ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

没稿となった「セガン これまでとこれから」(2)

2017年09月30日 | 研究余話
「セガン」のこれから
 ところで、セガンの最晩年の著作『教育に関する報告』(1875年)に、「コミュニズム」・「コミュニスト」を激しい口調で批判をする記述があります。しかしながら、この記述内容は、1840年代のフランス社会でカトリック陣営が教育界を牛耳っていることを批判しているのであり、私たちが知っているいわゆるコミュニズム・コミュニストに対して論及しているわけではありません。セガンは、なぜ、宗教者の諸運動を「コミュニズム」と言い、宗教者を「コミュニスト」と形容したのか。まったく分かりません。無知なのか、何らかの自己防衛が働いているのか。セガンが「白痴」教育にかかわる以前の20歳前後に関わった思想・政治運動が「コミュニズム」という概念を誕生させていることから考えれば、無知であるということは考えられませんから、おそらく移住先のアメリカ社会における思想・政治状況と深く関わっているのではないかという推測が可能ですが、残念ながら、私にはそこまで極める力量・能力はありません。
セガンは、しばしば、その表現に独自解釈や独自概念を付加しています。「コミュニズム」もその例の一つであるわけですから、セガンの表現にストレートに依拠したセガン評価は避けるべきであろう、というのが現時点における私の立場です。
セガンの表現の裏にある事実を検証し、表現の意図を明晰にし、セガンのトータル評価を行わなければならない、と思います。他に例を挙げれば、男子青少年の「白痴」のみを対象としたことに対して、女子不治者救済院での「白痴」教育に携わるように命じられていても彼はついにそこに赴くことはありませんでした。その理由を彼は、私には能力がなかった、と書いています。女子を教育する能力がなかった、というのはどのようなセガンの実像を示しているのか、彼の人間観、性観、実践観を解明する上で欠くことは出来ないと思います。
 また、これは表現されていないことの意味となるのですが、彼は自身の成育史をほとんど述べていませんし、家族関係についても語っていません。何故なのか?それが彼の「白痴」教育に関わることなのか、関わらないことなのかについてさえ不明です。しかし、解明すべき大きな課題だと思います。
 また、そのことにも関わるのですが、20歳のときに義務付けられた徴兵検査を受けておりますが、記録では「右手奇形にして身体虚弱」とあります。それが彼のキャラクター形成に意味があったのか無かったのか、なども検討されるべきでしょう。なぜ彼はそのことを自身で述べていないのか、などなど。さらに、先行研究によるとセガンは「弁護士」の資格を持っていたことになりますが、彼の学歴や弁護士資格条件を追跡調査した結果、「弁護士」資格を持っていないという結論しか導き出せません。なぜ彼は「弁護士」資格を持っているとしたのか・・・。
 以上、セガンの主体の問題、客体の問題をごちゃ混ぜにして言いましたが、セガンの「謎」は「謎」のままでいい、まるで暴き立てるようなことはする必要がない、というご意見があるかもしれません。しかし私は、歴史を切り開く偉大な事業を成し遂げるエネルギーと言うか、動因・誘因と言いますか、ポジティヴにしろネガティヴにしろ、それらをトータルに捉えてこそ、セガンに「学ぶ」ことができると考えています。
 こういう意識で探求・追跡してきたことのひとつに、「セガンはサン=シモン主義者だった」ということがあります。確かにセガンは、彼自身の口から、自身はサン=シモン学派に属し、サン=シモン学派こそが、生理学的教育に基づく「白痴」教育を開発し発展させてきた、と述べています。今日風に言いますと、全人格発達の教育実践としての「白痴」教育を理論的に支えたのがサン=シモン主義だ、となります。セガンがサン=シモン主義の組織的運動の一員であったことは事実です。19歳のときに関わっています。しかし、サン=シモン主義の組織はすぐに解体してしまいます。セガンの表現をそのまま読むとすれば、組織は解体してもずっとその思想を持ち続けた、ということになるわけです。
 サン=シモン主義の組織が解体して3年後に「家族協会」という組織が誕生します。これは政治的弾圧が加えられていた人権の確立を求めていた運動体が発展したものであり、弾圧を避けるために秘密組織でした。セガンは「家族協会」のパリでの集まりに加盟しております。1835年のことです。「家族協会」の綱領のようなものに、「第8 軽蔑され、迫害され、法からはずされているのは誰か?-貧者と弱者」、「第14 非常に整った国家の市民の諸権利は何であるべきか?-生存の権利、無償教育の権利、政治の参加・参与の権利…」とあります。
 「家族協会」は、社会主義・民主主義的な共和制運動の組織体でしたし、そのリーダーたちは1848年2月の革命、すなわち「第2共和制」樹立のための戦いに立ち上がり、激しい弾圧を受け、国外追放などに処せられます。そして、セガンもまた、「第2共和制」樹立のための戦いの一員として加わっている足跡を残しております。
 なぜセガンは、このことを表現しないのか、私には大変気にかかる事柄です。そして、おそらく、このことを表現することを妨げる社会的政治的状況が、アメリカ社会にあったのではないか、という推測をしております。
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没稿となった「セガン これまでとこれから」(1)

2017年09月29日 | 研究余話
 以下は、「清水寛氏の編著書出版と日本社会史学会文献資料賞受賞とを祝う会」(2005年7月3日 学習院大学文学部大会議室にて開催)での、主催者としての基調報告原稿(第6次稿)である。しかし、同稿は、清水寛氏の同意を得ることができず、没稿となった。これも、私にとっては、「過ぎ去りしことの記録のために」ファイルに綴じておきたいことがらである。
☆☆☆
はじめに
 『セガン 知的障害教育・福祉の源流ー研究と大学教育の実践』(全4巻、日本図書センター、2004年。以下、『セガン』と略記)にはフランス語タイトルが附されています。この仏文表題の中にビヤーン・エートルという単語が出てまいります。「福祉」と仏和辞典に訳語が載っております。昨年秋、パリの街をぶらぶらしているときに、ビヤーン・エートルという文字が目に入りました。へぇ、福祉関係のお店か、覗いてみるか、と店に入ったのですが、自然食品やら健康グッズやらが主体の店でした。さらに、ビヤーン・エートルという棚を覗いてみたところ、どう見てもお化粧品類で「シミ抜き」だの「脱毛」だのとありました。私の期待する「福祉」とはまるで縁のない世界です。後日フランス人知人にこのことを訊ねたら、おまえの期待する「福祉」は「アシスタンス・ピュブリーク」(AP=アー・ぺー)と言い、ビヤーン・エートルは今日では使わない、古語であり、現代フランス人でもほとんど元の意味を知らないだろう、とご教示いただきました。
 ことばは歴史・文化を端的に示すシンボル(記号)ですから、セガンを研究する、すなわち、教育史・福祉史を、セガンを通して明らかにする、という作業上、ことばにこだわらざるを得ません。もし『セガン』の改訂版が出されることがあるならば、サイタマをセイタマと誤って綴っているのを訂正するとともに、ビヤーン・エートルをアシスタンス・ピュブリークと置き換える必要があると考えています。
 「福祉」をビヤーン・エートルと呼び、「源流」にふさわしく整備するようになったきっかけはフランス革命にあります。1801年にはセーヌ県知事の管轄下に「パリ市民救済院総評議会」という機関が設置され、そこがコアとなって、福祉・医療システムを整備していきます。そして1848年に第2共和制がフランス社会に成立したことをきっかけとして、1849年に、「パリ市民救済院総評議会」は解散し、今日のパリにおける「社会福祉」「医療」の統括組織AP/HP(アー・ぺー/アッシュ・ペー)の元となる「パリ総福祉局」が組織されました。つまり、セガンが「白痴」教育実践に取り組むようになったのは、「パリ市民救済院総評議会」による福祉・医療の整備の最終段階にかかっていた頃のことになります。
 「福祉」を主務とするオスピス(救済院)には、オピトゥつまり病院ですが、そこで治療を見放された男女を収容する不治者救済院と、70歳以上の男女老人を収容する養老院とが設置されています。男子の不治者救済院はパリ東北部のフォブール・サン=マルタン通りに、女子のそれはパリ西南部のセヴル通りに置かれました。パリ東南部のラ・サルペトリエールは女子養老院、パリ南部郊外のビセートルは男子養老院とされました。1820年代にこの整備が完了しています。「白痴」の子どもたちは1830年代後半から40年代初頭に、女子はラ・サルペトリエールに、男子はビセートルにそれぞれ集められます。そしてそれぞれに「学校」が設置され、そこで、医師や宗教者による教育・訓練が開始されます。セガンは医者や宗教者ではなく「白痴の教師」として、フォブール・サン=マルタン通りの不治者救済院、続いてビセートル養老院で実践を進めました。セヴル通りの不治者救済院にも招聘されましたが、そこには足を運んでおりません。一時金400フラン(現代のお金にすると約40万円)という手当てのみで、日常的には無給でした。
 『セガン』第4巻の「年譜」(フランス時代)はこうした作業を通じて作成しましたが、非常に不十分な形となりました。原資料による確認作業が出来たのはごくわずかでしたから。じつは「年譜」の本格的作成作業は『セガン』刊行後だったと言ったほうがいいと思います。2度の現地調査、図書館・古文書館での史資料探索やパリ・コミューン研究で懇意となった複数の古書店の協力などを得た史資料収集によって、セガンのフランス時代がかなりはっきりとしてきました。それを「セガン略年譜」としてまとめましたのでご覧ください。清水先生から宿題としていただいた課題のすべてとは言えませんが、確定事項はかなりあります。そのほか、ビセートルなどの施設の実情などについても、当時の医学博士による調査記録によってかなり具体的に把握できる状態です。たとえばセガンが教育実践を行ったビセートルの「白痴」児のための「学校」は、じつに不潔で人が立ち入ることが出来ないようなところに設置されたことなどを知ることが出来ました。こうした「白痴」児等に対する環境整備の要求をセガンが管理者に突きつけたことなども、彼がビセートルから追われる原因のひとつではないかと、考えられるわけです。(続く)
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過ぎ去りしことの記録のために(5)

2017年09月28日 | 研究余話
M さん
 メールをありがとうございました。
 実は、すでに6月末日に帰国しており、セガン・グラビアは在外研修の成果の一端として帰国後まとめたものです。いただいたメールから感じたこといくつか。
1.セガンの芸術論の位置づけについて
 セガンが芸術評論を行っていた期間はきわめて短く、また3本の評論しか見つかっていません(おそらく他にはないものと思われます)。芸術分野をセガンが選んだのはサン=シモン主義思想と密接に関係していると判断することができます。つまり、1831年刊行の『サン=シモン教義書』を参考にして言えることは、サン=シモン主義思想の具体的体現の一側面が芸術(評論)だということです。この点、先行研究ではまったく触れられておりません。Mさんが推測されておられるように、セガンがその芸術論と、芸術論を公表して以降に手がけるようになった白痴教育とが何らかの関連があるのではないか、という研究視座が用意される必要があると、小生は思っております。が、いかんせん、能力不足がネックとなるところです。小生のセガン研究を批判的に発展させて下さる研究者が現れるのを待つしかありませんでしょう。
2.セガンの生育関係などについて
 セガンの生家については清水寛編著『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(日本図書センター)のグラビア、および清水論文においてすでに明らかにされているところです。どこが表玄関かなどと些細以下でしかない問いを持ち続けておりましたので、その問いに対する自答を今回の「セガン・グラビア」で示しました。
 とはいうものの、この「視角」設定は、じつは、これまでのセガン研究に対する「批判」を象徴したものなのです。もちろん、私の心の内だけのことですけれど。正直言って、少なくとも日本のセガン研究は完全に書きなおされなければなりません、生育史からセガンの白痴教育論の構造にいたるまで。
 ことのついでに、セガンの母親の家系等について、このグラビアがあらゆるセガン研究の先駆けとなっていることは、申し上げたいと思っています。そして、父親の家系で「セガンの生育」を論じるのではなく、母親の家系で論じなければならないとも痛感している次第です。
 生まれたのはクラムシーの医学博士の家であることは確かなのですが、育ったのはオーセールの母親の生家(つまり「祖母の家」)、そして、学歴の開始はオーセールの旧制度コレージュの伝統を持つ名門校。
 母親の血筋は革命、思想の進取(サン=シモン主義)のそれです。革命後のオーセールの市議会議員、市長などを務めている身内を持ちます。また、叔父は詩人として名を知られていたようです。
 父親の血筋はそれとは正反対と思われます。祖父は革命前の町(クーランジュ)の三役。革命なってからは完全に歴史の表から姿を消しているのです。
 幼少期を過ぎて学齢期に入ってから父親の望む社会エリートへの道を進みますが、後はご承知のようにサン=シモン主義者、急進共和主義者としての生き方を選びます。
 今回の研修では、ブルゴーニュ地方のセガンゆかりの地を回り、父母、祖父母の死亡証明書等当事資料、関係資料を入手することができたこと、そのことによって「史実」を確定することができたこと、が大きな成果だと自負しております。
3.「墓」について
 今回の研修では、セガン家代々の墓を探り当てることを当初目的として設定しておりました。当然クラムシーにあるだろう、との思いからでした。しかし、その目当てはまったく実りませんでした。なぜないのだろう。そういう謎解きをするおもしろさがありました。考えてみますと、我々が言う「セガン家」というのは父ジャック=オネジム・セガンをコアとしてみております。祖父の代以前はクラムシーではなかったのでした。父はクラムシーの「入植者」です。1808年頃といいます。そして、1870年父、1871年母の死を受け、アメリカ在住のエドゥアール・セガンが遺産相続をし、1873年に相続した遺産をすべて売却処分しているわけです。従って「セガン家」とクラムシーとは非常に薄い関係と言わざるを得ません。もともとクラムシーには「セガン家代々の墓」はないわけですね。
 この「発見」が一つ。それでは一体どこに「セガン家」の墓はあるのか、少なくとも父母の墓はどこにあるのか、という課題は相変わらず残ります。セガンはニューヨークで没していますから、ニューヨークにあるのでしょうか?
 二つ目は、セガンの「師」と自他称されるイタールの墓を、3年越しで、ようやくカメラに収めることができたことは、とてもうれしいことでした。モンパルナス墓地に葬られたという記録に接してから探しに探して、ようやく見つけることができたわけです。案内も何もありません。研究書で墓標を公表しているのを見たこともありませんから、小生が初めて公表したことになるのでしょうか。
4.セガン教具について
 モンテッソリーはイタリアの医師としてビセートル救済院で研究を行いました。その際、セガンの白痴教育論、実践論ならびに白痴論に接し、非常に大きな影響を受けております。モンテッソリー自身がセガンの1846年著書を一言一句に至るまで筆写したと書いています。当然、それらがモンテッソリーの教育論の大きなベースになっているのでしょう。「セガン教具」という固有名詞は、じつはモンテッソリーによる造語であり、モンテッソリー法の中にその用語がとり入れられております。つまり、昨今「モンテッソリー教具」と一般に言いならわされているモノは、モンテッソリーの原著によれば「セガン教具」となっております。それほど密接な関係があるということはおさえておく必要があるように思われます。
 小生の研究課題としては、「セガン教具」の「源流は何か」ということです。もちろんイタールがその大きな基盤となっていることでしょう。しかし、「身体虚弱にして右手奇形」と20歳の時に診断されたその身体性と、「セガン教具」の持つ工芸的創造性・造形性との間には、あまりにも大きな落差があるように思われます。論証不能の推測ですが、セガンはアイディアを豊かに持っていた、そのアイディアを工芸職人に命じて制作させた、のでしょう。そのアイディアの出所はサン=シモン主義の「百科全書」であったのだろう、と思います。その意味でも、サン=シモン主義の研究をもっともっと深めなければなりません。その「政治主義」の「進歩性」だけで満足していては、「セガン」は何も分かりません。それと同時に、「ルソー」とはいったん切り離していかなければならないだろうと思います。この点も、小生の能力に余るところで頭が痛いものです。
5.ニューヨーク調査について
 今回の研修によって、小生は、まだ何もセガンが分かっていないことに気づきました。今年度はとにかくフランス時代のセガンを追求しよう、アメリカ時代は明年度以降の課題にしようと思った次第です。
 Mさんとのお約束を忘れたわけではありませんが、自分自身の研究の進捗状況を考えますと、無理にニューヨークに渡ることはできないな、と思います。
 リュネ・デカルト大学のピエロ教授(教育学、デューイ研究者)と懇談した時、「セガン家」の墓、「イタール」の墓、「サン=シモン」の墓に話題がおよび、「では、オネジム=エドゥアールの墓はどこにあるのか?」と笑いながら問いが出されました。「分かりません。でも、ニューヨークだと思います。」と、答えました。この答えが正しいことを証明する作業は来年以降になる、と添えて。「非常に興味深く、意義ある研究で、医学、人類学、生理学、教育学、歴史学等を統合した学際的な課題・方法の設定は、これからの教育研究に求められることだと思います。」との評価をいただきました。セガン研究をしてきて、こういう視点から批評をいただいたのは初めてであり、かつ小生が言葉にできなかったことを言っていただいたことが、うれしくてたまりませんでした。

 長々と綴りました。ご容赦下さい。(2009年9月)
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過ぎ去りしことの記録のために(4)

2017年09月27日 | 研究余話
S先生

 私の方、セガンに取り掛かりつつあります。これまでの私の「セガン論」を読み直し、論理矛盾、論理飛躍、論理曖昧、事実誤認等々を点検しています。とてもたくさんありそうな気がして、少々怖気付いてもおります。
 ところで、最大ともいうべき問題とぶつかりました。それをありのままにお知らせします。
***
 セガンの1866年著書より。
 The Christian school (St. Simonism), striving for a social application of the principles of the gospel; for the most rapid elevation of the lowest and poorest by all means and institutions; mostly by free education.
 セガンがサン=シモン主義者であったこと、その立場から白痴教育を進めたことをセガン自身が説明している一文である。
 同文の薬師川訳
 「いま一つのキリスト教学派(聖シモン派)は福音の原則を社会的に適用しようと努力する一派であり、あらゆる手段と制度とを使っても、最下級、最貧階級の人々の最も速かな向上を求めていた。そしてその手段は、主として教育によるものである。」
☆これにはfree educationがきちんと訳出されていないことが最大の問題。
 同文の、従来のセガン理解に基づく川口訳
 「キリスト教学派(サン=シモン主義)は福音書の諸原理の社会的な適用を目指して努力した。あらゆる手段と制度とによって最も低くもっとも貧しい者のもっとも速やかな向上を目指した。主として無償教育によって。」
☆考察:
★ by free educationを定訳(無償教育)で済ませているが、それでいいのか?サン=シモン主義は(教育の)無償制を主張していたのかどうなのかをしっかり確かめなければならない。現在のところでは、無償制は秘密結社「家族協会」の主張だと、捉えている。
★ それよりも今気になっていることは、free educationとはセガンが「サン=シモン主義は(=私・セガンは)お定まりの教育からフリーであった」ことを記述しているのではないか、ということである。そうだとすれば、「思うままに進めた教育(によって)」となる。mostlyが加わることによって、「ほとんどすべてがサン=シモン主義(=セガン)の創意工夫による教育(によって)」という訳になる。イタールを師としながら厳しいまでにイタールを批判している事実を照らし合わせてみた。
 こう考えていくと、ついでに、lowやpoorの訳についても再考が必要であろう。セガンを科学的社会主義者への接近者であったと見ようとしてきたセガン研究からは「最も低く、もっとも貧しい人々」(階級解放ならびに社会的弱者解放)となるのだろうが、「最も劣った、最も哀れな人々」との訳のほうが、当事性となる。
★ 上記との関係で、by all means and institutions を「あらゆる手立てを尽くして」と考えてもみた。「手段」と「制度」ではどうしても実態的な意味でピンとこない。厳密に訳出するならばinstitutionはフランス語の原義にある「(慈善的な)施設(=養老院、精神病院、孤児院など)」と考える必要があり、そこからmeansはセガンが私的に設立した施設(=私塾等)を意味していると考えることも可能である。そうだとすれば「あらゆる機会や場を通じて」という訳のほうがいいのだろう。
☆ 改訳:
「キリスト教学派(サン=シモン主義)は福音書の諸原理(=博愛主義)を現実に適用する努力を重ねた。あらゆる機会・場を通じて、最も劣りかつ最も哀れな人々を速やかに向上させようとするものであり、ほとんどすべてが(この学派の=私の)創意工夫による教育によるものであった。」(2007年11月)
【追記】
 この考察を私のセガン研究の中にしっかりと定着させたのは、じつに、『1843年論文』
の翻訳書(『初稿 知的障害教育論/白痴の衛生と教育』幻戯書房、2016年)においてであった。それまでは逡巡しながらも、基本的には、我が国のセガン研究史の流れに沿った理解を公刊していた。
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過ぎ去りしことの記録のために(3)

2017年09月26日 | 研究余話
S先生 いかがお過ごしですか?近藤益雄研究を進めておられることと存じます。
 さて、いつもの身勝手なファックス通信で申し訳ありません。もう2年以上も前になりますでしょうか。セガンの「1856年論文」を訳出して先生にお届けした折、「スペインの修道士による精神療法のこと」に強い関心をお持ちだと、返信を下さいました。それ以来、心に引っかかっているものの具体的な史料を求めることができないできております。しかし、中井久夫氏などの著書を紐解いて感覚的にせよ理解に努めようとしてきました。今日は、セガン自身の手で綴られていることでしかありませんが、私なりの到達をお伝えいたしたく、ファックスさせていただきます。
***
 セガンが記述するスペインの修道士たちによる精神療法を説明する直接的資料は不詳である。ただ、セガンは、大著『1846年著書』において、「有益な労働」の節を設け(第3部白痴の教育 第45章第9節)、自身の白痴教育が到達すべき目的地は白痴の子どもたちに労働する能力をつけることだ、との趣旨を述べている。労働は健康や知性、道徳性を培うという。「常に私は労働を組織することに全力を注いだのである」。
 さて、「労働の優位性」を説明するいくつかの事例が同節で紹介されている。ビセートル救済院の医師モロウが「ゲールに関する書簡」(1845年)で報告した「ベルギー・ゲールの精神病者コロニー」、かのフィリップ・ピネルが『精神病者に関する医学哲学的治療』(1809年)で報告した「スペイン・サラゴスの精神病者施設」など。そのうち、ピネルの報告から、以下に紹介しておこう。松矢勝宏氏によるセガン『1846年著書』翻訳書176頁より―。
「・・・この国のサラゴセという村に<万人に>・・・という単純な碑銘を持つ施設があり、国籍や政体や信教のいかんに関わらず、病人、とりわけ精神病者に奉仕している。機械的な作業はこの施設の創設者たちの配慮の唯一の目的ではなかった。彼ら は精神錯乱を抑える一種の分銅を田園の文明が喚起する好みと魅力によって再認したいと思ったのである。・・・朝に私たちは多勢の精神病者が働くのを見るであろう。施設の労働事務所につめるものがいる。またある者は個々に割り当てられた仕事場に連れて行かれる。しかし大多数のものはいくつかの作業隊に分かれ、聡明な経験を積んだ監督者の指導の下で、施設の広い囲いのある所領のさまざまな部分に陽気に散らばって行き、季節に関係した作業を一種の競争で分配される。小麦、穀物、野菜を栽培し、順々に借り入れ、格子垣作り、ぶどうやオリーブの収穫に従事する。そして夕方にはこの人里離れた施設に再び静寂と平安な休息が訪れる。最も変化のない恒常的な経験は、この施設において患者に理性をもたらすのに最も確かな、最も効果的な手段であることを教えてくれる。そしてこの機械的な作業というすべての考えを軽蔑し、昂然と拒否する高貴な人は、無感覚な逸脱と精神錯乱を永続させるという悲しむべき利益を得ることになることも教えてくれる。」
 ところで、セガンと同時代の労働観はと言えば、労働は貴族やブルジョアジーの階級では忌諱すべきものとして認識されていた。読み書きができ、「教養」を修得するようになることは歓迎されるのだが、労働は「一族(家)の恥辱になる」とみなされていたわけである。こうした認識からは、当然、貴族やブルジョアジーたちは、白痴である自分の子どもに対する教育への願いは「子どもに(家督相続の手続きなどに必要な)読み書きを教えるように熱心に要望したが、彼らに何らかの適切な仕事をさせるように希望した者はいなかった」のが実情であった。それに対してセガンは初期実践から労働の持つ人格形成の優位性を重んじていた。
 そうした思想と実践の根底にある哲学が何に依拠しているのかは、別に検討しなければならないだろう。
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過ぎ去りしことの記録のために(2)

2017年09月25日 | 研究余話
S先生
  先ほどは電話にて乱暴な物言いがあったこと、お詫び申し上げます。ただ、歴史研究をなさっている先生が史料の扱いについて、あまりにも自我意識のみに従って語られたことに、驚愕し、悲しみを覚えた、ということは申し上げたく存じます。
 「貸金庫に預けるべきだ」と何度も私の所蔵する史料についてご教示下さる先生が、史料保管の場所に自らが出かけるというのではなく「郵送をお願いするつもりだ。」と言われました。信じられないお話でした。先生が私に「これは自分が収集した貴重資料だから郵送ではなく必ず持参して返却すること」と申されたことと、大きく矛盾します故。史料に対する尊厳さを感じることができず、歴史研究をなさっているお方だとは信じられませんでした。
これは私の主観だけのことなのかもしれませんけれど。日本社会は「公」の概念が少ないですから、その社会傾向に先生も乗っかっておられるのかな、とも感じられました。
 話のはじめは「いただいたコピーを幾つか所有しているが、現物を見たことがないので、それを見たいと思っている。」ということでした。ところが、当事史料(現物)が必要なのではなくコピーで十分だ、と言われました。そうすると、先の郵送の話に加え、コピーという問題が生じ、史料の保全に対する清水先生の厳粛な哲学を感じることができませんでした。
 何年のことでしたか、『童詩教育』のコピーは持っているはずなのでありましたらご覧いただくことができます、と先生にお伝えしております。今回の研究室の引っ越し準備でそれらが出て参りましたので、自ら発した言葉の責任を取って、先生にお貸しすることはできます。ただし、責任感・義務感からのみです。以前のように喜んでという気持ちになりません。それがなぜなのか、先生にお考えいただきたいと思います。
 フランスで公文書等に接した時、すぐに現物を手中にしじっくり読みたい、具体的にはアパートに数日持ち帰り読みたいと思いました。もちろん叶うはずはありません。「ノン、これしか(あるいはわずかしか)世の中にないのだから。」次に、それらをコピーを取りたいと願い、その旨を申し出ました。回答は否でした。コピーは史料を傷めますから、という理由が付きました。続いて、写真に撮りたいと願い、その旨を申し出ました。三脚使用厳禁、フラッシュ厳禁を命じられ、やっとの思いで公文書を複写することができました。2000年滞在の折から変わることのない情景です。
 普通、歴史研究者というのは、私の上記の経験を全く普通のこととしているのではないでしょうか。どうか、他者所有の史資料保全保管にお心配りをお願いいたします。(2009年4月)
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過ぎ去りしことの記録のために(1)

2017年09月24日 | 研究余話
 Sさん 先日、大空社編集部から、『セガン』執筆依頼を電話で受けました。その際、「私のセガン研究著書をお読みになってのご依頼でしょうね?」と尋ねましたところ、やや時を置いて、「読んでおりません」とのご返事でした。このような編集者からの同社福祉シリーズの1巻として『セガン』を位置づけるという姿勢に同意をすることなど出来はしませんので、すぐさま「では、この話は無かったことで」とお断りしました。以上、報告申し上げます。
 2006年のことですから随分と前になりますが、Sさんから、大空社の福祉シリーズで「セガン」を書くように監修者のT氏から言われている、ついてはフランス時代を川口が書かないか、(アメリカ時代はSさんがお書きになる)、意志があるのなら大空社にその旨を伝える、とのお話しをいただきました。その時にはありがたいことだと返事を申し上げました。それに対してSさんは大空社に川口を推薦したとのことでした。それからかなりの年月がたっております。今回改めて私の所に執筆依頼が参りましたのは、随分前のお話しが現在進展しているということなのでしょうか?
 それはともかく、「セガン研究」に取り組んできて、おかげさまで著書まで出させていただいた結果として申し上げることができるのは、大空社のお話しはお受けいたしかねます、ということです。私は「セガン研究」を「福祉」をテーマとしてきたわけではありませんし、それがテーマであれば、現在進行形で研究を進めておられ、学会で講演をなさり、論文を発表しておられ、大学院ゼミで院生とセガン研究をなさっておられると、私に自慢げに(あるいは、我こそがセガン研究の本家なりと言わんばかりに)、書簡を下さったT氏が最適任だと、僭越ながら、考える次第です。T氏はそれほどの自負をお持ちだからこそ、書簡を私に下さいましたのでしょうから。
 ありとあらゆる束縛を受けながらも、なんとか、その束縛をかいくぐって拙著を綴りましたが、その結果、まさに言われなき束縛であったと、痛感することになりました。それ故、現在は、「これで自分のしたいことを好きなようにすることができる !」という思いに満ちあふれております。いや、もうすぐ、そういう気持ちを味わうことができる日が来るのを、待ちわびております。Sさんのご厚情に感謝はしつつ、私は私の道を私の意志で歩みたいと存じます。(2011年12月)
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セガン『芸術論入門』の出版予告

2017年09月23日 | 研究余話
 1836年に出されたヴィクトル・ユゴー全集の付録であるパンフレットには出版予告が載っている。念のためにと斜め読みをしていたら(第3巻)、エドゥアール・セガン『芸術論入門』1巻、印刷中、とあった。セガン24歳の時である。セガンが芸術関係の才を持っていた、新聞に記事を書いていた、とは1880年のブロケットによるセガン追悼論文(清水寛編著『セガン ち知的障害教育・福祉の源流ー研究と大学教育の実践』第4巻に訳文収録収録)に出てきたが、その実証的な資料はまったく見つかっていなかった。『芸術論入門』が出版された可能性はないと思うが、この出版予告は、従来無検証だったセガン像の掘り起こしに一石を投じることになる。
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大衆小説作家ウージェーヌ・シューについて

2017年09月22日 | 研究余話
ウージェーヌ・シュー(1804-1857)はヴィクトル・ユゴー(1802-1880)とほぼ同じ世代の大衆小説作家である。社会ロマン派に属したこと、大衆に大変人気があったこと、第二共和政期に立法議会議員に選出されたこと、さらにはナポレオンIII世に疎んぜられ国外追放されたことなど、両者には共通するものが数多くある。障害者を作品のテーマにしたこともまた両者に共通している。これは身体障害者をテーマとしたユゴーがわずかに先んずるが(『ノートル=ダム・ドゥ・パリ』1831年刊)、後に紹介するように、シューはまず1832年に「イディオ1824」という短編で、続いて1842年から43年に新聞『ジュルナル・デ・デパ』紙に連載新聞小説『パリの秘密』を発表し、その作品の中で、重度知的精神障害者についてかなり詳しく描き出している。
 我が国におけるシューの認知度は、ユゴーに比べてはるかに低い。翻訳も多くは出されておらず、『パリの秘密』の部分訳、『さまよえるユダヤ人』が私の知るところである。認知度の温度差は、ご当地フランスにおいても同様のようである。確かに『パリの秘密』の原書を入手するのに何軒も古書店巡りをした。新刊本が出されていないからである。にもかかわらず、小倉孝誠『『パリの秘密』の社会史』(新曜社、2004年)によれば、ユゴーの『レ・ミゼラブル』は『パリの秘密』に触発されて上梓されたという。拾い読みでしかない私の読み方で言えば、例の「銀の燭台」はシューのオリジナルであって、ユゴーはそれを剽窃したのではないか、とさえ思われる。詳しくは小倉孝誠氏の力作名著に譲りたい。
 本ブログとシューとの関わりと言えば、なんといっても、『パリの秘密』で描写されたビセートルと精神病者の姿、そして「白痴学校」の情景描写にある。
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ビセートルの歴史検証(11)

2017年09月21日 | 研究余話
 エデュワール・セガンがビセートルの「白痴の教師」として雇用されたのは、1842年10月1日(?)から1843年12月23日までである。前任の「男子不治者救済院」での実践記録が残されているものの、ビセートルでの実践については記録が無く、指導を担当した子どもの数もはっきりとはしない。50人だ、あるいは、100人だ、と綴るものもいるが(その文献名をはっきりとは記憶していないので、調査する必要があるのだが)、その根拠は不明である。ただ、ビセートル史、とりわけ精神病医療史に関わって残されている患者数は、ある時期(1850年頃)については確認できる。以下のようである。
「まだ、白痴者と癲癇患者について話をすることが残っている。あまり語るべき言葉を知らない。前者は、知性が生まれつき発達が不完全であるかまったく停止しているかであり、その員数は29人である:7人が白痴者であり22人が痴愚者である。前者はまったく言葉を奪われている:一人は聾唖であり、二人は清潔さについての感情を持っている。残りの者は本能にいくらか帰せられている。
 我々が45人の患者について観察した結果、癲癇の発作は、定期的に2週間続いた1ケースを除いて、特徴をつかみえなかった。
 それの精神異常との関係に関連して、我々は、癲癇を、3回で鬱病、6回で痴愚、そして1回で中風症の痴愚と共通していると考えた。」
 この記述から、19世紀には、白痴・痴愚と癲癇とが同一カテゴリーで捉えられており、その総数45人。内、白痴が7人、痴愚が22人。残る16人が癲癇患者である。
 セガンは「癲癇と白痴とを一緒にして教育することはできない」と強く主張し、癲癇への教育を命じる上司と鋭く対立することになり、馘首される結果を生んだのである。この件に関しては、過剰解釈や誤訳による史実誤認というじつに<面白い>研究成果を生んでいるのだが、具体は『十九世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2014年)に綴ったことである。

 添付写真は、セガンが教えた「白痴・痴愚」「癲癇」の子どもが収容されていた児童病棟。

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