ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

セガンの白痴教育の師匠イタールとその評価をめぐって】⑤

2018年04月30日 | 研究余話
 アヴェロンの野生児・ヴィクトールは1828年、ゲランという婦人に看取られて、この世を去った。
 ゲランは、野生児・ヴィクトールが聾唖学校に収容され、1801年から、イタールの教育実践(実験)が進められるにあたって、「看護人」として聾唖学校に雇用された人である。寡婦であったことから、全日、ヴィクトールの看護の任を務めていた。映画で描かれているような、イタールの使用人(家政婦)ではない。
 イタールの教育記録は1806年が最後のものであるから、ヴィクトールならびにゲランについての記録も、それ以降を知りえなかったのだが、新聞記事によって1828年にふたたび記録に上った。
 では、1807年から1827年までの、およそ20年間の空白期間をどのように描くことができるのだろうかという問いを持っていた私は、ヴィクトル・ユゴーの詩編集(『光と影』1840年、など)との出会いによって、大きなヒントを得たように思った。「ある時期、一定の期間、野生児とユゴーとは、聾唖学校のごく近在のフォイヨンティンヌ街を、共時していた!」

 あくまでも推論にしかすぎないから、自分のメモに留め置くしかない事柄だが、明確な「問い」を設定することができた。「野生児は留め置かれていた聾唖学校からいつ身柄をフォイヨンティンヌに移されたのか?また、看護人ゲランはいかなる任務を負わされたのか・負わされなかったのか?」「イタールは教育を断念したのか?継続意思があったのか? (続く)
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【セガンの白痴教育の師匠イタールとその評価をめぐって】④

2018年04月29日 | 研究余話
 ヴィクトル・ユゴーは、彼の少年期のある時期に強い影響を与えた「3人の先生」として、「ラテン語学校(私塾)の先生(司教)」「母親」そして[フォイヨンティンヌ」を挙げている。[フォイヨンティンヌ」とは、1809年から1815年まで(ユゴー、7歳から13歳まで)、ユゴー一家が居を構えた界隈のことであり、それは元女子修道院(革命による宗教弾圧を受け建築物は国有になり、一部はパリ聾唖学校の住宅等に転用されていた)の一角であった。元修道院は、行き止まりの道フォイヨンティンヌ沿いにあり、半ば荒れた広大な庭園を有していた。’(この界隈の現在写真とユゴーが過ごしたころのデッサンを添付した。)
 [フォイヨンティンヌ」!!アヴェロンの野生児・ヴィクトールの最期を伝える新聞記事にある地名ではないか。救済院に捨てられた、というのはとんでもないウソである。ひょっとしたら、二人のヴィクトールは、この地で、顔を合わせたことがあるのだろうか?そうだとしたら、ユゴーは作品に何らかの形で、綴っているに違いない。・・・その検証の結果は「ヴィクトールふたり」という小品に綴った(拙著『知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』序章に一部収録)。
 映画説でもセガン及びB氏説でもない、訃報記事及びユゴー説に信ぴょう性を置いて、「何でフォイヨンティンヌなんだ?」「イタールはどのようにかかわるのか?」を尋ね歩くこととなる。(続く)
 ユゴー一家が居を構えたころのフォイヨンティンヌ街 元女子修道院 画面中央右寄りに丸屋根を遠望することができる。ヴァル・ド・グラス大聖堂屋根であり、フランス革命期から陸軍が置かれていた。イタールはその下級外科医を務め、またセガンの父親が医学研修を務めたところである。

 現在のフォイヨンティンヌ通り。

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【セガンの白痴教育の師匠イタールとその評価をめぐって】③

2018年04月28日 | 研究余話
 フランス19世紀の救済院は棄民施設である。治癒の見込みのない者、社会復帰が困難だとみなされた者、あるいは徒刑場を伴う監獄に収容された者など、一度入ったら容易には「娑婆」に出られないところである。
 セガンの口によると、「アヴェロンの野生児・ヴィクトール」はイタールによってそこに「捨てられ」、悲惨な最期を遂げた、という。イタールの教育記録にビセートルという救済院名が登場するから、ヴィクトールはビセートルに収容され、そこで没したのだろうか?
 ところが、イタールの教育記録の翻訳書解説他では、1828年にヴィクトールは彼の世話をしていたゲラン夫人のところで没した、齢40歳ほどであった、という新聞報道を紹介している。これで、映画のイタールの私邸説も、セガンの救済院説も吹っ飛んでしまうことになる。
 いったい、歴史事実はどういうことなのか?これまでの所説の後追い検証するには、その手掛かりさえつかみえない。B氏に問うと、「セガンがうそつきだというのですかっ!」との「お言葉」が返ってくるだけであった。
 研究の常道「袋小路」に入り込んでいたが、まったく別の局面から、研究的考察の道へと導きを得た。それはヴィクトル・ユゴーの「静観詩集」に収録されていたある詩編を読んだことに依った。 (続く)
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【セガンの白痴教育の師匠イタールとその評価をめぐって】②

2018年04月27日 | 研究余話
 セガンの白痴教育開拓には前史がある。イタールの「アヴェロンの野生児」すなわちヴィクトールへの教育の取り組みである。1801年から開始されたが、その終期は明確ではない。1806年にイタールは教育の取り組みを内務大臣に提出した報告書に綴っている。それ以降については不明である。そのころは聴覚学の権威として世界が認める存在になっていたから、その関係で多忙を極めていたはずであるが・・・。
 教育の終わりを象徴することを、セガンは、「イタールはヴィクトールが白痴であることを認め、とある病院(棄民施設のこと)に少年を捨てた。少年はそこで死んだ」と綴っている。知的障害教育史研究者B氏は、このことで、「イタールの教育は失敗した」と評価し、「セガンもまたそのように言っている」と語っておられる。
 はて・・・・?イタールとヴィクトール少年とはまるで私的関係でしか結ばれていなかったようなセガンとB氏の認識のように思われるが、そうなのか?
 そういえばB氏は、この教育はイタールの私邸(別荘)で行われ、子どもの世話をイタールが雇用する家政婦が行っていた、と私に明言された。B氏が是非視聴しなさいと勧めた映画「野生の少年」〈原題L'enfant sauvage)での舞台設定はB氏の語りとほぼ同一であった。映画は「これは史実である」との語りから始まっている…。
 映画の結末は感動を呼ぶ。ヴィクトールは捨てられたどころか、「家出」の後、自力でイタールと家政婦の待つ家に戻ってきた。
 捨てられてはいない。この点だけがB氏の語りとは違う。曰く、「セガンがそう言っているのですから間違いありません。イタールは少年を捨てたのです。」(続く)
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【セガンの白痴教育の師匠イタールとその評価をめぐって】①

2018年04月26日 | 研究余話
 ほとんど衣類を身にまとわず浮浪していた10歳ほどの少年が捕らわれの身となり、人間的な能力がいかばかり身についているかの観察がなされ、併せて教育が可能かどうかの実験がなされた。19世紀初頭、フランスでのことである。この少年は「アヴェロンの野生児」と俗称され、教育実験過程で「ヴィクトール」と名付けられた。
 精神科医たちの観察では「終生治癒不能な白痴であり、救済院に閉鎖監禁をすることが適切な処置だ」との結論が出された。一方、陸軍の下級外科医であったイタールが、「幼いうちに親の手から離されたために、育ちの過程を失っており、諸能力の発達が閉ざされているとも考えられる。したがって教育を施せば、ある程度の能力発達=人間的発達を進める可能性がある。」との考えを持ち、「アヴェロンの野生児」が仮に収容されたパリ聾唖教育施設(現在の、パリ聾唖学校)の学校医職を買って出て、教育実験を進めたー。(続く)
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パリの壁は歴史案内

2018年04月25日 | 研究余話
パリに出かけるときの大きな楽しみは、まだ歩いていない街区の、石壁で覆われている住宅の壁を眺めながら、歩くことである。既知のあるいは未知の歴史情報と出会うからである。
 ある年の夏、パリ 6 区セルバンドニ(SERVANDONI)通りを左右の壁面に目を移しながら、散策を楽しんでいた。すると、18 番と 20 番のちょうど真ん中に、填め込まれた新しい顕彰パネルがあった。それには次のようにある。
Olympe de Gouges
1748 – 1793
Auteur de la Déclaration des Droits de la Femme et de la Citoyenne
(オランプ・ド・グージュ 1748-1793 女性と女性市民の権利宣言の作者)

 フランス革命の例の人権宣言のパロディだが、フェミニズムの第一歩の徴となっている。
 オランプの顕彰パネルの向かいの建物壁には、数メートルほど離れたところに、かのコンドルセの顕彰パネルがはめ込まれていた。

 フランス革命期に、方やギロチン台に乗せられ、方や獄中で服毒自死した二人の傑物が、歴史に確かに存在していたことを確かめ得て、私は先に歩を進めた。向かう先はサン=シュルピス教会。そこは、二人の傑物の命をもぎ取ったフランス革命期恐怖政治の主要舞台が置かれたところである。
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あるパリ・コミューン論への呆れと怒り (再論)

2018年04月25日 | 研究余話
 「新聞」という形式・方法を用いてパリ・コミューン研究とジャーナリズム研究を進めると公言したラ・コミュヌ・ド・パリ研究会機関紙『エコール・ド・ジュゥルナリズム』は、その記事に虚偽が多くある。それを問いただす質問状を幾たびか出したが、返信をいただいたことはない。さらに記事訂正をしたという情報も伝わってこない。

その1 編集者(兼記者)がパリに滞在した折、パリ・コミューン関係の資料を入手したという記事に関わって。この「新聞」の編集同人の口を通じて(第18号「てっちゃん」筆の「ひとど」欄)で「このパリコミューンの政府が、『日刊紙』を出したんです。A4一面の紙面です。その現物を100枚買ってきた」とある。パリ・コミューン議会(「政府」?)の存在はわずか72日間。日刊紙であるというのなら多くてrも72号で終わっているはず。この数字のマジックは?紙型(判型)が「A4一面の紙面」?はて。「現物」を買ってきた、とあるから、ははーん、合冊再版コピー版のことだな。このコピー版は反パリ・コミューン勢力が編集刊行したものを再編集したもので、落丁もありとても史料とは言えない代物。参考資料にはなる。史資料のクリティークさえできないで、何が「ジャーナリズム」研究だ。

その2 第29号 コミュヌ人国記(21)「1871年1月22日コミュヌを作る」とあるが、以下の点が不明。要は,編集者がla communeをとてつもなく社会進歩を促したものだと信じているだけのことなのだけど。「この表現にある実質がどのようなものなのか、不明。1.どこに? 2.フランス革命以降の行政組織(地方自治体)であるla communeとの異同は? 3.「パリ・コミューン」との関係は? (時期的には直接関係ないが・・・)」

その3 「パリ・コミューンは思想・信条・言論の自由があった」旨記事に対して。嘘もほどほどにされたい。史実をねじ曲げるのが「研究」なのか? 以下が史実として確認できる。『パリ・コミューン議会議事録』より:「出版の自由の原則は敵軍の利に有利になるような新聞がパリに存在することを許容しない故に、『ビヤーン・ピュブリーク』紙、『スワール』紙、『クロッシュ』紙及び『オピニオン・ナシオナール』紙を発行禁止とする」。 パリ・コミューン広報第3年109号(1871年4月19日号)より:「パリ・コミューン議会は、攻囲されたパリで内乱を公然と鼓舞し、敵に軍事情報を与え、共和国防衛に対して中傷を喧伝するジャーナリズムを黙認することはできないことに鑑み、『スワール』『クロッシュ』『オピニオン・ナシオナール』『ビヤーン・ピュブリーク』各紙の出版禁止を決定した。」

などなど・・・・

 歴史をねつ造してまでパリ・コミューンは正義であった、無謬であった、という立場には、とても同調することができない。

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サクランボの実る頃

2018年04月24日 | 研究余話
 近在の白山神社の境内は見事な絨毯が敷かれたようだ。桜の開花が終わり実を結ぶことなく散った残骸。下が土故、自然に委ねて、土に還ることを強く願う。

 頭上を見上げると緑の葉に覆われた桜の木の枝に、実が青く膨らんでいる!ああ、サクランボだ。

 ふと口に出る.あの歌…。
 
 Quand nous chanterons le temps des cerises 
  私たちがサクランボの季節を歌い
 Et gai rossignol et merle moqueur     
  陽気なナイチンゲールやマネシツグミが
 Seront tous en fête          
  すっかり浮き浮きしているであろう頃
 Les belles auront la folie en tête  
  娘たちは頭におかしな思いを抱き
 Et les amoureux du soleil au cœur   
  恋人たちは心に太陽を抱くだろう
 Quand nous chanterons le temps des cerises 
  私たちがサクランボの季節を歌い
 Sifflera bien mieux le merle moqueur    
  マネシツグミがより上手にさえずるであろう頃

 
 この歌作詞者「さくらんぼの実る頃」との初めての「出会い」は2002年11月1日だった。2000年度一年間のパリ滞在でパリ・コミューンに関わる史資料収集とフィールド・ワークを開始していた。大学祭の期間を利用してパリに渡った。ペール・ラッシェーズ墓地を訪ね、関係墓を探し歩いた。その時に、J. -B. クレマンの墓に行き当たった。ちょうどその日、フランスのお彼岸に当たる日だとかで、墓前にはたくさんの花が手向けられていた。それに対して、その隣の墓はさみしいものだった。(隣の寂しい墓の主にかかわることは、いずれ綴ります)


 「サクランボの実る頃」は儚い恋と失恋の悲しみを歌ったもの、つまりもともとは恋愛歌である。パリ・コミューンの歌などと言われているが、作詞者のクレマンがパリ・コミューン議会の議員であったこととの関わりで、後年パリ・コミューンを再評価する機運が起こった19世紀末にこの歌が若い人を中心に流行したというのが本当のところだと聞く。
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「不治者救済院。それがサルペトリエールじゃないんですかっ!ちゃんと調べなさいね。」

2018年04月23日 | 研究余話
 よほど詳しいフランス・パリの歴史書じゃない限り「不治者救済院」という名称は出てこない。高齢者、重度の心身障害者の収容施設。基本的に、いったん入院したら生きて出ることはない。赤貧で、かつ医療的に回復・治癒が困難な人々のための施設である。いわゆる棄民施設。フランス語でle hospice des incurable(ル・オスピス・デザンキュラブル)と綴る。
 これの存在を知ったのは2003年8月のこと。セガン関係の文献集を、偉大な自称セガン研究者から依頼を受け、入手したことによってであった。セガン研究書、論文の類では「不治永患者院」「不具者施療院」などとされている施設であることも知ったが、この訳語ではhospice(フランス語読みでオスピス、英語読みでホスピス)の語義が半分になってしまうではないか、と直感したのだが、それはともかくとして・・・・。
 フランス語はお読みになれないという偉大なセガン研究者のご依頼で先の文献集の略訳をお届けし、事のついでに「不治者救済院というのが出てきます。しかしサルペトリエールという単語は一言も出てきません。やはり、セガンはサルペトリエールとは無関係だと断定してよろしいのではないでしょうか。」と申し上げたところ、「不治者救済院、それがサルペトリエールじゃないですかっ!ちゃんと調べなさいね。」と言葉が返ってきた。たしかに、日本のセガン研究者の間では、「サルペトリエールの別院」とか「サルペトリエールの不治者救済院」とされていた。
 先のセガン関係文献集を日本語に置き換える作業をしていて、重大なことに気づいた。公的機関の決定書に、「セガンはles Hospices des Incuables((複数の)不治者救済院)に雇用された」とある。どういうことだ?それがサルペトリエールであるはずはない、だってサルペトリエールはただ一つだ。じゃあ、「別院」がいくつもあるのか?サルペトリエールは由緒ある著名な巨大病院だけあって、容易に調査可能。しかし、「別院」があるという記述には一つも出あわない。
 19世紀前半期の病院等を規定するコード集(法規集)を入手し調べてみてわかったことは、パリ(セーヌ県)には男子不治者救済院、女子不治者救済院がそれぞれ1院ずつあったということ、そしてそれらはサルペトリエールとは別機関であった、ということ。つまり、セガンは、複数の=男女それぞれの不治者救済院で働くように命じられたことを、先の公文書は示しているわけだ。このことは、日米はもとより、フランスにおいてさえ、今日もなお明記する研究は存在していない。わずかに、私とあと一人のつつましやかな本物の日本人セガン研究者がいるのみ。私の気づきは2004年11月、もう一人の方は2000年より前のことである。
 自分で調べもせず、人の褌を借りて物言いをし続ける偉大な自称セガン研究者!お言葉を返したい気持ちでいっぱいだったが、しばらくの年月、返す言葉は飲みこんでいた。
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「この紋所が目に入らぬか!」

2018年04月22日 | 研究余話
 日米セガン研究史において、フランス、パリの「サルペトリエール」という歴史のある一大精神病院(現在は市民病院)は、きわめて意味のある所だとみなされてきている。そこでセガンが11人の男児に対して教育に携わり、大きな成功を収めた、と理解されていた。しかし、セガンが白痴教育に携わった19世紀前半期において、そこ、当時の通称「サルペトリエール救済院」は、制度名で「女子養老院」とされていることから明らかなように、女子専用施設であった。
 そこではセガンは実践していませんよと、謙虚に物言いしていたセガン研究者はただ一人おられたが、その声に耳を貸す自称セガン研究者たちは一人もいなかった。
 私といえば、フランス近代における性差別の問題に神経(だけ)をとがらせていたので、一応下調べをした後、偉大な自称セガン研究者に、このように異議申し立てをした。
 「サルペトリエールは、セガンの時代は女子養老院というのが制度名です。女子専門の救済院で、女性の棄民施設です。一方セガンが白痴教育に大きく成功したといわれるその実践対象者は9歳から20歳までの男子です。男女席を同しゅうせず、の時代のことをどのようにお考えですか?」
 くだんのセガン研究者は速攻で次のように答えた。「アメリカのセガン研究にかかわる博士論文が、セガンはサルペトリエールで実践したと言っているのですよっ!それでも違うというのですかっ!」

 いや、私には、水戸のご老公の印籠は単なるご老公のための薬篭にしかすぎないのでありまして、万人に薬効があるものではございませんが…。2003年秋、いまだ私はセガン研究を進めていない時のことである。

 なお、清水寛氏は、セガンが「サルペトリエール院の機構改革を行った、」旨を述べている(講談社版世界教育史大系、障害児教育史)。しかし、その典拠は示されていない。

サルペトリエールの歴史門(17世紀建造物)

サルペトリエール正面
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