育を手がける前、ならびに白痴教育実践の場を剥奪されて以降、秘密結社に加盟し、社会運動を展開していた事跡がある。
 さて、秘密結社「家族協会」の加入申込書(1836年以前)に綴られた綱領のようなものの一節に、「第8 軽蔑され、迫害され、法から外されているのは誰か?-貧者と弱者。(Quel est celui qui est méprisé, persécuté, mis hors la loi? - Le pauvre et le faible.)」というのがある。このうちの「弱者」とは、具体的にどのような様態を示しているのか、当時でいう「白痴」も含まれていたのか。
 端的に言えば、「白痴も人であり人権があるとセガンは認めたから白痴教育を手がけたのです」と某氏がぼくに語ったことが、史実に即した某氏の断定であるのかどうかという検証作業でもある。
 まずは「白痴」に関わる一般(社会)認識。
 19世紀中葉、大衆に非常に人気のあったウージェーヌ・シューという小説家が作品『パリの秘密』の中で、「これらの不幸な人たちは、知的能力を完全に失っているために、もはや我々と同類にも属さず、それかと言って動物種に属さないようにさえ思われる。癒しがたいほどに病に襲われたこれらの人々は、生物よりももっと無気力な人間としてあり・・・」と書いている(引用は、Éugène Sue: Les Mystères de Paris IV, G. Charpentier et Cie. Éditeur, Paris. 1851,より)。
 医療分野では「動物的人間」を公称している(たとえば、セガンのビセートルにおける上司である医学博士フェリックス・ヴォアザンは『動物的人間について』とのテーマで、医学アカデミーで報告をなし、専門医学書を上梓している)。
 医療的には不治患者と処遇され、終生、閉鎖監禁処遇であった。教育が可能かどうかとの「実験」がなされ始めたのは1820年代初め。ただし、知的道徳的能力の発達が問われたのみであり、教育によって白痴が社会参加が可能になる、という理解は全くされていない。せいぜいのところ、「白痴が教育を受けて普通の人と同じような到達が期待されるということは、ばかげた考えだ」(ベロームという,白痴は教育によってある程度発達する、という博士論文を書いた医師)という理解に留まっている。
 一般社会でも医学分野においても、白痴(idiot)は、やはり「異邦人」(idio)でしかない、という時代社会の認識である。セガンも、1843年論文で、白痴について次のように綴っている。「脱落者階級、除外範疇(Classe déclassée, catégorie à part)」と。「異邦人」に対しては、現代においてさえ、その社会の有する「人権」観念は適用されないほど、人類社会は未だ「人権」思想と実践は熟成されていないということを考えれば、19世紀はいわんやをや、なのである。

1848年(男子)普通選挙について パリ・コミューン研究への接続

2018年05月22日 | 研究余話

臨時政府は憲法制定国民議会を発足させるために、次のような政令を布告した。「男子普通直接選挙」を初めて成立させた歴史的な政令である。なお、政令の公布の日は1848年3月5日であるが、決定は3月2日である。
・・・・・・・
共和国の臨時政府は、
人民の利益に適い人民の命ずるところによって執行する権力を、できるだけ早く、確定政府の手に委ねることを望み、
  布告する:
第 1 条 憲法を発布する義務を負う国民議会に人民の代表者を選挙するために、来る4月9日、カントン(小郡)の選挙集会が招集されることとする。
第 2 条 選挙は人口を基盤に応じてなされることとする 。
第 3 条 人民の代表者の総数は900。アルジェリアおよびフランス植民地を含むこととする。
第 4 条 代表者は別記一覧に配分された割合で各県に配分されることとする 。
第 5 条 選挙は直接かつ普通に行われることとする。
第 6 条 有権者は、21歳以上、コミューンに6か月以上居住しているフランス人で、市民権執行が司法上剥奪され、あるいは停止されていない者とする。
第 7 条 被選挙資格者は、25歳以上のフランス人で、市民権剥奪または停止のない者とする。
第 8 条 投票は無記名とすることとする。
第 9 条 すべての有権者はそれぞれのカントンの役場所在地で、列記投票によって、投票することとする。
 投票用紙には県で選ばれる代表者と同数の名前が記載されることとする。
 選挙開票はカントンの役場所在地で行われ、県で集計されることとする。
 2000票に届かない場合には人民の代表者として選出され得ないこととする。
第10条 それぞれの人民の代表者は、会期中、一日当たり25フランの手当金を受け取ることとする。
第11条 臨時政府の教書が本政令の執行細目を取り決めることとする。
第12条 憲法制定国民議会は4月20日に開かれることとする。
第13条 本政令は諸県に発送され、共和国のすべてのコミュヌで公示されまた掲示されることとする。
パリ、政府評議会において決定された、1848年3月5日。

第6条および第7条について、若干の説明を加えておきたい。
第6条は投票権を有する者についての規定であり、同一コミューンに6か月以上居住する21歳以上の者である。投票権を有する者すなわち有権者の原語はélecteurである。忠実に訳出するならば「男性有権者」ということになる。ただ、この時代にはまったく女性に「権利」付与が為されていないから、女性有権者を示すélectriceという単語はなかったと考えられる。条文の意味する内容を忠実に表現するならば「有権者は同一コミューンに6か月以上居住する21歳以上のフランス人男子で、市民権の剥奪や停止のされていない者である」ということになる。第7条は被選挙権規定であり、第6条と比較すれば居住条件がなく、年齢が25歳と高くなっている。第7条をさらに解釈をすると、複数選挙区での重複立候補を禁じていないということになる。事実、重複立候補制はフランス近代史の一つの特徴となっている。
ところで、48年革命以前の有権者は25万人であったという。この政令によって導入された男子普通選挙制による有権者はおよそ900万人となった。この選挙制度による投票率は84%であった。しかし、考えなければならないことがある。それは識字率との関係である。1870年頃の識字率調査では男子が60%を切る識字率である。それよりも20年も前であり、すでに初等教育は義務教育となっていた(1833年)とはいえ実質就学率はかなり低いものであった。憲法制定国民議会議員選挙の候補者公報に「義務・無償の公教育(の実現)」が多数掲げられていたことを見ても、そのことは間違いではあるまい。このような状況の中での普通選挙である。低い識字率にもかかわらず高い投票率という事実は、どのような「事態」が投票行動のバック・グラウンドにあったのか、という問いをやむなく持たせてくれる。いうまでもなく「誘導投票」である。コミューンの有力者(地方にあっては村長、司祭、地主など、都市にあっては親方、工場主、司祭など)が投票すべき人物名を書いた紙を事前に渡し、有権者住民を投票当日、役場の投票所まで引率し、紙に書いた人物名を投票用紙になぞらせて書かせる、というものである。この結果、およそ900人の当選者の内、王党派が約300、中道的な立場に立つ共和派が約500、残りが民主社会的共和派という構造となる。フランスは革命によって王政を廃し共和国になったが、その「共和政」の実態は社会主義・民主主義を排除するものであった。ソブリエ・セガン等の「信頼する愛国者に共和政の防衛を訴えるために設立された委員会」の宣言の中で「臨時政府が悪い方へ悪い方へ転がっていく」と記されているが、「転がって」行った先の普通選挙実施による結果は、再び、社会主義者・民主主義者への弾圧という歴史的な政治犯罪を誕生させている。
(出典:Murailles (Les) Révolutionnaires de 1848. E. Picard, Libéraire-Éditeur. Paris. 1868.)