ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

今年も終わり

2015年12月31日 | 日記
○7時半起床。昨夜から12時間、寝っぱなしだった。なんだろう、これ。まあ、今はすっきり、脚の都合はよくないけれど。
○このところ続いている孤食時に、自分の食卓の周りの片づけ。できることをやりましょう。
○今年は年越し蕎麦を孤食。家族それぞれの暮れの迎え方がある今年の我が家。正月3日には全員が揃うことでしょう。


○訳書解説に以下を追加することにした。
「6.最後に、セガンが立脚する思想と白痴教育とのかかわりについて、述べておきたい。
 セガンがサン=シモン主義者であったことはよく知られている。サン=シモン主義者というよりは、サン=シモン教徒であった、というべきであろう。『新キリスト教』を遺著としたサン=シモン(1760-1825年)を祖とする宗教的結社サン=シモン教の宗教家族の一員に加わったのは1831年5月9日のことである。パリ法学部学生第2学期在籍中のことであった。その前年にはいわゆる「7月革命」が起こり、セガンも果敢にかかわった痕跡が見られるから、サン=シモン教への帰依はそれと関係しているのだろうか。
 セガン自身が自らがサン=シモン主義者の立場から白痴教育にかかわったと明言したのは、じつにアメリカ合衆国への移住後であった。1856年に発表した論文「白痴たちの治療と訓練の起源」にも少しく触れられているが、白痴教育とのかかわりで言えば、なんと言っても、1866年刊行の大著『白痴、ならびに生理学的方法によるその治療』である。当該箇所をあえて原文で紹介しよう。
 The Christian school (St. Simonism), striving for a social application of the principles of the gospel; for the most rapid elevation of the lowest and poorest by all means and institutions; mostly by free education.
 これは、わが国のセガン研究者にとって、セガンが白痴教育と社会解放(階級開放)とを結び付けていた意識の表れであり、その実践もなされていたとの理解をもたらすものであった。つまり、「無償教育」(free education)を主要な手段として、最も低く貧しい階級の速やかな向上のために、サン=シモン主義者たちは闘った、セガンもその一人であった、との理解である。
 セガンは、1866年著書において、「サン=シモン学派云々」は、1830~40年のフランスの教育状況を説明する中で触れられており、第1の、王侯・貴族等特権階級のための教育、第2の、当時進展しつつあった資本主義的な能力に応じた分配のための教育、に続いて記述されている。第1第2の立場では、当然、白痴教育は埒外に置かれていたわけである。時代状況で言えばサン=シモン主義思想などの未成熟ながら社会主義思想とそれに基づく社会・労働運動なども起こってはいるが、フランス歴史学では「冬の時代」と称されるように、それらの運動は徹底した弾圧政策の下に置かれていた。表立った主義主張のプロパガンダは「秘密結社」のような組織でなされていた。だから、原文にあるby all means and institutions; mostly by free educationを「あらゆる手段と制度によって、とりわけ無償教育によって」だと我が国のセガン研究では定説化されているように理解してしまうと、セガンの白痴教育論は実際的なものではなく理念的なものであったにすぎない、と評価せざるを得なくなる。
 セガンの白痴教育の事実に即して原文を読み直したい。セガンは、私教育としての、公認の教育施設での公教育としての、そして救済院など棄民施設における、制度上は医療実験の一環である医療教育としての白痴教育を行ったことは、「1843年論文」(本書)内容から十分にくみ取ることができる。これらの白痴教育の機会と場について論及しているのだと理解すべきだろう。ならば、これらの機会と場を貫いていたのがfree educatuionだというが、それは果たして「無償教育」だったのだろうか。セガンの母語ではl’éducation gratuiteである。セガンの著書・論文を紐解いてもそれに相当する語句は登場してこない。私教育や公教育での白痴教育を無料で行ったとも考えられ、事実そのような解釈もなされてはいるが、私はそれには無理があると捉えている。私教育はいわゆる家庭教師だし、公教育は妨害があった故に損害賠償の訴訟を起こしてもいるのだから。また救済院での教育が有償か無償かを問うまでもなく、棄民された子どもたちを強制収容する機関が救済院であるので、子ども側からなにがしかの金銭を取る、ということはあり得ない。ましてやセガンは被雇用者なのである。
 だとすれば、mostly by free educationとはどのような意味なのか。本書を丹念に読めば分かるが、それまでの教育方法にこだわらず、教育の対象者に応じた教育方法を案出し創造していたことだ。つまり、既成の教育方法からは自由なものであった、という意味となる。
以上のことなどを考えると、『1866年著書』の引用原文は、「キリスト教学派(サン=シモン主義)は福音書の諸原理を現実に適用する努力を重ねた。あらゆる機会・場を通じて、最も劣りかつ最も哀れな人々を速やかに向上させようとするものであり、ほとんどすべてが創意工夫による教育によるものであった。」と理解されるのがふさわしいだろう。」
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セガン研究話 8

2015年12月31日 | 日記
承前

 松矢氏の訳文で下線を引いた「ために闘っていた」に相当する原語はstriving forである。通常の訳では「に向けて〔懸命に〕努力している」となるはずであるが、セガンは、サン=シモン主義者の立場から現実の社会変革の意思を持っていた、という前提から「ために闘っていた」とみなしても不思議ではない。セガンをマルキストへ脱皮する過程にあった人―サン=シモン主義の祖サン=シモンの思想を乗り越えようとしていた人―だと理解することも可能であり、その点からすれば、未成熟ではあるが社会矛盾からの「貧者」「弱者」の解放による社会進歩のための戦いに参与したとすることもできよう。ぼくもセガンを学び始めた当初からしばらくはこの路線一本で、セガンやサン=シモンの文献を読み、解釈した。その際には、1960年代以降の科学的社会主義教育論などを紐解き、セガンが「のために闘う」とした「向上」という概念を、さらに科学的社会主義教育論にふさわしい概念に言い換えるとどうなるのだ、と埒のあかない観念作業にいそしんでいた。その際、セガンがfree educationとする概念は「無償教育」以外の日本語を考えることもしなかった。教育の無償化は社会進歩の大きな証であるからだ。
 セガンが言うような「あらゆる手段と制度によって・・・もっとも速やかに向上させるために」、サン=シモン学派はどのような具体的な「闘い」を展開したのだろう。ぼくはそれを求めて、それこそ「あらゆる手段と制度によって」、いや、渡仏しパリのあらゆる書店〔新刊書店、古書店〕を歩き回り、国立古文書館、国立図書館、さらにはインターネットで情報を検索し、セガンの、さらには「サン=シモン学派」の、1830年代から40年代の具体的な「闘い」の痕跡を探した。もちろん歴史研究書も例外ではない。しかし、明確にこれだと挙げることのできる、つまり断定することのできる史実とは行き当たることができない。ついには、フランス労働運動人名事典のCD-ROM版を入手し、そこに記述されている人物項目で Séguin、E. Séguin、Edouard Seguinの項の記述から、間違いなく我らがセガンであると確定できる内容とその出典資料等を手掛かりとして、史料の再調査、そしてそれらにヒントを得て発展的な調査を得て、綴ったのが拙著『知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』第2章であった。
最終的な決め手になったのは、1848年の革命に符節を合わせて結成された「労働者の権利クラブ」のポスターの発掘によってであった。これまでのすべての史書にも当然セガン研究にも登場したことのない史料であった。2010年と2014年の両拙著でも全文公開したが、2012年10月末に、セガンの生誕の地で開催されたセガン生誕200年祭においてもこれを開示した。もっとも信頼に値するセガン生育史論を博士論文にまとめたジャン・マルタン氏(医学博士、小児科医)をして、「この史料発掘によってセガンが共和主義者であったことを明言することができる。じつに大きな発見だ。」と言わしめている。
 ポスターには7人の署名者の名と、そのうちのセガンとアルフレッド・ロドリーグを除き、錠前屋、植字工という職業名が記されている。これまでの類似の文書には登場することのなかった下級労働者である。そして、ポスターには、次の一文がある。
 Que le but consistant de toutes nos agitations soit l’amélioration du sort de tous ceux qui souffirnent physiquement ou moralement.
「我らが首尾一貫して強く主張していることは、身体的精神的に苦しむすべての人々の境遇の向上を目的とする、ということである。」
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神田にて上海蟹

2015年12月30日 | 日記
○7時起床。夜中に2度目覚める。2度とも「猫」が原因。昨日からアフォがぼくの部屋に長時間留まるようになったので、部屋のドアを開け放しにしていつでも出入りできるようにした。1度目はタビチョがいつもの部屋荒らし。それで結局ドアを閉めて寝たのだが、明け方5時ごろ、アフォの久しぶりの遠鳴アフォ~~。ドアを開ける様にとの催促のようだった。
○今年最後のゴミ出し。今日はビニールゴミ。
○トドちゃんと、神田竹苑へ。少し到着が早かったのでお店の周囲をぐるりと回った。とにかく飲食店が多い。ほとんどの店が閉まっている。暮れも迫っているものなあ。ちょっと横丁に入ったところに、ビルとビルの隙間に、お稲荷さんが鎮座されていた。厳粛にお参りをし、さておさい銭をと思いきや、賽銭箱が無い、トドちゃん。そうだよなあ、キツネに現ナマはいらんわなあ。代わりに「イナリ」が献じられていました。しゃれた町会だなあ。


予約時間の11時半。お店に入りました。いつもと違ってお店の愛想も蟹の肉剥ぎサービスもなく、スピーディに次々と運ばれてきます。「予約が入ったので店を開けた」とのことで、本来予定されていたのは、歳末大掃除なのでした。
まず、老酒で乾杯!

次は、カニの老酒漬け。これが美味なんです、このお店。

続いて提供されるものの名前は知りません。メニューにちゃんと書いてあるし、もう何年も通っているのですから、知らなければウソなんですが…。写真で判断してください。




以上が上海蟹コースのご紹介でした。年明けたら、また来たいものです。
そのまま帰路につきましたが、中山の珈琲館でおいしいものを見つけたので早速ぱくつきました。


 今日は脚の調子が極めて不調。行きは何とかノー杖を通しましたが、帰路は杖にすがって歩きました。
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終日在宅

2015年12月29日 | 日記
○7時起床。昨夜はたびたび目覚め、熟睡できず。
○午前中、「セガン研究話」執筆。セガン1866年著書の訳文をめぐって。
○マシュマロがいなくなって、いつも寄り添っていたアフォがひとりぼっちでぼくの部屋をうろつく時、猛烈な寂しさを覚える。そのアフォは、日中、陽の当たるところで過ごしたりあちこちをうろついたりしていたが、今日、ずっと一点で落ち着いている姿を見た。それはぼくの安物がウンを見つけ、その中にくるまって寝ることだ。なんか黒いのがあるぞ、と覗いてみたらアフォの寝姿だった。やっとマシュマロと代わるものを手に入れたね、アフォ。


○通所施設での、クライアントによる「珈琲サービス」について。
 ぼくが始めるきっかけとなったのはSさんという方がミルでコーヒーを挽いておられ、数度、コーヒーをいただいたことにある、と言える。Sさんが通所されなくなり、所長さんとの話の成り行きで、ぼくがコーヒーを淹れることになった。その時のぼくの心づもりでは、まさか自分で豆を用意するなどということなく、所の方で豆は用意される(されていた)のだろうと考えていた。豆が無くなって新しい豆が提供されたが、これが実においしくない。ぼくは自分で代わりの豆を用意し始めた。どういう経緯でその豆が用意されたのかはわからないが、すぐに「廃棄した」と知らされた。
 ある日、代替日としてリハビリに来られた方がぼくの提供する珈琲を口に含むや「うまい!」と言われ、自分でもコーヒー淹れを試みる、という話になり、コーヒーに関するガイドブックなどを用意され、施設内に取り置かれた。その方は豆を挽くのは無しにして、粉からコーヒー淹れをなさっているそうだ。
 その方が施設でコーヒーを淹れる目的がどのようなものなのかは、知らない。無限に広がる味と香りの世界に挑戦しておられるのだろうか。同じ粉を使っても、本当に風味が異なるのだから。
 ある時、豆の量がたりなさそうに思えたので、「今日はちょっとお入れする珈琲が少ないかもしれませんね。」とあるスタッフにささやいたところ、スタッフが「お湯で薄めれば大丈夫でしょう!」と明るく応じてきた。ぼくは、「インスタントコーヒーじゃ、ねえんだよっ!」と乱暴な言葉遣いと乱暴な声で反応してしまった。後味が悪かったが、「それくらいなら最初からインスタントでいいですね。でも、ぼくはミルを挽くことで左手指のリハビリ、機能回復訓練になっているのですから、出来合いの粉珈琲とかインスタントコーヒーでは意味がないのです。」と説明を加えた。
 そうなのだ。ぼくがコーヒーを淹れるのは、ぼくの手指の機能回復訓練のためであって、でき上った珈琲は、皆さんに飲んでいただくのだ。決してぼくからのサービスなのではない。そういう機会を所長さんから与えていただいたことに、感謝しなければならない。
 せっかくの機会だから、世界各地のコーヒーを味わっていただきたいと、東南アジア、中南米、南アメリカ、アフリカの国々のコーヒーを挽いている。珈琲をこれまでまったく口にしたことのなかった人が、毎回のぼくが淹れるコーヒーをストレートで口に含みながら、「楽しみしている」という声を聞くと、やはり、うれしい気持ちになる。来年もまた続けましょう。
 
 左半身不全と診断された左腕ならびに手指の機能がかなり回復してきたという自覚がある。とくに左手小指を使いこなす―ものを握る、タイピングするなどのーことができるようになったのも、ミルをしっかりと握るという作業効果だ。コーヒー淹れが機能訓練となっているのだ。さらなる回復を目指して、来年もまた、コーヒー淹れの活動から、その日のリハビリを開始しよう。 
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セガン研究話 7

2015年12月29日 | 日記
第2部 承前2
 この文脈は、セガンが言うところの1830年~1840年ごろのフランス社会における教育の実相を3層に分けて分析した第3の層にかかわって記述されたものであった。
 第1の層は「教育は特権階級に所属する営み」であり、第2の層は「教育は能力に応じてなされる営み」である。そして前記の第3の層となる。換言すれば、第1の層は前世期の支配層、すなわち王侯・貴族がその身分を保持し保管し執行するために必要な能力であり、第2の層は今世紀すなわち19世紀になって急速に台頭してきた資本主義的経済・社会体制を保持し推進し、さらに発展させるに必要な能力である。とくに支配的能力と被支配的能力とを、それぞれの教育によって差別化する。
 このセガンの言うところは、第1の層は寄宿学校(コレージュcollègeなど。これを旧制コレージュとする)に象徴される教育であり、身分的証しとしての古典的教養を、厳しい宗教的戒律と訓練(体罰)と暗唱によって修得させようとするものであった。この第1の層がセガン自身が受けた教育経験であったことは、拙著『知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』第1章において触れておいたことである。
 第2の層は、資本主義的な経済・社会体制と自由思想とが台頭し始めたもっとも19世紀的な層である。とりわけ資本家層は、社会的地位を象徴する属性の一つとして「教育」に求め、例えば旧制コレージュではない新しい寄宿学校などを求めた。実用的な専門教育すなわち資本主義の拡大発展のための人材養成である。これらを新たな社会のリーダー層とし、広く一般には職人ではない賃金労働者たることを求める普通教育の場すなわち初等学校(小学校)の開設を求め、権力的支配に対する忠実な人材の養成を期待した。資本家は基本的に観念に依拠しない者であるが、支配に対する忠誠心と態度とを形成するために、多いに宗教組織を利用した。このことについてのセガンの具体的論及は、『1866年著書』より遅く、『教育に関する報告』(『1875年著書』)まで待たなければならない。宗教者が大衆子弟に実用的な「作業教育」を採り入れることによって、収奪され酷使されることに忠良な労働者を作るに過ぎないと述べている。それがまた時の政策に採り入れられた、と。前掲の拙著においても少し紹介している。
 そして第3の層。セガンは、これを担ったのがキリスト教学派すなわちサン=シモン主義の立場にある人々であったとする。ぼくも含めて、サン=シモン主義ということばに直ちに反応するのは「初期社会主義」「空想的社会主義」の一会派だ、ということからだ。果たしてこのことの具体をセガンがどれほど書いているのかと、くまなく頁を繰っても、書いていない。松矢氏は論理として「全面発達の教育」「受教育権」をセガンの論述から解釈しているが、第1の層、第2の層に対する具体に比して、いかにも抽象性が高いと思わざるを得ない。そこで当事史料をあてにすることになる。セガンの言うこの時代すなわち19世紀前半の「7月王政時代」。象徴的に言えば「冬の時代」。フランス社会が新旧のあらゆる思想が出そろいはしたがほとんどの思想が7月王政勢力によって抑圧・弾圧を受け、地下深くで、新しく芽生え、再生し、そして蠢いていた。これらの中の、つまり秘密結社の「家族協会」が、「社会革命」の必要をアッピールし、「貧者と弱者」が「軽蔑され、迫害され、法から外されている」ことなどを告発し、「市民の権利」として「生存の権利、無償教育(l’éducation gratuite)の権利、政治参加の権利」を主張している。セガンはいまだ白痴教育の路に踏み出しておらず、法学部の学生であったことのみが公的記録に残されていた1835年のことである。この史実から言えば、間違いなく、彼は-『家族協会』に対する裁判資料に登場する『セガン』が彼以外でないとするならばー、松矢勝宏氏が訳出していることばに従えば、「・・・あらゆる手段と制度によって、とりわけ無償教育によって、最も低く、かつもっとも貧しい階級を、もっとも速やかに向上させるために闘っていた。」(松矢勝宏「エデュアール・セガンの教育思想に関する一考察」(『特殊教育学研究』11-2、1973年))ということになる。
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今年最後の通所リハビリ

2015年12月28日 | 日記
○6時半起床。2度の目覚め。1度目はジャマイカからのメール。無事到着との知らせ。
○ゴミ出し。杖は必要ないけれど、左脚のこわばった状態はいかんともしがたい。
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ.本年最後。コーヒー淹れ。ブルマンをご用意した。美味しいとの声。嬉しいですね。自転車漕ぎ20分、マッサージ、あったか姫、ストレッチ。その他細々は自主的に。
 年明けの1月6日に振替を入れていただいた。8時40分に迎えに来ていただく。
 所長さんから、「人間関係づくり、よく頑張りましたね。」とお褒めいただいた。それもこれも、コーヒー淹れリハビリを組み込んで下さった所長さんのおかげです。ありがとうございました。
 男性側の女性に向けての声掛けに関わって、女性が不快に思うことはあってはならないと、所長さんから発議。その通りです。親しみを込めたつもりが相手を不快にさせることにお互いに気を配りたいものです。女性クライアントからもぼくに、その旨の囁きがあり、注意を促すようにとの要請を受けました。
 所長さんからHPが出来たよ、とお知らせがあった。さっそく固有名詞検索をかけたけれど、まだ、HPに行き着かない。
○今日のお昼も無塩うどん。完全に関西風にした。昆布と鰹(花カツオ)、それに椎茸でダシを取った。トッピングは昨日に加えて緑野菜。載っている椎茸はダシを取った後のもの。ぼくはやっぱり関西風が好きなんだなあ。今日はとても美味しくできました。
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「買い出し」

2015年12月27日 | 日記
○7時50分起床。昨夜はなかなか寝付けず、布団から抜け出しあれこれと読み散らかす時間を持った。6時に目覚めたが二度寝。
○自分用の保存食料品(冷凍物はぼくは扱えないので)を買い出しに行く。これが運動リハビリになる。無杖を通した。
 今日は足腰の痛みがほとんどなかった。しかし、どうしてもビッコを大きくひいてしまう。少し意識して、歩幅を広くして歩く努力をした。
 上り坂にさしかかると、極端に、足腰に重力が掛かる。
○今日のお昼は久しぶりにうどん。初めて購入した「塩分ゼロうどん」がどのような味わいなのか。こうしたうどんの場合は当然ダシで勝負。先日、最高級の利尻昆布を手に入れておいたので、さっそく活用。ダシを取った後当然昆布は胃袋に収まります。国分寺時代の調理経験から。昆布の他に椎茸一個、石附の部分は切り落とす。だし汁を取った(できた)頃合いに、ニラ、キャベツを切り刻んで放り込む。醤油は色づけ、塩ほんの少々で味を調える気持ちで、うどん汁のできあがり。ちょっと味見をしたが超薄味で、これではいくら何でもと、シラス干しをひとつまみ混ぜました。乾麺を茹で、冷水で軽くもみ洗いし、水切りの後、うどん汁と一緒にして火にかける。いわゆるかけうどん。トッピングにワカメと蒲鉾を添え、ゆず胡椒を少しかけて、いただきま~す。
 見た目と違って、美味しおしたえ。


○夕食は、小松菜、ニラ、キャベツを利用し、イタメシ!(炒めご飯、ね)。材料に不安はあったが、なに、おれだけが食うのだと開き直り調理した。いけるんでねーの。動物性食品が無いのが悲しいね。卵を落としてもよかったかな。たぶん、明日も、孤食だろうから、挑戦してみよう。
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セガン研究話 6

2015年12月27日 | 日記
第2部
 セガンの実像を描いていると信頼に値する研究があるのか?少なくとも少年期を終え青年期をどう生きたのかをきちんと説明している人はいるのか?
 セガンが1831年にサン=シモン主義者になったというドキュメント史料を提示して語っているのはアメリカのセガン研究者タブロット。セガン自身もサン=シモン主義者であったと記述している。本稿第2部はこの問題にかかわることを手始めとして、研究を振り返ってみよう。

 セガンは渡米後の1866年にEdward Séguin名で“Idiocy And Its Treatment By The Physiological Method”を著している。邦訳題にすれば『白痴および生理学的方法による白痴の治療』となるだろう。本書は英文学者の薬師川虹一によって、『障害児の治療と教育-精神薄弱とその生理学的治療』の書名で出版されている。1973年のことであるから、わが国におけるセガン研究の開拓期に属する。本書は、いうまでもなく、セガン研究の大きな手引書とされた。ぼくなりの批判意識をこめて言えば、その重大な誤訳を含めての手引書であった。
 この本訳書にある次の一節は、わが国の、いわゆる進歩派のセガン研究者の心を、いわば鷲づかみにした。
「いま一つのキリスト教学派(聖シモン派)は福音の原則を社会的に適用しようと努力する一派であり、あらゆる手段と制度とを使っても、最下級、最貧階級の人々の最も速かな向上を求めていた。そしてその手段は、主として教育によるものである。」
 しかし、これでは文末のfree educationが正しく訳出されていないので、その語句を、英米文化圏お定まりのターム「無償教育」と補うことで、セガンの知的障害教育の思想の全体像をつかんだ。ぼくはぼくて、訳出に挑戦し、次のような訳文を得た。未だ、セガンの「白痴教育」の実相がつかみえなかった頃、すなわち2005年から2007年頃のことである。
 「キリスト教学派(サン=シモン主義)は福音書の諸原理の社会的な適用を目指して努力した。あらゆる手段と制度とによって最も低くもっとも貧しい者のもっとも速やかな向上を目指した。主として無償教育によって。」
 いずれにしても、日本のセガン研究者の共通認識となってきたこと、すなわち、セガンの「白痴教育」は、この時代の階級闘争と符節を併せている!すなわち、収奪された階級の解放闘争をセガンは意識し、実践していたのだ、と。
 セガンの原文は以下のとおりである。
 The Christian school (St. Simonism), striving for a social application of the principles of the gospel; for the most rapid elevation of the lowest and poorest by all means and institutions; mostly by free education.
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粋生倶楽部増尾通所リハビリ

2015年12月26日 | 日記
○7時起床。3時ごろ目覚めた。
○通所リハビリは、ぼくの気がすさんでいて、ご迷惑をおかけしてしまいました。強く反省。自転車20分はかなりきつく感じられた。とくに、右脚〔左ではなく〕負担感が強かった。体力が弱ってきているのかな?それはきっと気のせいでしょう。
○粋生倶楽部増尾のスタッフさんから、「こちらWさん、俳句の先生」とご紹介いただいた。俳句と来て、ピピピと心は動くが頭から俳句が出てこない。緊張したんだなあ。やっと帰りしな、芭蕉の「香に匂へうにほる丘の梅の花」と「道端の木槿は馬に食われけり」を思い出してお伝えした。いずれも我が郷里に関わる俳句です、とご紹介したが、ご存じだったかな。
○H君から書簡。拙著パリ・コミューン記述についての若干の感想あり。
「『19世紀フランスにおける教育のための戦い』は私にとって、大変楽しく感動的なものでした。とくに、「第2部 パリ・コミューンと近代教育の構想」では、パリ・コミューン議会・教育委員会が世俗教育をあのように進めようとしたことを知って驚きもし、感動しました。それを実際の資料に基づいて、その戦いの実相を明らかにしようとする先生の研究方法と姿勢にも感銘を受けました。」云々。
 ありがとうございます。パリ・コミューンに関する史料を用いての描写は、志摩陽伍先生やフランス教育学会における拙著図書紹介執筆の坂倉裕治氏も指摘しているところ。とくに板倉氏は「これまで日本語で書かれた類書では取り上げられることがほとんどなかった数多くの貴重な資料が全訳ないし抄録の形でそこかしこに散りばめられている。…本書を繙きながら、自ら発掘した資料に基づいて描かれた躍動する歴史が、どれほどスリリングな体験を味合せてくれるものか、読者は思う存分に堪能できることだろう。」と、具体的に述べてくれている。
 H君は埼玉大学時代のぼくのゼミの長であった。しかし、この時代ほど、ぼくと学生との間の溝が深い時はなかったと思う。時は流れゆくものなのだなあ。
○今夜は「逢引き」 これも存在は知っていたけれど見る機会も、見る気もなかった。人の心の機微をわかろうとしていなかったからだろう。この映画も長距離列車の駅が大きな舞台となる。出会いと別れと。汽笛と煙が人の心を躍らせ、そして悲しむ様を表現する。
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セガン研究話 5

2015年12月26日 | 日記
第一部 承前4
 セガンに内在する子どもの生育観を知る手立てを、たびたび触れているように、セガン研究者たち、とりわけ日米の関係者は、セガンの最晩年の著書『教育に関する報告』(『1875年著書』)に求めている。ちょうど国際的にルソー『エミール』の高い評価(第一次新教育運動)のうねりがあったことと合致している。
 その著書の出版より約30年前にセガンは『白痴〔等)の精神療法、衛生、教育』(『1846年著書』)を公刊している。セガンの教育論を代表する著書として読み継がれてきたというのだが・・・。セガンの教育論体系が完成したともされる。だとすれば、つまり、大方のセガン研究者の言うことに従えば、当然、『1846年著書』にはルソー『エミール』流の教育論が明示されていなければならないはずだ。
 ところで、同書に「年齢」に関する章がある。子どもの発達段階を示す年齢が、3歳まで、7歳まで、14歳まで、とあり、健常児の場合は、それぞれ乳母の子守歌で、祖母(!)の小話〔昔話〕で、家庭教師の課業で、養育される、とある。この養育過程をセガンは常態として受け入れている。『エミール』がむしろ否定した世界であるにもかかわらず、だ。
 こう考えると、セガンが育ってきた過程は、『1875年著書』に綴られた世界はむしろ虚構世界であると、断定して間違いないだろう。そして、『1846年著書』の育ちの過程は、貴族や有資産階級に常態であった乳母―里親―個人教育(家庭教師)、その後、寄宿学校(コレージュ)という養育・教育の道を、セガンは歩んでいたのであり、親の役割は、社会的な立場(身分)にふさわしい装飾の数々を子どもに飾り付けることであった。とても近代家族論(近代民法)で理解することはできない世界である。

 セガンは生まれてすぐ乳母の乳で育てられた。この乳母が通い乳母であったのか、同居乳母であったのか、委託乳母であったのか、それを定める史料は何もない。ただ、クラムシーよりヨンヌ川をさかのぼった地域にモルヴァンというところがある。モルヴァンは「乳母の里」と呼ばれた。ここの若い婦人は良質の母乳を産出するというので、都会地の貴族や富豪から乳母を求める声が大きかった。近年、このことにかかわって「乳母」というテーマの映画が作成されている。もちろんこの乳母は同居乳母である。クラムシーのセガン家が初めての子どもに良質の母乳を授けたいと願ったであろうことは想像に難くない。
 また、モルヴァンは「乳母の里」であると同時に、パリを温める暖房の源薪材の原料となる樫木の産地でもあった。これに関しては、1841年に、セガンが小品「筏師たち」を発表している。
 3歳までクラムシーの生家で乳母によって授乳されて育った。フランス社会の習慣で言えば、セガンは、乳母と24時間、起居を共にしたはずである。実母は乳母がその役割をきちんと果たしているかどうかの管理監督の立場にあったと思われる。4歳から6歳まではオセールの祖母を里親として感性的な認識を中心として社会性の基礎を育てられた。生粋のフランス人である父親は里子は里親と24時間起居を共にすることを当然だと考えていたが、どうやら息子は独立した子ども部屋を与えられているらしい、当然、部屋を取り上げる。もしかしたら、7歳以降の家庭教師による養育の時かもしれないが。当時、家庭教師と子どもは、起居を24時間共にするのが当たり前の風習であったから…。
 セガンが1846年に書き記した子どもの養育過程の、当時のフランス社会の一般を当てはめると、上記のようになる。とてもとても「父母の愛に包まれて幸せな幼少期を過ごした」という生育史だったとは言えないのである。
 乳幼児期少年期がフランス貴族ブルジョアジーに伝統的な乳母・里親・家庭教師そして寄宿学校(コレージュ)という養育・教育スタイルであったとして、具体的にどのような内容と方法とで育てられたのだろうか。先に、『1846年著書』に垣間見られると、綴っておいたが、もう少し丁寧に見てみよう。同書に「記憶について」という章がある。記憶・体罰主義教育を厳しく批判している内容だが、そこに、次のようにつづられている。
「子どもは、片言喋りの時期(=乳児期)を脱するとすぐに、彼にとっては、寓話、教理問答書、神話、文法書など、非常に抽象的でほとんどわけが分からない作品と付き合わされることになる。それも、記憶させられるのだ。幼児期ばかりではない、子ども時代にも、考えることができるようになる前に覚えることを無理強いさせられ…。」
 コレージュに通う前の養育・教育内容と方法とがこのようにつづられているのである。ルソーが嫌った典型的な教育スタイルであることを、強調しておきたい。
 ところで、セガンは、先に引用した文に脚注をつけている。それには、「この点、現代の学校は親〔たち〕のやり方をそのまま継承している」とある。セガンが通ったのはオセールのジャック・アミヨという男子コレージュだったが、まさにセガン家の養育方式に適う学校であったわけである。ジャック・アミヨ校には、セガンは1825年に在籍していたことが判明している。セガン13歳であった。寄宿料を支払っているから、祖母の家から離れたと推測される。それは「父親から自室を取り上げられた」結果なのだろうか。

 セガンがオセールとパリの名門中等学校に就学していたことは、セガンへの弔辞の中ですでに触れられている。しかし、セガン自身は、オセールのコレージュ、ジャック・アミヨ校のことしか著作の中で触れていないから―『1875年著書』に「古い時代の修道院を思わせる建築物」という表現でのみ登場する―、この期について、セガンはあまり語るものを持たなかったのだろうと思う。先にも触れたように、フランス社会に伝統的な乳母・里親・家庭教師の子育て・教育のシステムと内容・方法について強烈な批判意識を持っていたし、「現代の学校nos écoles」もその基本の上に成り立っているということも触れている。要するに、記憶暗記主義、体罰主義、24時間の管理主義だったということだ。弔辞では「非常に申し分のない教育を受けた」と評されているのだが。 (第一部了)
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