ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

船橋でランチ

2017年03月31日 | 日記
○7時起床、起床時室温11℃。2度の目覚め。
*なかなか眠りつけなかったこともあり、セガンに関わる研究的なことを振り返った。特に、今回のシンポジウムでは、我が国のセガン研究者が騒いできたような、父親のルソー主義がセガンの思想の根底を作り上げた、ということ。考えてみればとても重要な考えなのだが、シンポジウムでは、そのかけらさえ語られなかった。ぼく自身は日本的なセガン像を批判することでセガン研究をやってこなかったのだから、シンポジウムのそういった空気は大歓迎なのだが、その一方で、しっかりしたセガン像は見えていない・・・。
○テレビが点くようになり、生物画像が良く番組から選ばれている。野生生物のたくましさを味わうことができるかと思うと、ペットのかわいさを堪能することができる。今日の夕食時、犬猫の家庭内映像が流れているとき、ヒメが画面を食い入るように見ているのを目撃した。画面の動きに合わせて彼女も身体を動かす。内の他の猫ではまだ見たことがない。ヒメはゴム紐にも興味を持って遊ぶので、動態に強い魅力を覚えるのだろう。こういう楽しみが増えたな。
○セガン生誕200周年記念シンポジウムで描かれたセガンの生育史論への問題と課題とをレポートにまとめ上げたので、支援者さんにお付き合いをいただいて、打ち上げランチ。レポート・テーマは「とどのつまり」。ランチテーマは「春」(握りとお茶)。明日からまた新しい課題に向かって出発進行!

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シンポジウム報告書レポート書き

2017年03月30日 | 日記
○6時起床、起床時室温8℃。5時に目覚めそのまま眠りにつけず、だらだら。今後の生活のあり方を深く考えると目が覚めてしまい眠れない。
○シンポジウム報告書レポートかき揚げ。疲れた。A4、6頁。
○3年前に退院して始まったおののきの生活記録はこんなんでしたー
「家の中のちょっとした出っ張り―畳の縁のようなものさえーに左足先を引っかけて倒れることしばしば。
 階段の上り下りも、上りは右足から、下りはダメージを受けている左足から、一段ごとに両足揃える、片方の壁に手をついて、そろりそろり。手に本など持てる状態じゃない。俺、もう2階の書斎に用を見つけないようにする、と決意。
 中腰になると重心不安定で後ろにひっくり返り頭を打つ。畳の上だからいいような物だと思うしかない。中腰にならないようにしようね。
 それと、和室で座る時立ち上がる時は、あたかもごきぶりホイホイにひっかかった姿態をかなりの時間曝さなければならない、というよう状態。やだなあ、これ一生続くの?ゴキブリ人生。
 何もかも、別人生が待ち構えております。・・・・」
 3年後の今朝は、上の状態は克服し、ノロリのそり、ムックごろごろ屋内生活を送っております。階段の上り下りはまだつらいですが、ホンは持ってい階下に移動することをしています。
 さあ、4年目の生活の出発!
*機能回復をある日、あるとき、あれ?ひょっとして・・・と感じる場面はいくつかある。その中でも印象的なのは、両手で水をすくい取り顔を洗うことができることに気づいたことだ。これは感動しました。右手で水をすくい取りチャプチャプやる生活から脱却できたのですからね。何というか、一人前になったというか。
*片脚立ちができれば嬉しいなあ、と思い、時々、左脚一本で立った真似をする。とたんに、グラグラとからだが揺れ、また右に捻れるように縦軸が不安定となり、3つ数える間も持たない。ほんと、左脚は赤ちゃんなんだな。で、今日、良いお天気につられて外に出、桃の花を見つめていたとき、ふと、右手で枝を持ち、右脚を上げて一本足支えありポーズでしばらく立ってみた。これは随分長続き。じゃあ、手、離しみっか、と左脚一本立ちに挑戦。なんか、ぐらりが昨日までとは違う感覚、かつ軸ねじれが感じられない。枝を摑んでは離し・・を繰り返している内に、20まで数字を数えて立っていることができた。おおー!進歩してるやんけ。明らかに特訓リハビリ内容と連動している。
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診察日

2017年03月29日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温8℃。
*Now! Voyaer.の主演女優と英語、フランス語、日本語混じりの不明会話の夢。楽しかったという感慨は残っている。スペイン?らしき漁村で。
○ 今日は6週間ぶりの診察。といっても問診だけだと安心しきって予約時間の30分前に受診票を提出したとたん、「川口さん、血液検査に行って!」。オラァ、聞いとりゃせんが、もし。看護師さんに尻叩かれて検査室へ。今日の採血は、いつも痛いなあ、という思いをする看護師さん、お手柔らかに、ね。
 予約(指定)時間より60分遅れで主治医の前に座った、おどおど・・。とたんに、大声、「まったく問題ないっ!血液、問題ないよ。」お礼を言う必要は無いが、つい、ありがとうございます、と発声。それで今日の診察は終わり。
 退院して3年経ったから、リハビリセンターにたちより、お世話になった行動療法、作業療法の先生にご挨拶を兼ねて、顔見せ・・イヤ、足見せ、手見せ。
「えっ、普通の歩幅で歩けるの?」 行動療法士、破顔一笑。
「ほぉー。両手の平に水を蓄えることができるんだ。指もまあ良く動いているね。」 作業療法士、余は満足じゃ顔。
 こういうの、恩返し、というのかな。まだ一人前ではないけれど。彼らの前にいたときのぼくは・・・。
 帰り道はいつものように運動を兼ねて1時間歩き、スーパーにたちよって今日のご褒美のドーナッツを買い昼食代わりにぱくつき、床屋に寄ってあなた任せの考えもしないヘヤースタイルに変わり身し、帰宅した。
 8時に自宅を出て15時30分に帰宅。疲れたけれど心は晴れやか。
○シンポジウムまとめ、終わりません。
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シンポジウムの報告書レポート書き

2017年03月28日 | 研究余話
○7時30分起床、起床時室温4℃。朝方3時間ほど眠ったのみ。後は横になっていただけ。
*幼少期にお世話になった天野屋のおばさんが登場。やはり存在感がありました、怖い、けれど優しい。自作していた狭い畑に7人のこびとの姿形をした真っ黄色の豆がびっしり実っていた。きれいな青い葉と対照をなす色彩景色。幼少期の夢を見るのはまず無いことだ。
○資源ゴミ出し。
*たまった新聞束が玄関に出してある。「それ重いから。」と、弘美君のぼくに対する気遣い言葉。出勤途中にステーションに持っていくつもりでいたようだ。いえいえ、チャレンジしてみます。右手は健常なのだから、歩行に十分気をつけますから。近場の他の町会さんのステーションは目と鼻の先にある。今日はあそこをお借りしてみます。ということで、しっかり足を運んで事をすませました。今度はちゃんとしたステーションにペットボトル。坂を登っていくと、町会のボスNさんと顔を合わせたが、Nさんはご自分が経営なさるアパート群用のゴミステーションにそれを置いていきなさい、とご親切をくださった。そのぼくの隣をお隣の奥様が資源ゴミをたくさん手に持って一番遠くの「正規」のステーションに向かって足を運ばれた。またなんか、奥様方会話の話題になりそうな雰囲気だな。
○今日のお昼は焼きそば。玉葱とキャベツをたくさん使っています。肉類は冷蔵庫を漁って、ゆで海老、カマボコ。紅ショウガをトッピングして色を出しました。塩はまったく振りかけていないが何故か塩がきつい。隠し味にとおとしたごまの辛み油の姓だろう。次回からは使わない。たくさんたくさんの野菜具でお腹いっぱい。

○セガン200周年シンポジウムのまとめ報告、細部にこだわり始めてしまったので先に進まない。有り体に言えば本論部の入り口に来ただけ。意識も目も疲れてます。
○我が家族へ
 今日は3年前に病院を退院した日。病室から車椅子、病院玄関口からタクシーに乗り換えて自宅へ。自宅の門扉前でタクシーを降りたけれど玄関までは階段なので車椅子使えず。あなた達に両脇を抱えられて1ヶ月半ぶりに自宅内へ。タクシーの窓越しに移りゆく桜並木。花吹雪が退院を祝ってくれていた。
 退院はしたけれど、どう生活するのか、皆目分からず、壁に手を添えて室内移動を繰り返したっけ。オレ、本当に退院していいような体なのか?あなた達に大きな負担をかけてしまうんではないか?どうしよう…。
 退院の翌朝からは6時起き。布団を上げなきゃ、と行動開始をするが、両脚踏ん張り布団を持ち上げ移動することなど、できはしない、そんな障害に面食らう。観念的に、がんばろう、と自身を励ましはするが、どうすればがんばることになるのか、具体的には分からない。顔を洗うことさえがんばることに入るなんて、考えもしなかったものなあ。
 あの日からもう3年。今がんばる課題は何だろう、と問い続けてきて3年。その問いはいつまでも止むことがないオレ、そしてあなた達。自分でできることを見つけ、その幅と質を広げ深める努力をすることで、前に進んでいきますね。これからもよろしく。
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粋生倶楽部増尾通所リハビリ

2017年03月27日 | 日記
○7時起床、起床時室温7度。組合?研究集会?参加のため旅館に泊まる。和歌山の山下君や梅田さん始め和歌山時代の同僚の顔も見える、懐かしい。料理会場に行くとずらりと大きな白いイカが並べられている。板長さんが、皆様にイカの裁きから料理を味わっていただきます、と挨拶。まあ、一人ひとりがイカの皮を剥いて刺身にして食べるイカの活き作りという手抜き料理だわな。さっそく両手に持ち上げると、あろうことか、イカ君、イカちゃん?一番長い二本の手でぼくの顔をすりすり・・・。急に愛おしくなって、まるで猫を抱き上げるように抱えた。結局、夢では、イカはぼくのペットになって部屋に落ち帰った。
○燃えるごみ出し。雨の日のごみ出しはつらい。右手に傘、左手にゴミ、そして坂道を登る。側溝がないので雨水は道を激しく流れる。
そこへ坂登の車が通りかかると、こちらはタイヤがはね飛ばす水の大量のしぶきを浴びる。車は登りだから勢いつけて走るのでよけいにしぶきを浴びる。こちらは逃げようもない。
○通所リハビリ。
*コーヒー淹れ、レッグマジック、踏み台、ハードル歩行(番長さんに姿勢がいいと褒められた)、バランスボール、マットで歩行訓練。ボディケア、あったか姫。今日はゴム紐歩行訓練はお休みしてしまった。
*4月から新しい訓練種目を入れてくださると、所長さん。頑張りましょう。
*雨の日のドライバーさんは大変です。利用者の歩行のアシストをすることと傘差し。事前にスタッフから教えて貰っていました。前回ハラハラしたことは今回ちゃんとカバーしておられました。やはり、すてきな施設です、ここは。
○午後、「とどのつまり」執筆。ぼくの報告話の前提はどこにも記録を残しておかなかったので、つい書いてしまう。
○寒さがきつく、ネコたちもぼくの部屋をうろつきにこない。2階で団子になって寝ていることでしょう。久しぶりに足下に湯たんぽを置いてパソを叩いている。手のカジカミはどうしようもありませんね。
○あまりにも寒いので、夕ご飯はスープカレーにしてみました。初めての制作。コンブ(出汁)、トマト、ジャガイモ、海老を投入。大体思った通りかな。もう少し辛い方がぼくの口に合いそうだな。

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セガン研究新聞「とどのつまり」原稿執筆

2017年03月26日 | 日記
○8時起床、起床時室温11℃。2度起き度寝。
*飛行機に乗った。飛び立つときも降りるときもごつごつの岩山が屹立する間を縫っての飛行。なかなかのスリル。岩山と岩山の間の海面上で多くの白鳥が羽を休めていた。怖くて心安らぐ夢見。
○今日のお昼は・・・。名前の付けようがない炒め物。ジャガイモ、玉葱、はんぺん。オリーブオイルで、塩少々。松葉けを少し添えました。貧すれば鈍す。けっこういけまっせ。

○午前中から夕刻まで、セガン生誕200周年記念シンポジウムの報告書に綴られたセガン史の特徴を紹介する目的を持った「とどのつまり」紙の執筆作業。気楽に始めたけれども、事実をきちんと伝えるということの言葉の選びでけっこう躓く。今日は、ぼくとシンポジウムの関わりについてで終わり。疲れました。
○150年ほども昔1871年の今日3月36日、フランス・パリで男子普通選挙が導入された市議会議員選挙が実施された。国政選挙ではないのであまり着目されないけれども、私たちの「今」ときわめて通じることになったきっかけであるといえば、少しは振り向いてくださるだろうか。マルクスによって綴られた『フランスにおける内乱』の主舞台。そう、「パリ・コミューン」の指標の大きな一つとなった日である。
 2000年から「パリ・コミューン」に関する当事史料を収集し研究してきた成果として、『一九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)の第二部に、収集史資料を駆使して「パリ・コミューン」の実像を綴った。教育改革が主題だが、それは、我が国の戦後教育制度のさきがけとなるものであった。しかし、暴圧によって、凄惨な大量流血とともに、歴史のほんの一時に留まる運命の教育改革であった。
 自由と民主主義、そして何よりも民衆の教育への願いを制度的に、科学的に実現しようと死を以て闘った先駆者たちの多くの御魂に、祈りを捧げます。
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粋生倶楽部増尾通所リハビリ

2017年03月25日 | 日記
○6時45分起床、起床時室温11℃。ほとんど眠れず、というか、浅い眠りの連続。
○通所リハビリ
*コーヒー淹れはGさん。歩行訓練、ハードル訓練、マット訓練、ゴム紐訓練、レッグマジック、自転車、マッサージ、あったか姫。
*今日のレッグマジックはすくなめ、脚への負担を考えて。
*看護師のYさんに両脚爪を切っていただいた。深謝。皮膚科に行き爪水虫の薬をもらうようにとの指示。
*所長さんと長めの会話。手作りの良さ。ぼくのフィールドワークを評価してくださる。うれしいですね。
○セガン生誕200周年記念シンポジウムでセガン生育史に関わる重要な情報が幾つか出されたので、それらを『セガン研究報』(臨時号)にまとめて、知人・関係者に配ろうと思う。ぼくの生育史研究との異同も含め。
○久しぶりに、レシピ付き昼食
マグロの血合いを自作のトマトソースで。未経験料理。
トマト2個、ニンニク1片 細かく刻む
日本酒、オリーブオイル 適量
だしつゆ 小さじ1杯
黒胡椒(粒) 適量
以上の上にマグロ血合い肉を乗せ、弱火にかけて、ぐつぐつ・・・
臭みは一切なく、おいしく食べました。貝の代わりをマグロ肉に、という料理です。
我が家では猫たちと私が争って食べます。猫に勝ちました。



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静かに過ごす

2017年03月24日 | 日記
○7時起床、起床時室温12℃。
*どうしてだかほとんど眠れず。昨日痛めた右脚の痛みは引きずっていないが。
○「この薬は血管が詰まりにくくなる血液サラサラ薬です。怪我をしたら血が止まりにくくなる薬です。」
 効能というか注意というか。
 用心に用心を重ねて、転ばないように、切らないように、ひっかかないようにと生活をしてきたが、「打たないように」という心根は少しも持っていなかった。
 で、昨夕、外階段で思いっきり右の向こう脛を打った。痛いことは痛いけれど耐えられないほどではなかったが、後刻、出血をしているのに気づいたーこれがとんまなぼくらしいところなんです、ハイ。
 本当に血が止まりにくいですね。薬効万全です。
 傷口を消毒し、絆創膏を張り止血代わりにしましたーあ、弘美君にしてもらいました。
 気をつけよう、自分は自然な健康体ではないのだぞ。
○ほぼ終日、清水先生に手紙書き。これは、ぼくのセガン研究を、ぼくの方法論の視点からの再点検というか総括というか、そういうことが出来るようになった2012年のシンポジウムであったこと、やっと孤独な戦いを終えることが出来るようになった、というぼくの心根を背景とした、新しいセガン研究情報の一環としてお伝えする趣旨。だから、ぼくのセガン研究の「応援者」たちにもお送りしようと思っている。なるべく簡潔、鮮明に。
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S氏にあて、2012年シンポジウム報告に関する手紙

2017年03月24日 | 研究余話
S 先生

寒さもすこし和らいで参りました。その後いかがお過ごしでしょうか。
たびたびお便りを差し上げる無礼をお許しください。我が国のセガン研究を開拓され、リードをしてこられた先生だからこそ、先生とは別視角でセガン研究の世界に参入した者の立場で、「セガン」を、今、どのように読むことが出来るか、どのように読まれているかをお伝えしたいと思っての一連の行為であります。
今便では、とくに、2012年10月、クラムシーで開かれたセガン生誕200周年記念シンポジウムではどのようなセガン像が提案されていたのか、についてお知らせしようと思っております。今回は「白痴教育」には関わらない情報です。生誕から1830年代半ばまでの幾つかのトピックスを取り上げ、内容紹介と共に私のコメントを添えることにいたします。取り上げた報告は、心理学者ダニエル・ジャロウ「エデュアール・セガン:出自と後継―伝承と虚構の間で」。私の研究内容と重なる唯一の(活字化された)報告です。シンポジウム報告書pp.19-48.
(なお、私が、セガン研究において大いなる賛辞を送り学んできた医学博士ジャン・マルタン氏のセガン研究報告は残念ながら活字化されておりません。マルタン氏の報告の中に私のセガン研究の成果が、アドリブではありましたが、大きく採り入れられていたことを思えば、残念なことです。)

1.学歴に関して
   おそらく1818年~1824年頃 クラムシーのコレージュの初等科
       1824年頃~1828年 オーセールのコレージュ
       1828年頃~    パリの王立コレージュ、ルイ=ル=グラン 
バカロレア有資格者となる。
       1830年      パリ法学校在籍開始
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①クラムシーのコレージュに在籍したであろう、ということであり、確定ではない。現在の就学習慣をそのままセガンにあてはめているようだ。「おそらく」とか「頃」とかの言葉を付加して学歴を綴っていることから、公的な記録文書にはあたっていないと判断される。また、この報告全体に「祖母の家の自室」記述もなければ、セガンが白痴教育論の中で厳しく批判を繰り返している当代の貴族・ブルジョア階級の子育て・教育についての論究も一切ない。近世・近代の子ども史・教育史について、あまり知見を持っておられないと感じる。
②パリの在籍コレージュをルイ=ル=グランとしているのは、セガン史資料を収集し公開しているギ・ティエイエ氏の説に従っているのだろう。しかし、ルイ=ル=グラン在籍とする根拠資料は、ギ・ティエイエ氏同様、提示していない。私はパリ国立古文書館で検索した結果を2010年著書に綴っているが、発見し得た史料はただ一件に過ぎないけれども、それに従うことに瑕疵はないと確信する。
③「パリ法学校」在籍はフランス近代教育制度史知らずであることを明らかにしていると言わざるを得ない。ナポレオン教育改革によって、旧制度下にあった法学校、さらに医学校は、それぞれ法学部、医学部と改称した。セガンが在籍したのは新制度の法学部である。

2.セガン20歳(1830年)の時の徴兵検査結果に関わって
ダニエル・ジャロウ氏は、徴兵検査の結果は、「右手奇形にして虚弱体質」「兵役可能」であり、7年間の兵役義務が生じている、ところが、1834年9月22日、ジャック・オネジムは、「兵役請負人」によってセガンの身代わりをさせた、としている。
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①私は、2010年の著作で、徴兵検査の件について、公文書に基づいて書いている。「兵役可能」であったにもかかわらず兵役に就いていないことは、徴兵検査の翌年1833年11月に法学部試験、同日学籍登録をしていることで明らかである。一体どうしたことか。
②ダニエル・ジャロウ氏はこの問題を、上記のように、「兵役請負人remplaçant」という存在を示すことによってクリアした。
③セガンは、徴兵検査の結果合格し、徴兵くじを引いた。徴兵される順番である。「召集兵第19番」であった。父親が徴兵検査合格の2年後に、前記のように、「兵役請負人」を雇ったのには、営舎入りが徴兵くじに当たった順番待ちによるのだろうか。このあたりはダニエル・ジャロウ氏も綴っておらず、推論でしかないが、すぐに兵役に就いていないことがこうした推論を成り立たせる。
④セガンに代わって兵役を請け負った人について、ダニエル・ジャロウ氏は、クラムシーの公証人アンギニオの息子ミニュートという人物であったことを明らかにしている。政治的権力と経済的優位性がなければ不可能なこの「交換」は、セガンの父親が、医学博士として国家の医療行政を通して身にまとった「力」がどれほどに大きかったことかを、推察することが出来る。そしてこの「力」は、セガンの白痴教育開拓史に遺憾なく発揮されたことだろう。

3.セガンがサン=シモン家族であったという従来の解釈に関して、ダニエル・ジャロウ氏は、おそらく、サン=シモン家族の一員ではなかった、と書き出している。それは、自身の見解ではなく、パリ国立鉱山高等専門学校技師であるアンリ・フールネル氏による次の指摘の引用からである。「ムーリス・ワロンは、1908年、『サン=シモン主義者と鉄道』を著している。その71頁、大方の鉄道敷設の主導は、多かれ少なかれ、サン=シモン主義教義の下になされた。すなわちジュール・セガンが、1831年にサン=シモン家族の第3位階メンバーとして加わっている。(・・・)彼は技師マルク・セガンの兄である。」
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①エデュアール・セガンが、1831年5月5日に、サン=シモン主義家族に第3位階メンバーとして列せられたとした私の典拠史料とムーリス・ワロンの主張の典拠史料とは同じである。その史料にはただSEGUINとのみしか記されていないので、両者とも論理上の史実=氏名特定となる。
②サン=シモン主義理論が鉄道の敷設等産業の近代化を実践的に図ったことは史実である。ムーリス・ワロンは、鉄道敷設の人的主導と理論的主導とを、ジュールとマルクの両セガンに求めたわけである。そのこと自体は決して誤りではない。ただ、1831年5月5日のセガンがマルクの兄ジュールだとする論理そのものは、アンリ・フールネル氏の指摘を借りて述べたダニエル・ジャロウ氏の報告からは読み取ることが出来ない。
③それに対するエデュアール・セガン説を採り入れた私の論理は2010年著書に示したとおりである。何よりもセガン自身の「回想」に、サン=シモン主義家族との親密な関係(学び等)が述べられていることは大きな意味を持つだろう。しかも、サン=シモン主義集団を宗教家族集団としての性格を持つことを、私は指摘しており、セガンの実践理論の中に、その性格を垣間見ることが出来ることを、現在、肯定的に検討中である。

4.1836年、セガンは、「芸術批評」を内容とした著書を出す計画であったこと(これは実現しなかった)、同タイトルで『ラ・プレス』紙に評論を執筆している。
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①ダニエル・ジャロウ氏はセガンの芸術評論の現物を見ていないのだろう。もし見ていたとするならば同評論の執筆者名の検討が必要であることに気づいたはずである。この問題は、拙著執筆時より引っかかっていたことであるが、同書公刊時には等閑に付しておいた事柄である。
②第1評論1836年8月3日、第2評論1836年9月8日、第3評論1836年9月22日。それぞれの筆者名は、第1がED. SEGUIN、第2,第3がSEGUIN AINÉ。
私は拙著で、SEGUIN AINÉについて、「セガン兄」という意味であること、弟ジュールがパリで医療に従事していたからだろう、と説明している。これは苦渋の策で取ったことであり確証はなかった。だが、この時期、SEGUINの名で活躍していた者に、前記3.で触れたジュール及びマルクのセガン兄弟がいる。そのことも視野に入れた執筆者確定をすべきであったと、今は反省している。
③気になることは、第1評論のあと第2評論までに約1ヶ月の間が開き(なんせ日刊紙なのに、なのだ)、しかも執筆者名が変更されている。ちなみに、セガンがSEGUIN AINÉを名乗ることは後にも先にもない。ひょっとしたら、ED. SEGUINとSEGUIN AINÉとは別人であるのかもしれない。1837年に白痴教育の道に歩みだした時のことを「死に瀕した病からようやく立ち上がった」と書いている。もしかして、その病の床に伏せり始めたのが第1評論発表の後なのかもしれない。当時、インフルエンザがパリ中に蔓延し、夥しい死者も出た、という。ある記録では、パリの住人の半分がインフルエンザで寝込み、残りの者がその看病に当たっていた、とあるほどの大流行だったそうだ。

今便は以上であります。史資料発掘と論理読み以外にセガン史を描くことは難しい作業だということを、今もなお痛感させられたシンポジウム報告でありました。私に体力と能力に余力があれば、シンポジウムの邦訳をしたいところですが、この作業は、後に、どなたかがなさるだろうことを期待してやみません。
それでは失礼いたします。

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シンポジウム報告書再点検作業、雑事

2017年03月23日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温12℃。
○燃えるゴミ出し。昨日よりは脚の調子は悪くないが、それでも疲れが早い。
○午前中、ゴム紐運動他。左脚外側面が突っ張ります。
*昼前、東武ストアーへ買い出し。インスタントコーヒーなど。昼ご飯用にたこ焼きを買って帰ろうと思って新柏駅改札前のお店へ。固くシャッターが降りておりました。定休日は水曜日、開店時間は11時からなんだけどなぁ。つぶれたの?それとも11時10分は11時からという範疇には入れない怠け者なの?
○シンポジウム報告書を精査。ぼくの中のセガン像ではないことが多くある。別記タイトル日記に内容を綴る。
○夕刻、外階段で右脚向こう脛を強打。3センチほどの擦り傷。思い以上のけがのようでなかなか血が止まらなかった。しばらく自身で手当てをしていたが、ちゃんとした方がいいと思い、弘美君に手当依頼。強い痛みを感じないので幸い。
○夕刻7時、ミミとお別れ。お骨が戻ってくるとか。
○時勢にもの申す
* ぼくの著書が国際の舞台に乗った事はかつて一度ある。1980年に刊行した『生活綴方研究』(白石書店)が、アメリカで刊行された日本の生活綴方研究の文脈の中で登場した。「生活綴方」はテクニカルタームとしてseikatsu-tsuzurikataと記述され、今日では、これが教育用語として使用されている(今日、フランスでも同様な傾向である)。
 我が日本の教育関係者は、「日本独自の教育実践形態・生活綴方」と自己主張してきたが、国際舞台に乗るようになると、そうも言ってられないだろう。seikatu-tsuzurikataのタームで、アメリカ初等教育実践を紹介したり、フランス・フレネ教育を論じたりする人たちが登場しているのだから。
 「生活綴方=アカ」というくだらないレッテルを自己内外に貼って、今や我が国で、堂々と「生活綴方教育」を看板にして実践し検討する個人も団体も、私的機関も公的機関も、ほとんど見ることが出来なくなっているご時世だから、そのうちに、日本発アメリカ育ちそして里帰りseikatsu-tsuzurikataという構図が生まれないとも限らないだろうな。
 一体誰ですかね、生活綴方を「戦前から一貫して反戦平和民主主義の教育実践であり運動である」などと説明してきた人は(ぼくも若い頃はこの言説に多少乗っかっていたことを告白するのだが)。これが上記したくだらないレッテル貼りとなり、某大学などでは、学生が卒論に生活綴方を扱いたいと指導教授に申し出たら、指導教授は、その学生の指導は一切しない、と断罪行為に出た、というでたらめ現象を出来させているのだから、
 こうしたでたらめなレッテル貼りがなされる源は、かの治安維持法であった。生活綴方教育を治安維持法違反の嫌疑で断罪すべく、200数十人の実践家を権力がしょっ引いたのである。しょっ引いた理屈は事実に則っていない、「恐れがある」と権力が判断したから法違反だ、というわけだ。しょっ引かれた教師のほとんどが、天皇制絶対主義を疑うことのなかった忠実な僕(しもべ)、優秀な教師だった。ある教師などは、発行する学級文集に、「兵隊さんへ、シナ人の首をたくさんはねて来てください」という「慰問文」を載せて、それに対して、アカペンで、子どもの好戦性をあおっているほどだ。それでも、治安維持法違反の嫌疑をかけられている。
 今の日本の政治状況、思想・精神状況を見て、どうしても書かざるを得ないと思って綴りました。
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