ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガンとブルヌヴィル

2018年09月01日 | 研究余話
 ブルヌヴィルという医学博士がいた。20世紀初頭のフランス小児医学・医療の改革者でフランス下院議員をも務めた実力派だ。「追放されたセガンをフランス医学界に復権させた人」と言われる。「特殊教育」(医療的教育学)理論の生みの親でもある。
 ブルヌヴィルは、セガンがフランス社会に残した足跡を、簡略に、紹介している。その紹介文の中に「セーヴル通りの不治者救済院」でセガンが実践した、とある。研究史ではこの説に忠実に従ってきたが、明らかな間違いである。フランス小児医学(史)の専門家である彼ともあろう人が、どうしてそんな誤りをしたのか。
 先に紹介したように、セガンが実践した場はフォーブル・サン=マルタン男子不治者救済院である。セーヴル通りの不治者救済院は女子機関であるから(法的名称は、セーヴル通り不治者救済院(女子))、セガンを知り尽くしているブルヌヴィルが何らかの理解違いをしてしまったとしか考えられない。
 フランス医療史は、フランス革命期以降、続いて1848年革命期以降・・・と画期することができるが、セガンの実践はフランス革命期以降、ブルヌヴィルの活躍期は1848年革命期以降を収束させる時期にあたる。この2期の違いは医療機関そのものに大きな変化をもたらしている。セガンに即して言えば、「男子不治者救済院」は廃院され、陸軍病院に性格を変えた。
 つまり、ブルヌヴィルの時代のパリの「不治者救済院」的な性格を持った病院は、セーヴル通りの不治者救済院後継のみだったのだ。彼はそこが女子専用機関であったとは理解しなかったようだ。
 こうしたブルヌヴィル的誤認がベースとなり、後世の日米研究者が、セーヴル通り不治者救済院=女子専用機関=サルぺtリエールという等式を立て、セガンはサルペトリエールで実践した、という論理が確立され続けている、という次第。なお、フランスでは、今もなお、セーヴル通り不治者救済院でセガンが実践した、とされている。

 いずれにしても、史実論証のための研究手続き(フィールドワーク、関係史資料発掘等)が手抜きされ、「立派な人の書き物だから間違いはあり得ない」という研究神話に盲従する、呆けた研究者群像が透けて見えるセガン研究の一場面である。