ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

終日再校ゲラ校正作業

2016年01月31日 | 日記
○6時起床。夜の目覚め1回。起床時室温8度。
○昨夜見た夢は現役時代を彷彿させるようなもの。学生たちとああだこうだと語り合い行動しあっていて、つい時間を過ごしてしまい、帰宅のための脚が無い。仕方がない、研究室で寝るか。となるが、ここから先が、夢の世界とは違う現実のぼくの登場。つまり鍵を有していない。当然研究室に入ることなどできない。(;´д`)トホホ、深夜タクシーで帰宅か。と駅に向かう途中からストーリがまるで変わる無責任。ああ、おもしろかった。まだ、夢の中に、杖突歩行のぼくは登場してこない。心では、現実を受け入れたくないのだろうな。それって、わがままでしょ!
○校正作業は目を使う。そして、今のぼくにとっては苦役そのもの。しかしぼく以外にできる人、する人はいないから、喘ぎ喘ぎ作業。目を休めることも考えなければ。
○何枚かの図版資料を挿入。意外と見落としているものがあるな。
○瓦林君から金沢〔神奈川?〕のさる大学の専任講師として4月から赴任することが決まったと連絡。瓦林君によってフランスの教育への扉を開けてもらったことを考えれば、今、フランスの教育の扉を締めんとしているこの時に、瓦林君の新たな出発があるというのも、なんというか、おめでとうございます、おかげさまでぼくはこうやって一つの形を作って舞台から降りることができます、ありがとうございました、ご活躍を心からお祈りしております、との言葉を紡ぐことができる。歴史は繋がる、かな?
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通所リハビリ

2016年01月30日 | 日記
○6時30分起床。夜中の目覚め1回。起床時室内気温8度。
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ 今日で10か月通ったことになる。早いものだなあ。
 自転車漕ぎ20分。焦らずゆっくりと。あったか姫20分。ハードルを置いての歩行練習30分。背筋をきちんと伸ばすことが大きな課題。まだ、ハードルを引っかけることがある。脚クリームマッサージ。あまりにも左脚が冷たいと、所長さんに、足湯を施していただく。氷が生えたような左足首から先、腫れることは無くなったけれど、この冷たさをなくしていかねば。丹念なマッサージが必要なのかな。全身マッサージ。ストレッチングボード。あとは皆さんと一緒に棒体操など。右と左とを異なった動作をする体操は何度やってもぼくにはできない。一種の障害なのだろうな。
○午後から校正。字がきちんと書けない苦しみを味わっています。校正ばかりはタイピングというわけにはいかないのだ。
○日中、イアン一家が来た。くら寿司で夕食。イアン君がワサビをたんとつけて食べるのに驚かされた。孤食じゃない楽しみがありますね。
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論文読み、再校ゲラ朱入れ

2016年01月29日 | 日記
○起床6時、夜中の目覚め2度。起床時室内温度10度。
○今日は博史君の命日。召されて42年になるな。彼が生きたかった命の分、ぼくは研究生活を送ってきている。社会的に立派な研究者であったとはとても言えないが、まとめの時期には命がけであったことは間違いない。博史君に誇って語ることができる。今日もそのために力を尽くそう。
○一仕事前のセガン研究エッセイ
「エドゥアール・セガン」の名と実績を一躍有名にしたのは、「教育不能」(社会参加のための資質能力を形成することができない)故に、棄民施設に閉鎖監禁幽閉され、終生をそこで送らされた当時の言葉で言う「白痴」を、まだ身体的精神的能力が完成していない20歳以下の子どもならば、教育・訓練によって社会参加のための資質能力をある程度形成することができることを、実践的に実証したことだ。
 「セガン」の公的な教育実践の場は、当時の名称で言えば「養老院」。70歳以上の高齢者の収容施設であるが、精神疾患者を収容〔治療〕する場でもあり、犯罪者や赤貧者で浮浪者を一時強制収容する場でもあり、など、要するに「棄民施設」内での教育だった。公的な肩書に「白痴の教師」と与えられた。記録に残されている限りで言えば、「セガン」の教育は男児を対象として教育している。
 日本の障害児教育史研究者の間では、「セガン」は「サルペトリエール院」で白痴教育をしたというのが定説になっている。「サルペトリエール院」というのは正式名称ではないが、フランス社会の女子棄民施設として、つとに名高い。その女子施設内で男児の教育にあたったということを教えられた。男児と言っても20歳未満の立派な若者もいるわけで、男女の区別に格別厳しい近代社会を形成してきたフランスでは、考えられないことだ。
 マジっすか?その旨を率直に「セガン研究者」たちに問うた。いろいろな反応があって面白く思ったが、この人たちは人間の「性」を本質的には理解しようとしない人たちだと、私は強く感じた。「白痴なんだから男女関係ないんじゃない?」その一言が、私をして、「セガン研究本流」ではない道を歩ませることになった次第。
○翻訳書カバー案が送られてきた。シンプルでとてもステキなのだが、どこかで見たような記憶があるデザイン。重なりのないように点検を願いたいとメールはしておいたが。
○今日のお昼は三色丼(親子丼の変様?)

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訳書について出版社と打ち合わせ(午前) 論文読み

2016年01月28日 | 日記
○6時半起床。夜中の目覚め2回。4時半に目覚めて以降布団の中でダラダラ。なぜか眠れない。起床時室温7度。
○10時、南柏ドトールで打ち合わせ。久しぶりに南柏に出る。
○往路30分かかり消沈。帰路3度左脚つまずく。マンホールの蓋が視覚では確認できないほどに浮いているようだ。その程度でさえつま先を上げて歩いていないということか。歩行のための訓練を多くしなかった罰が当たったな。これから春。多いに外に出よう。それしか方法はない。
○再ゲラの朱入れはせいぜいのところ木曜午前まで。これは相当がんばらないとならない。おっと、その前に、今日明日と、N君の論文読み。
○お昼はうどん。ただし、汁無し。ゆで麺を熱湯にくぐらせ、フライパンであぶり焼きした味付けホルモンと混ぜ合わせて、焼うどん。トッピング〔つけ合せ)にカニカマとワカメ。麺面が見えないほどたっぷりと乗せ、ほんの少々ダシ醤油をたらし、しっかりと混ぜ合わせて、♪いただきまーす♪ 思っていた以上に、いや、思いがけずに、美味。ホルモンはコリコリ。歯無しのぼくであっても、これが堪らない食感なのだ。・・・あ、写真撮り忘れた! って、あまり美しくはありません。
○フランス生活回顧エッセイ
 あるFBFがフランスパン、(パン・ド・)カンパーニュについての記事をアップしておられた。さる有名どころのパン屋では行列を覚悟して買わなければならないとか。その記事を拝読しているうちに、かつて何度かの経験があるパリ生活のことを思い起こした。
 焼きたてのバゲットほどおいしいパンはない、と僕は思う。パン屋が店を開くか開かないかのうちにお目当てのパン屋にできている行列に加わり、バゲット数本を手に入れ、一本は宿・アパートに帰る途中で食べてしまう。帰り着いたら、スープ作りに着手。たいていがラパン・ガラで作る。トマトやジャガイモやニンジンやらを乱切りにして投げ込み、塩コショウで味付け。仕上げに白ワインを注ぐ。これに買ってきたバケットで、朝食となる。
 ある日、直径が30センチほどの大きな丸いパンの塊が目に付き、あれは何だろう、どうやって食べるのだろうか、気になった。手書き風の文字で書かれたパンの名前はpain de campagneとある。「田舎パン?変な名前。パリっ子が田舎という名に飛びつくのかなあ。」なんて、言ってみれば知った風な考えを持った。その時は買わなかった。わけわかんないものに手を出すと、大変困る事態になりかねないから、食料品には慎重だ。
 その週の日曜日、バスチーユにつながるリシャール・ルノアール大通りで開かれている朝市で、フランス人知人に訊ねた。彼はこのような説明をしてくれた。
「パリっ子の大勢はパリに生まれたのではなく、パリで働くために移住してきた人たちです。そういう人たちにとって、「田舎」はとっても懐かしく、かぐわしいところです。彼らのそういう「田舎を懐かしむ」思いから生まれたのが「田舎パン」。パリの近郊(田舎)で作られていることから、この名前が付けられましたが、郷愁を誘うのですね。そして、同郷の人たちが大勢集まって、同郷のスープを作り、「田舎パン」を分け合って食べるのです。大きな形で保存がきくことも、「田舎パン」の特徴です。」
 なるほどなるほど。それを聞いて、ぼくも「日本」という「田舎」を偲びたくなると、「田舎パン」を買い求め、「ラパンスープ」とともにいただいたのでした。「田舎パン」は素材が素朴というか、小麦も上質のものではないし、ライ麦などを混ぜているから、そのままかじっておいしいというものではない。けれども、懐かしい郷愁を覚えるのは、まさに名前の通りなのであった。
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診察日

2016年01月27日 | 日記
○起床6時半。ほとんど熟睡できず、幾度もトイレに起きる。冷え込みが厳しかったゆえか、神経過剰である故か。起床時室内温度5度。
○10時から採血。11時30分から診察。行きのタクシーの手配を、今日はぼくがやる。初めて。
○診察を終えて、バカエッセイ。
 今日は6週間ぶりの診察。前回お前はデブだという診察結果を冷酷な声で伝えられ、今回の今日は、再度血液検査によって、お前はやる気があるのかと、叱咤罵倒の診察場面が予想されたので、昨夜は緊張のあまりよく眠れなかった。
 採血をし、それから血液検査に1時間要し、そして恐怖の問診となる予定だったが、問診時間が遅れに遅れて、ついに、弱々しい声で、「あのぉ、川口ですが診察まであとどのぐらいかかるのでしょうか、もう緊張の糸が切れそうなので…。」「ちょっと時間かかってるわねぇ、川口さんより30分前予約の方が今始まったばかりよ。緊張の糸切れておもらしちゃ大変だから、おトイレ、行ってらっしゃい。」 看護師さんの方が上手でした。
 上記のシーンからさらに30分余り待って、ドクターのお声がかりました。
「血液、いいよ。とてもよくなっている。血圧もいいね。その調子でいきましょう。…で、次回は6週間後の3月9日。お薬は変わりません。はい、ご苦労さん。」
 お医者様はにこやかに応対して下さいましたが、本当は患者など信用してない。その証拠に、「次回は検査はないが、次々回はちゃんと血液検査をするよ」というお告げが背中越しに聞こえた…。
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終日、再校ゲラ点検 買い出し

2016年01月26日 | 日記
○起床6時半。起床時室温6度。夜中の目覚め2度。ただし、昨夜は熟睡できず。
○今朝の血圧は、ぼくにしてはやや低めだが、正常値。
○資源ゴミ出し。以下、関連エッセイ。
○我が家の前を通る坂道を、毎朝、ほぼ定時に、往復散歩なさる、ぼくよりはるかにお年を召した高齢者がいらっしゃる。今どきはニット帽、ダウンジャケット、そしてスティックで防具。軽い会釈は交わしてきたが、声を掛け合うことはなかった。
 今朝は資源ゴミの日なので、缶、ペットボトル、紙類の袋を両手に抱え、ぶら下げ持ち、ゴミステーションまで運んでいる時に、くだんの方を追い抜くことになった。私の口から「おはようございます。」と言葉がすり抜けて出た。後ろから「おはようさん」の声が届いた。
 ゴミステーションで資源ゴミを仕分けてそれぞれのゴミ袋に収めていると、くだんの方が、お声をかけてきた。
 「今日は杖ついてないね!」
 そう言われて初めて、あれぇ、杖ついてなかったんだ。両手にもの抱えれば杖はつけないよなぁ。歩き始めに、ちょっとビッコを引く程度で痛みも感じなかったから、自然に杖無しを体が選んだんだなあ。
 「あんた、いくつ?」
 「73になります。」
 「まだまだだ、頑張って!」
 「ハイ。ありがとうございます。」
 外気はすごく冷え込んでいるけれど、ぼくの体が春は近いんだと告げた今朝でした。

○明日は脳神経外科診察。眼科は無し。血液検査がある。中性脂肪値が高い。要するに太りすぎ。ちょびっとだけ体重は減ったが、数値に変化は出ないだろう。また、ご注意を厳しくいただくことになる。(;´д`)トホホ。
○N君から卒論が送られてきた。わざわざタイピング・打出までしてくれてある。読んで感想などをということだ。卒論を始め「論文」を読まなくなって久しいゆえ、確かな読み方ができるかどうか自信がないが、誠意を持って拝読したい。

○買い物散歩エッセイ
 空気は冷たいが晴れ渡ったいい天気だ。こういう時こそ、現在の身体能力がどのぐらいなものか、実感的に確かめてみたいと思う。片道徒歩20分ほどの距離の駅前のスーパーへ。歩いて行って店内をぐるぐる回って歩いて帰ると、1時間強は休み無しで歩くのだから、それなりの運動量にはなる。
 今日の身体の調子なら無杖で行けるだろう。が、念のために介護杖を持ち、ひっくり返って頭を打ってもダメージが少ないように帽子をかぶり、怪我予防のために嫌いな手袋を差し、背には買い物の荷を入れるためのリュックを背負う。リュックはドライバーに目立つように、派手な黄色。
 いや~快調快調。走ることは全く不能だが、ビッコも小さく、脚を動かすのにつらさは感じない。自宅からスーパーまで「なだらかななだらかな下り傾斜道」が、体を軽くしてくれているのだろう。
 今日のお昼からしばらく孤食になるので、そのための食材と、多少のおやつなどを買い、リュックに詰めて、さあ、帰宅。ここまでで、「おれ、もう、ほぼ健康体だもんね。」なんて、内言をしたものだ。
 帰り道は、来た道を逆走するのだから、「なだらかななだらかな上り傾斜道」。なんてことはない、なんてない。まるで、登山リュックを背負って丘陵に登るという実感。ビッコも引かない、杖も不要。だけれど、もうすぐ喘ぎだすのではないか、と思うような体の重さで、帰宅道を歩く。
 でも、去年の今頃は、こんなに軽くはなかったなあ、と思いながら、リハビリの意味を思い知ることができた買い物散歩でした。明日からも、歩きます。

○パリ生活エッセイ タイトルにリンク張っています。
 バーゲンと乞食
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粋生倶楽部増尾通所リハビリ 低い血圧に驚いた

2016年01月25日 | 日記
○6時半起床。夜中の目覚め3度。目覚め時の室温6度。グンと冷え込んでいます。左脚ふくらはぎが起床時に攣り、猛烈ないたさ。うんうんうなりながらなんとか手をとどかせてさする。カチンカチンだ。以前の弱々しい痛さなんかうそのよう。
○午前中、粋生倶楽部増尾通所リハビリ。日常には見たことの無い低数値の血圧に驚かされた午前中。いずれも高い方の数値。出発時107。終盤で軽い目眩に見舞われたので測定したら97.ウソとばかり計り直したら95。結局身体を温めるあったか姫のお世話になり終了後104。一体どうなってるんスかね。今測ったら(昼食後の自宅)、120。健康的な数値ではあるがぼくとしては低め。一体何があったのでしょう。
 通所リハビリでは、月曜日の今日からコーヒー淹れリハビリはなし。何人かのご婦人から、遠慮がちに、今日はないの?と問われ、すみません、豆を切らしているのと、ぼくの右腕の調子がよろしくないので、しばらくお休みを下さい、とお詫び申し上げた。ありがたい方々だと思いつつ、スタッフの本務以外の負担になるようなことはなるべく避けるべきだという思いは、変わらない。
 歩行練習から始めたが、これで息切れ状態。脚の運動は脚もみ、自転車、踏み台踏み。所長さんからシモヤケのケアをしていただく(お湯、冷水に交互につける。そしてハンドクリーム)。足首マッサージ、あったか姫、全身マッサージ.このあと、ストレッチボードだったか、途中で軽い目眩を覚え中断。気分が悪いとか、そういう具合の悪さはなかったが、朝から気の入らないことを感じていた。
○セガンの1843年論文の翻訳書出版予告がなされていた。下記ウエブ・リンク。
 初稿 知的障害教育論~白痴の衛生と教育
 ただし、大切な書名に誤りがあるので、今日、メールで出版社あてに訂正を指示。
○再校が出てきた。ただし、ネットで閲覧となる。紙媒体は明後日になる模様。
○28日午前10時、南柏ドトールにて、幻戯書房社長と落ち合う。セガン、再校ゲラ渡しその他。
○実に久しぶりにコンちゃんと電話で話をした。明るい声にホッとする。
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左下半身がしびれ痛い。

2016年01月24日 | 日記
○7時45分起床。昨夜は午後8時に布団にもぐったからおよそ12時間、布団の中にいたことになる。痛み痺れだるさその他が潮の満ち引きのように押し寄せてくる〔強くはない〕ので、熟睡したというわけにはいかないのだが。
○昨日、コンちゃんからメール。スマホを水につけてしまったが、ぼくへのメーアドはこれでいいか、とのことだが、これでいいのです。お母様の介護のこと、本人が無気力だから困っている、と介護者の悩みそのものを綴っておられる。ぼくは何とも申し上げられない、頑張れとも。ただ、ぼく自身も、もういいよ、頑張るの止めよう、と思う気持ちがたびたびあるから、お母様のご様子が全く理解できないわけではない。「生かされる命」などというつもりはない、「生きる命」に自然体で向き合うことができないのが、悔しいかな、凡俗のぼくなのだ。
○昨日の所長さんのお話では、ぼくのブログをご覧になったり、facebookでの発言をお読みになって、通所リハビリを決めた方がいらっしゃるとのこと。「リハビリを自然体で」受け止めていきましょう、というのがぼくの発言趣旨なのだが、その「自然体」に向き合ってくださる施設があればこそのこと。介護保険制度の「改悪」の中、明日のわが身はどうなるのか、という不安感も強くある、多くの方に。
○昨日のコンちゃんからのメールであと一点。大事なこと。埼玉全生研の大畑佳司先生がご逝去なされたそうだ。いろんな教育関係でたびたびご一緒した方。ご冥福をお祈りします。明日月曜日がお通夜だそうだ。
○バカエッセイ
 私に出されるS先生の「指導語」は、私にとってはS先生から下される「指示・命令」に聞こえた。S先生からすれば自分に忠実であるはずだ、という思いで、私を見ているからこそ、いろいろと「指示・命令」下されるのだろう。私がそんなこと(この世で著名で実力者として認められているお方の忠実なしもべであること)に生きがいを見出すような人間ではない、ということをお分かりになっていない、と思う。
 「指示・命令」はそれはそれは多岐にわたりますが、ほんの数例をー
1.「ほら、三色ペンを用意して人の話を聞き、テキストを読みなさい。共感するところは赤線、疑問の所は青線、反論のあるところは黒線、をテキストに引きなさい。」
 私「普段から本に線を引いたり書き込みはしません。親の言いつけで本は汚してはいけないという生活習慣です。三色ペン云々は私にとっては意味のない行為です。斎藤何チャラという売れっ子さんに任せればよろしいかと。」
2.「君は疑問があるというけれど、このことはセガンがそう言っているのだからそうなのだよ。」
 私「およそ科学者とは思えないお考えだと思いますが。先生は教条主義者だったのですか?それはともかく、それを実証する資料など存在するのですか?」
いろいろ…
○ぼくはS先生などとは違い、対社会的な肩書として「学習院大学名誉教授」を使うことはほんどない。今回出版の訳書ではさすがにそうもいかないだろうと思い使ってはいるが、この肩書の意味しているところは「学習院大学の名誉を傷つけないようにしなさい」という学習院大学からのご下命だと思っている程度だ。その証拠に、名誉教授証が薄っぺらい、顔写真入りの紙切れをプラスチックで挟み込んだだけの、じつに安っぽいもの。他大学のを見せてもらったことがあるがそれはそれは立派なものであり、うちがいかに名誉教授の処遇を薄くしているかがわかるのだ。
○だから、以下のような地域文集に寄せた拙文の署名肩書に、「元学習院大学教授」というのも出さなければ、当然名誉教授称号もつけない。ぼくの「肩書」が何らかのあてにされていることはよくわかるのだが、この肩書で何かをするわけではないから、ぼくは居住者であることの肩書で通し切る。ぼくはS先生のようには、人寄せパンダにはなりえない、なりたくないのだから。分相応で生きていきます。
○ファイルにて印刷屋に原稿を送れ、という指示をいただいたが、その送付先の連絡は携帯の番号と固定電話番号。電話で送付先を尋ねようとしたら留守電。考えに考えて、どの携帯会社間であってもショートメールが可能だ、という情報を耳にしたことを思い出し、ショートメールで連絡を入れた。ちゃんと、連絡が取れた!原稿無事送付。


○次の一文を「文集」に投稿。求められることと違うだろうなあ。
「戦後七〇年」を機にして真に手にしたいもの
*****在住 川口幸宏
 私が生まれ育ったところには帝国陸軍の軍事基地があった。そこから派兵される軍隊がかの南京大虐殺と無関係ではなかった。そのあとフィリッピン戦線に転戦し、ほぼ全滅状態だった。私の父も戦死。わが母は「靖国の家」の印を玄関柱に長い年月表示し続けた。母が亡くなって初めて、我が家を、「大日本帝国」の幻影から解放することができた。つい数年前のことだ。
 戦後を母子家庭で生きてきたが、もともとの居住民ではなかったために、母子家庭―欠損家族とも呼ばれた―に喜んで住居を貸すところとて少なく、やむを得ず住んだのは、戦前の軍人相手の売春地域内のボロ長屋。元軍隊の練兵場のすぐ端。警察予備隊→保安隊→自衛隊という準軍隊が駐留し、地域に「活性化」が生まれ始めた。一つは元売春地域の「復活」であり、練兵場(演習場〕における準軍事訓練である。
 こういう生活地域には、さまざまな階層の住民が住み着く。とはいえ、決して中上層の住民はいない。貧民階層が主力だったと言ってよい。彼らが互いに手を携えて生きていたと言えばだれが喜ぶのだろうか。当時、学校教育についていけないほどの知的能力しかもっていなかった私であっても、「エタ(エッタ)」「チャンコロ」「チョン(チョーセンジン)」「ドンビャクショウ」「コサク」「クルクルパー」「チンバ」「メクラ」「ツンボ」などという言葉を蔑称として、その時々でしかない遊び相手、時には顔見知りの大人に投げつけていたほどだ。それをとがめる大人とて誰一人いない。わが母もそうだった。それどころか、「そんな者と遊んだらあかん」と禁止令さえ出た。
 「朝鮮戦争」の前夜当たりから色街に通う屈強な男性たちから、えも言えぬ緊張感を覚えた。子どもたちによるちょっとしたハヤシ言葉を耳にすると、思いっきり頬を殴りに来る輩もいた。その時は何が何だかわからないまま泣き続けたが、やがてプロペラ機が、夜の夜中、轟音を上げて、住宅の屋根スレレに飛び立つようになった。貧相なつくりの我が家など、そのために、屋根裏に住み着いていた青大将が畳の上に落ちてくることもあれば、屋根のトタンがめくれて雨が降ったらさあ大変!という事態にもなった。けれども、大人たちは「戦争がはじまるんやねえ。」とぼやくだけでしかなかった。
 -私の少年期の一幕を綴った。ただ、同じようなことは、沖縄を典型として、日本全土で、現在も繰り広げられている。命の輝きを奪われている日本住民が無数にいる。「平和憲法があるから日本は戦争をしないできた」とよく言われるが、対外戦争という言葉に置き換えれば確かにそうだが・・・。「軍事」と「差別選別」の社会現象の植民地下日本であることは間違いあるまい。真に憲法を輝かせるための戦いこそ、鮮烈に、いまこそ!
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通所リハビリ

2016年01月23日 | 日記
○6時10分起床。夜中の目覚め2回。グンと冷え込んでいる朝。
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ。、
 今日から、スタッフさんの負担を考えコーヒー淹れをリハビリに組み込むことを中止することになった。所長さんはぼくの判断でどうぞということ。少し長い話し合いになった所長さんとの会話。お互いが前向きに考えて行動していることを確認できたので、とてもよかったと思う。歩行練習。かなり脚の筋肉が硬くなり、足首の可動性も鈍っている。外でのリハビリを頑張らねば。自転車漕ぎ、あったか姫、足首マッサージ、全身マッサージ。などなど。なんだか、とても久しぶりの気がするが、たんにぼくが手抜きをしてきた、ということだろう。いけませんね。
○4月から制度として通所することができるかどうか不明故、せめて、自分ではできない全身マッサージだけでもと、意識して情報を得ようとした。
○今日のお昼はカレーうどん。細君が作り置きしてくれたぐがごろっとたくさん。うどんは無塩乾麺。ツユも取ったけど、おいしくない!乾麺うどん、もう少しおいしいの無いかなあ。せっかくのおいしいカレーが死んでしまう。


○研究生活の中で生き続けた私にとって忘れがたいモノ・コトが数多くある。今日はその語りを―
 2005年の秋口、パリのある古書店から目録が届けられた。当時は、1871年のパリ・コミューン関係の当事史料を漁っていたこともあり、ここの古書店はたいそうありがたい存在であった。しかも、私がパリで過ごす時の宿所からさほど遠くはない。11月末には渡仏する計画を立てていたので、その目録から希望図書を探し出し、取り置きを頼もうと心づもりを持った。
 目録には希望古書が何点かあったが、この日、目についたのは、イタールの「アヴェロンの野生児」教育実験報告書(1801年、初版)。邦訳は出ていることだしわざわざ原書を買う必要もあるまいと思ったが、念のためにと、専門家のK先生に電話を入れた。「それは買いましょう。日本の宝物になるような稀覯本です。すぐ入手しなさい。」
 ここでしっかり確かめておけばよかったのだが、そこがぼくの人間の甘さ、K先生がお買いになる意思を持っているものと思い、古書店に注文。幸いなことに、ぼくを信頼して取り置きしておく、との返事。
 11月のある日、古書店主と1年ぶりの再会である。店主はさっそく仕舞い込んであった書箱から、「アヴェロンの野生児」教育実験報告書を取り出した。出版社と著者との契約の証である直筆サイン入り。高い額面を知らされていたのでカード決済を願い出た。店主は「日本には桐の箱にしまって稀覯本を保存するという知恵と技とがあるそうね。そうした方がいいわよ。」と、手渡してくれた。
 帰国してさっそくK先生に連絡。たいそう喜ばれ、すぐ手に取りたいとおっしゃる。押っ取り刀で駆け付け、領収書を添えてお渡しした。・・・ところが、「ぼくはこんな高いモノ買いませんよ。第一フランス語なぞ読めませんから。」  絶句、という言葉はこういう時のためにあるのだなあ、と痛切な思いをいたものである。
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久しぶりの外出

2016年01月22日 | 日記
○6時半起床 夜中の目覚め1回
○郵便局へ。好天故身も心も軽く。ほぼ杖無しで。歩幅を大きくすることができるので歩行スピードも思いのほか出ていた。春が近いことを脚は知っている。
○屋内で歩行訓練。大股で歩く。ゴム紐で歩行訓練。脚上げに気を配る。持続的な体力がまだまだない。この力はゆっくりでいい長時間「お散歩」で培われるのだろう。もう少し暖かくなれば。
○夕刻弘美君たちの飲むコーヒーをミルで挽く。挽きながら考えていたこと。こうやって家庭でやるのなら通所施設でする必要もないか、と。そろそろ引き上げ時かな。あっちは事業拡張で手が回らない状況のようだし。弘美君から「もうすこし粗くてもいいんじゃない?」と注文が出された。注文に従ってみたが、さあ、味と香りはどう出るか。

○ショート・エッセイ
 人間社会で育てられずオオカミの群れの中で育った人の話は幾多とある。その人はオオカミの習性しか持たない。現在では作り話だと判断されているが(写真も捏造)、わが国の学校教育の社会科などでも教えられたことのある「狼少女」に例を見る。この子どもが人間社会に拾い戻され育てられたとしても、人間的な文明文化を身に着けるのが困難であり、長寿は保てない、という定説にもなっている。言ってみれば、人間が人間たるとはどういうことか、という興味尽きない探究課題としてあり続けている。
 では、人間社会に生まれたけれど人間社会から捨てられひとりで生き延びてきた人は、どうなんだ?ルソーに言わせれば、人間を悪しくしてしまう文明とは縁の遠い「良き野生 le bon sauvage」(「社会契約論」より)であり、それこそが求める人間形成の原点だ、ということになるのだろうが、それはあくまでも「良き市民形成」のためのバイブル『エミール』の前提であり、実際に、そういうような「野生人」がいるのか?
 18世紀も末のこと、南フランスのスペインとの県境で「発見」された「アヴェロンの野生児」こそそうだ、とフランスをはじめヨーロッパを騒がせた。実体は捨て子の浮浪児で、物乞いや空き巣狙いで飢えをしのいでいた少年なのだが、衣服はほとんど身に着けていない、どうやら口もきけない、生食もいとわないという生活習性があり、こいつを捕まえて見世物小屋に売りとばして大もうけをしようとたくらむ輩-国際見本市に「出品」する「人間動物園」的発想の者たち―がいる中で、当時のフランス政府の内務大臣が人間観察家協会によってああだこうだと観察せよと命じ、とりあえずの身柄をパリ聾唖学校に預け「人間観察」が開始された―。
 人間観察家協会での監察結果の主要な柱は、この少年は終生治ることのないイディオ(白痴病者)であり、社会から隔離収容すべきであるという改革派精神医学者フィリップ・ピネルの意見に代表される。しかし、最下級軍医の身であり外科の心得が少しあるジャン=マルク=ガスパル・イタール青年(当時25歳)が、「その野生児は単に人間社会の文化・文明に馴染む生活をしてこなかっただけであり、教育をすれば普通の子どもになるのではないか。」と考え、その教育の役割を自身が努めたいと、パリ聾唖学校医に職を得、教育実験を始めた―
○このことを題材にして文学創作を試みた作品(未完成) リンクを張っておきます。
 奇跡の生命-その1 物語の始まり
○添付した写真は1801年に出版されたイタールによる教育的観察記録書。その初版本。よくご覧になれば気が付きますが、著者名はE. M. Itard であり、Jean-Marc-Gaspal Itardではありません。筆名なのですが、どういう意味を示しているのか、たいそう興味がありますが、まだわかりません。「アヴェロンの野生児」記録書2冊のみに使われた筆名です。
 なお、私が研究を進めてきているセガンのお師匠さんだと、セガンは言っています。そして「私は師匠の誤りを正して、白痴教育を可能にした」と。
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