ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガンの、なぜ?どうして?

2017年11月27日 | 研究余話
 荒井聡という方が、私のセガン研究書(2010年著書)をお読み下さった。その上で、幾つかの問いをお出しになっている。いずれ「方程式的解は無い」とコメントを差し上げた。
 解が無いからそれでおしまい、ということは許されない。予断や妄想で解があるかのようにしてきたこれまでの諸々のセガン研究の轍を踏むという愚は犯してはならないと自戒しつつ、解を求めるための方程式の作成作業が、私には残されているのだろう。
 荒井さんから出された問いのひとつーー
 「セガンの障害教育をとりくもうとしたきっかけというか意欲の源は、何なんでしよう?」
 「きっかけ」については、実証性は無いけれども、セガン自身が「著名な児童病院の院長を介して白痴と思われる子どもの教育に携わることになった」旨を回想している。
 19世紀半ば頃は、ブルジョアジーや貴族階級では、子弟の初等教育は、そのほとんどが個人教育で行っていたから、セガンもその教育に携わることになったと、判断していいだろう。この個人教育は、たいていの場合、家庭教師が住み込んで行って、子どもと家庭教師が24時間起居を共にしていた、という時代であった。セガンの初の実践記録は、そういう教育のあり方で無ければ理解できないような状況が綴られているから、私は、セガン家庭教師説の立場にある。・セガンのところに子どもが通ったのでは無く、セガンが子どものところで教えた住み込み教師を務めた、ということ。・・
 と、こんなところから「方程式」を作成している次第。(これまでのセガン研究の諸々では、まったくこういう作業は為されてこなかった)
 先が遠い「解」への道。・
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セガンが創設した学校について 追

2017年11月25日 | 研究余話
 ピガール通り6にセガンが開設した文部大臣認可の教育施設〔学校〕は、当時の関係者に、どのように見られていたのだろうか。
 文書の形で残っているのはきわめて数が限られている。その希少な一本が、聾唖教育と白痴教育とを結びつけた教育者ピロウ博士(Dr.Piroux)の論文である〔「聾唖の友」という雑誌に投稿された≪らしい≫〕。ピロウはその論文の中で、セガンの「学校」を「特殊学院」と形容している。l'Institute specieleが原語である。そしてそれは「イニヴェルシテの管理下に置かれている」という。今日風に言い換えれば、「文部大臣によって設置認可を得た特殊教育学校であり、フランスの全学校を管理するイニヴェルシテが管理下に置いている公教育機関」である。さらに意味深いことは、学校がそういう制度的性格を持った初の事例である、ということだ。特殊教育学校の公教育制度組み込みであり、史上初のこととなる(のだろう)。
 この学校が長続きしていれば、特殊教育史に燦然と輝く金字塔となったろうが・・・・。「学校」を巡る史的状況を、探ってみる必要はあると思う。
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【知的障害教育の開拓者エデュワール・セガンの開いた[学校]について】

2017年11月24日 | 研究余話
 セガンは1840年が開けてすぐに、〔フランス・パリ〕ピガール通り6を住所とする教育施設を開いた。子どもの数はわずか3人。重複障害を持つ知的障害児童たちだ。この学校でのことはほとんど史料も残っておらず詳細は不明だが、文部大臣の認可を得ているので私塾ではない。その認可過程に関しては拙著『知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』〔新日本出版社〕、『一九世紀教育のための戦い セガン パリ・コミューン』〔幻戯書房〕で綴った。今後さらに、史料を求めて、史実をつまびらかにしていきたいと考えている。
 ところで、この学校は、私立学校種に属するわけだが、当事史料の中に、「イニヴェルシテ(Université)の監督下に置かれる」ことが示されている。そういうシステム下にあるのは、[(当時の私立学校種では、)唯一の学校だ]と記録する文書も存在する。Universitéを仏和辞典で調べると、1.大学〔総合大学〕、などとなっており、セガンのこの学校のことを説明する言葉ではない。義務学校[小学校]ではないし、今日でいう専門学校でもない。まさに、特別な子どものための、特別な内容と方法とによって教育される学校であった。ただ、公的な認可を受けたという意味では公教育の範疇に入るだろう。とはいっても、課程修了認定があるようなシステムはない。
 
 この種の専門的な学習はまったく積み重ねてきていないから、お手上げというのが現状である。この意味でも、まだまだセガン研究は終わっていない。
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フレネ研究の先にあるもの・・・

2017年11月15日 | 研究余話
 ロシア人ボーリズ・ヴィルデ。1908年6月25日サン=ペテルスブルグに生まれた。フランスに帰化。第2次世界大戦中、反政府運動(いわゆる「反ナチ・レジスタンス運動)で囚われの身となり、1942年2月23日処刑された。彼をかくも戦わせたのは一体何であったのだろう。
 彼と僕とを結び付けてくれたのはL.氏というユダヤ系フランス人。2000年のことだ。
「川口さんはパリ・コミューンにたいそう興味をお持ちのようですが、第2次世界大戦時のフランス・レジスタンス運動には興味がありませんか?」
 興味もなにも、校務としてのセレスタン・フレネ研究では触れざるを得ないレジスタンス運動だ。フレネは果敢に戦っていた。
「ぜひ、学びたいのですけれどね。手がかりを持っていないし・・。」
「良かったら、監獄日記をお読みになりませんか?」
「ん?」
「ボーリズ・ヴィルデという人の、レジスタンス運動でとらわれて処刑された人の、収監中の日記と手紙です。」
・・・ かくしてぼくの手の中に、ヴィルデの監獄日記・手紙の本が入った。
 「レジスタンス運動」に関わる史資料も、けっこう収集している。いつか、いつか、・・・・。
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フレネからパリ・コミューンへ(4) ヴィクトル・ユゴーへの接近

2017年11月14日 | 研究余話
ユゴーの1871年3月18日

 まずは、ユゴーの日記から
***
 駅にて、正午に我々が到着することを知らせる新聞を私に届けてくれる人とサロンで会う。我々が待つ。群集、友好的。
 正午に、我々はペール・ラシェーズに向けて出発する。私は屋根飾りのない霊柩車である。ヴィクトルは私の側にいる。我が友人たちすべてが後につく、そして民衆も。誰かが「脱帽!」と叫ぶ。
 バスティーユ広場で、銃を下げて移動する国民衛兵隊の儀仗兵一人がすっと寄ってきて霊柩車の回りを一周する。墓地までの全行程、戦闘態勢の国民衛兵隊の軍列が武器を提示し、軍旗に敬礼をする。太鼓が連打される。ラッパが鳴り響く。民衆は私が通りすぎるのを待ち、口を利かない、それから叫ぶ、「共和政万歳!」
 墓地に群集。柩が降ろされた。柩が穴に入れられる前に、私はひざまずき、柩にキスをした。地下納骨所が大きく開いた。敷石が持ち上げられた。私は追放以来見ることのなかった我が父の墓石をじっと見つめた。標石が汚れている。入り口が非常に狭かったので、石を削らなければならなかった。それが30分続いた。その時の間、私は我が父の墓石と我が息子の柩をじっと見つめていた。やっと、柩を下ろすことができた。シャルルは我が父、我が母、そして我が兄弟と一緒に、そこに居続ける。
 それから、私は立ち去った。墓に花が投げられた。群集が私を取り囲んだ。誰かが私の手を掴む。この人たちが私をどれほど愛していることか。そして、私も民衆をどれほど愛していることか!
 我々はムーリスとヴァッケリーと一緒に、自動車で戻った。
 私は打ちのめされる、我がシャルルよ、祝福あれ。
 -墓地で、群集の中に、私はミリエルの姿を認めた。とても青ざめそしてとても感極まった様子だった。私に会釈をした。そしてその実直なロスタンも。二つの墓の間から、一本の大きな手が私の方に差し出され、そして私にこう声が掛けられた、「私はクルベです」。同時に、私は力強く人を奮い立たせるような顔を見た。両目に涙を浮かべて私にほほえみかけていた。私はその手を強く握りしめた。私がクルベを見た最初である。
***
 図らずもヴィクトル・ユゴーのこの日の日記は、「死」と「再生」という対極にある事実で構成されている。「死」とはもちろんユゴーの愛息シャルルの葬送・埋葬であり、「再生」とは、民衆の自由意志で組織される義勇軍・国民衛兵隊と老若男女のパリ民衆とが、プロイセンの侵攻に対して武装解除をもって和平講和を結んだ国民議会政府の軍隊(正規軍)を打ち破り、政府直轄地を脱して自治都市として建設への第一歩に踏み出したパリ市の歓喜の叫びである。
 ユゴーは1848年の2月革命によって立憲王政から第2共和政へと移行した時に、パリ市から選出された立憲議会議員であった。しかし大統領となったナポレオン・ボナパルトの施策に強く反対したために祖国を追われた。イギリス、次いでベルギーに居を構え文筆活動に精を出すが、民衆派の文豪として名声が高かった。とりわけパリをヨーロッパの文化の中心だと捉えていたユゴーにとって、悲しみもさることながら、パリの「再生」に心を躍らせるものであったに違いない。また、パリの人々も、ユゴーと同じ思いであり、ユゴーとの「再会」は非常に心強いものを感じたはずである。二つの墓の間から手を出しユゴーに握手を求めたクルベは、そのパリの人々を名実共に象徴する人物である。つまり、彼は、後に、パリ自治市市議会議員となる人なのである。
 日記に綴られた事実がこれほどに歴史を形象するとは。
 だが、「死」はこれで終わるのではない。「再生」は極めて短期にしかすぎず、2か月半ほどで、凄惨な流血と破壊を伴って「死」を迎えることになる。歴史上「パリ・コミューン」と呼ばれる歴史的大事件に、文豪ヴィクトル・ユゴーがどのように関わっていたのだろうか。
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研究生活継続宣言

2017年11月13日 | 研究余話
 あるものを無いと言い、無いものをあると言う。
 普通の感覚だったら、それはおかしい、と思い、さらに、その間違いは正されなければならない、と思い、行動に移す。
 こんな当たり前(だと思われる)のことを研究方法論の基本においてきた(つもりの)我が研究者人生。
 そのとっかかりが「生活綴方」教育史研究。これで随分鍛えられた。先人・先哲の言説にもの申す(研究論文で実証的に批判する、ということ)、という恐れを知らぬ行動に。
「おまえには敬意を払うという人としての礼節がないのか!」
「だって、先生、先生たちが「間違っていることは間違っていると言わなければいけないんだ」と、指導する子どもたちにおっしゃってきたのではないですか?」
「常識というものがあるだろう!」
「常識を疑えと綴っておられますね。」
「すこし黙ってろ!」と言われんばかりの境遇に入り、発言する場も少なくなり、言われなくても黙るしかなくなって、いつしか「たこつぼ」に入り込んでしまっていた。長かったなぁ。
 フレネに出会ったことをきっかけに、パリ・コミューンに出会い、そしてセガンに出会って、「普通の感覚」で対象と向かい合うことの自由を再び得、フィールドワークという教育史研究方法に没入することができるようになった。ただし、発表の場は得にくいことには変わりが無い。
 幸い、世はインターネット時代に入った。綴り表明する機会と道具は存分にある。同僚から「宇宙のゴミの量産」と揶揄されようと、「死が我々を分かつまで」、生活綴方人として、事実をありのままに捉えありのままに表現することの喜びがある。
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フレネからパリ・コミューン(1871)へ 3

2017年11月12日 | 研究余話
(承前)
 セレスタン・フレネはフランス共産党員となったが、彼の思想哲学や教育論がブルジョア的自由主義だと厳しい批判にさらされ、除名処分を受けている。そのフレネが、社会主義国家社会建設のモデルとされたとも言われるパリ・コミューン(1871年)から、大いに学んでいた、ということがどうにも釈然としなかった。そういうことから、ぼくのパリ・コミューン学習への向かい方は、その実際の姿、つまり、既存のパリ・コミューン観にはよらない、生史料からの評価を目指すことであった。
 生史料とは?
☆パリ・コミューン(1871年)はパリ市議会の歴史過程の一形態であるから、市議会関係の議事録があれば、それに従って評価する。
 幸いなことに、これは、後年、詳しい注記入りの刊行物があり、古書店で入手することができた。(史実学習が進んでくると、注記にも誤認があることが分かるようになった)
☆いわゆる「広報」のようなものが刊行され、それが復刻されているというので、すぐに入手することができた。多くの研究物はこの復刻版によっていることも理解することができた。
 しかし、この「広報」は、反パリ・コミューン派によって再編集されたものであり、落丁も多く、「史実」そのものではない」ことがすぐに分かり、改めて「広報紙」そのもの(つまり生史料)入手に努めた。
☆街中につねに張り出された夥しい数の情宣ポスター(壁新聞)を叶う限り、収集に努めた。
 これは復刻されているものがごく少数あるが、「パリ・コミューン100年祭」の時の副産物。大いに参考になるが、やはり生史料としてのポスターにこだわった。
 ぼくが読むパリ・コミューン史はおおよそのところ礼賛型であった。たとえば、パリ・コミューンは戦闘で捕虜とした者を処刑はしていない、とか、パリ・コミューンは言論・出版の自由を完全保証した、とか。そのような史的評価は、そのような言説も為されたが、実際のところは「人質処刑の3倍返し」が議会決定されているし、4つの新聞が出版禁止の憂き目に遭っている(これも議会決定)。生史料は雄弁だ。あらゆるフィルターが掛かっていない。(続)
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フレネからパリ・コミューン(1871)へ 2

2017年11月11日 | 研究余話
(承前)
 朝市でパリ・コンミューン調査への糸口を下さったパリ、タクシードライバー労働組合書記局長のDさんのお導きで、パリ13区のビュット・オー・カイユにある「パリ・コミューン友の会(Les Amis de La Commune de Paris(1871)」へと出かけた。フレネの友人であるもと中等学校教授のE氏が常任である「友の会」の事務所にいるはずだというDさんの言葉に従ったのだった。しかし、アポ無しという無謀さはパリでは認められない、ということを知らしめられたのだった。「電話番」の事務局員のマダムと幾つかのやりとりの後、D氏E氏を我がアパートにお迎えして聞き取りをする、という幸せに恵まれた。


 E氏は、フレネはいろいろと批判の対象となり理解されないところがある人だったが、彼が切り開いた学校が実証するように、現代教育を子どもの側から変革することがいかに必要か、その根本のところ、その筋道、そして方法・内容のすべてを創造的に提案した偉大な教育者だ。フレネはパリ・コンミューンをよく学んでいた。その学びがフレネ教育運動に活かされている。」と、語ってくれた。まだ、フランスの教育史や教育事情にほとんど通じていなかったぼくにとっては、この聞き取りは、精神を集中するのが関の山で、さらに聞き込む」ということはできなかった。
 フレネがパリ・コミューンから学んでいた?一体何を?
 パリ・コミューンを社会主義革命の短命な運動としか学んでいなかったぼくにとって、フレネとパリ・コミューンとをつなぐキーとなるものが一体何なのか、見当も付かない。だったら、パリ・コミューンって、本当のところは、どのようなものだったのか、そしてどのように評価すべきなのか、そこを勉強するしか手立てはない。D氏が、パリ・コンミューンの第一次史料が、地方の古書店によって復刻されているから、まず、それを入手する必要がある。と示唆下さった。
 こうして、ぼくのパリ・コミューン研究の幕が開いたのだった。無知がなせる幕開けであるので、試行錯誤もいいところである。(続)
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さらなる与太話 フレネからパリ・コミューン(1871)へ 1

2017年11月10日 | 研究余話
「おまえは、若い頃から知的障害教育やセガンを勉強していたのか?」 よく出される問い。
 いいえ。フランスとの縁そのものもそう新しい出会いではございません。こんなところなんですー。さるところに寄稿したが、没稿となった貴重な雑文。

 2000年4月1日、私は大きな不安と未だ成熟せざる期待とを抱いて成田国際空港を後にし、フランス共和国での一年間の研修生活を送るべく、旅立った。研修課題は、戦前生活綴方研究を進める中で知ったセレスタン・フレネ(Celestin FREINET 1896―1966)という人物の教育観を追跡・検証することであった。もちろん、彼が独力で創設したフレネ学校の現在(フレネ教育実践)の参観・分析研究が除外されることはない。
 セレスタン・フレネの教育観・教育運動の中で光彩を放つのが、「学校に印刷機を」の運動と「世俗教育協同組合(CEL)」創設であろう。前者は学習のための教材を子どもたちが手作りするという大きな教育方法改革運動を生み、この点が我が国の戦前生活綴方運動と相似するところがある。後者の「世俗教育」はヨーロッパ・フランスの近代教育構築について回る大きな課題である。我が国になぞらえれば戦前の「現人神・天皇」を絶対とする教育をどうとらえるかという問題に通じるであろうか。我が国で展開されてきたフレネ教育研究は前者に傾いているが、後者を等閑視していいはずはない。
 研修には必然とする身を預ける権威機関を得られないまま、フランス・パリをあてどなくさまよい歩く日々が続いた。上記の問題意識を直接深めていくことが出来ないいらだちを覚える毎日ではあったが、問題意識をかすめる事象との出会いの数々が、ぼくの頑なな視野を和らげ、開いてくれるような感覚も育っていた。
 ある日のこと、日々の生活必需品の買い出しのため、観光ガイドブックで言う朝市に出かけた。さまざまな街宣が為されもするような、おおきな市である。フランス共産党機関紙の購読を訴えていたので、フレネは共産党員だったなあ、と思い起こし、どのようなことが記事にされているのだろうかと興味がわいて、買い求めるべく、街宣者に声を掛けた。細かなやりとりは省略するが、彼はぼくがフレネの研究のために渡仏したことを知ると、生前、フレネと親交を結んだ中等学校教授がいる、聞き取りをするなら仲介の労を執ってやろう、と言う。(続く)
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もう一つの研究与太話

2017年11月09日 | 研究余話
 現在は、もっぱら絵画創作をなさっているSM氏とのセガンに関する対話。今日なされたことなので、この後も続くかもしれない。

SM氏 特別支援教育の免許を取るために5年かけて単位を取りました。千葉大の先生の講義でしたがセガンという言葉はとうとう聴くことはありませんでした。どうしてかな。
川口 歴史的人物ですし、評価が分かれる人でもあるようですので。ほかに語らなければならないことがあったのでしょうね。知らない人もいるようですし、専門家であっても。
SM氏 そうなんですね。川口さんが語るセガンにはどこかロマンを感じます。
川口 障害児教育論には筆を及ぼしておりませんし。人物伝のようなものですので、時代の中で葛藤しながら「自己」を形成する、という自立論がテーマになっておりますから、ロマンと言えば、ロマンでしょうね。
 念のために申し添えますと、私が初めて知った「セガン」像はとても嫌いでした。つまり、セガン研究の先達が描いていた「セガン先生」には好感が持てなかったのです。とにかく、偉大だ、偉大だ、血筋、家系がそうさせている、学歴も素晴らしい、若くして大学者たちに認められた・・・・、という「セガン像」です。それが「実像」なの?という疑問から「セガン」を学び始めたわけです。

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