ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

大田堯先生の訃報に接して

2018年12月29日 | 研究余話
 私は赤門閥でもないし教科研メンバーでもない。旧日教組第2次教育制度委員会の専門調査委員として末席を汚しはしたが、それは日本生活教育連盟の人脈がらみから席に着かせていただいただけにしかすぎない。
 ただ、先生のご意思はどうかは問わず一人語りを許されれば、制度史や運動史・偉人史の研究環境に埋もれていた私にとって、先生と中内敏夫氏とが表看板である「民間教育史(料)研究」との出会いは、私の研究者入門期の生活綴方教育史研究、ここ20年ほどのパリ・コミューン研究、セガン研究の方法論的な大黒柱を形作ってくれている。
 大田先生から「こっちへおいで」とお誘いいただいたことがなく、勝手に押し掛けた者にしかすぎないが、深い哀悼の意を表することは許されるだろう。
 合掌!

「いまさらセガン」話題 使用テクストの問題

2018年12月23日 | 研究余話

 セガンの最晩年の著書に『教育に関する報告(Report on education)』がある。初版1875年、第2版1880年。
 初版を使ってセガン研究をするのは私だけ。他の方々は第2版を使用している。で、日本のセガン研究者に「どうして初版を史料としてお使いにならないのですか?」と訊ねたら、第2版は増補版であり、そこにセガンの真意があるから、と大著『セガン 知的障害教育・福祉の源流』(総頁数1500!!)編著なさっている清水寛埼玉大学名誉教授氏がお答えくださった。
 で、氏らがセガン著述に使っている諸個所は初版記述と同じ個所。この限りでは第2版でなくてもよいはずだ。初版版と第2版版との比較クリティーク叙述はない。
 私は、真実、出来損ないの歴史学習者であったし、その劣等意識を相当強く持っている。だからこそなのか、自らの文に引用するときは、可能な限り初出史料を使用せよ、という教えが頭から離れない。この意味をここで改めて綴る必要はないだろう。
 初版本の入手には結構苦労した。伺いそびれたことなのだが、先行する偉大なセガン研究者たちは初版本は入手しておられるのだろうか?

セガンの白痴教育への執念は「変質狂」とみなされていた

2018年12月13日 | 研究余話
セガン、1846年著書より
「たとえ私が献身という名の偏執狂とみなされようとも、私は我が不幸な生徒たちを救うために思いやりの愛徳を訴え続けた。家族と共にいる白痴も、そうじゃない白痴も、よりよくなるなるために必要なことがすべて欠けている。金持ちは白痴の子どもを閉じ込め、子どもは望むことがすべてかなえれる。貧乏人は白痴の子どもを奪われ(川口注記:「1838年6月30日法(精神病者保護法)」に基づき、救済院・精神病院に強制収容されたこと)、子どもは改善の機会がないままにして置かれる。すべてはまがいものの生活を生きているので、白痴の子どもたちにとって、社会の、産業の、生き生きとした原動力、すなわち人間の伝達手段を理解するために決して有用なものとはなっていないのだ。衛生状態がすでに整ったような世話や教育の恩沢を彼らが受けとることができる所に欠けている。ほとんどすべてが白痴すなわち孤立状態ではなくなる可能性がある。そう、白痴たちは、社会の中にあって、孤立させられているのだ。たとえ、彼らのために、彼らの劣った状態に応じて為しもたらしたものが、彼らの欲求を満たし、恵まれて長寿を確実にするとしても、だ。ベルギーで、プロイセンで、スイスで、私の方法が適用されている。かように、多くの人が、地方色に応じて、白痴症の分野において戦いを果敢に進めている。フランスでは、白痴への愛顧は何も試みられてこなかった。私に関してはと言えば、白痴症の人びとに対して、ずっとひとりで、献身し続けてきたのだ。」

セガン生育史論(2) 過日の講演会ばなし

2018年12月12日 | 研究余話
【過日の講演会ばなし】

 主催者自身による名物AI連続講演(今回は「問題解決」の構造)から始まり、次に5歳のお嬢さんのカンボジア紀行話(形式は作文発表)、続いて私、最後が地域医療の立場(大学医療センター)から2050年問題。私の歴史話は、やはり、異例である。
 さて、私のこと。お嬢さんの、堂々とした「発表」スタイルは、何度も練習を重ねてこられたなあ、と感じさせられ、5歳か、5歳…俺の5歳はどうだったか?あれ、記憶に全くないぞ、人生最初の実感的記憶は小学校2年生の時、絵を教えていた先生に、思いっきりほっぺたをぶん殴られたことだ。そのほか、記憶の様なものは、伝え聞きによるイメージ形成。
 私の「講演」の順。話のツールとして自著などをテーブルに置き、PPをセッティングしていただいている間に、用意した原稿の導入部分をすっかり、頭の中で書き換えた。

 「私の5歳」とセガン研究との接点。発達未熟ゆえの無能力(身内からもご近所からも言われた「オシでツンボでイザリのアホ」時代を生きた、その意味をセガン研究で知ったこと。

 あとは野となれ山となれ~ な、講演でした。

セガン生育史論(1)

2018年12月11日 | 研究余話
 研究的な伝記を綴る時に悩まされるのは、生育環境をどう描くか、ということ。

 セガンの場合、「生育史を研究的に綴ることは大切だ」と述べておられるT博士が綴るセガン生育史は、家柄が良く、両親がリベラルな思想の持ち主で、ルソーの自然主義思想にのっとって我が子を育てた、母親は敬けんなクリスチャンだった、と、セガンがパリに上るまでのことを、このように綴っている。我が国のセガン研究者は、おおよそこのような立場である。M市などは「両親の愛情に包まれた幸せなよう幼年期を過ごした」という。
 ひょっとして、このような生育史の実態はなかったとしたら?という問いもなされていない。研究的であるのなら、客観的に論証しうる史料の提示があるべきだが、それはない。

明後日の講演「「第二の誕生」を訊ねて」の準備

2018年12月07日 | 研究余話
 明後日の講演準備。19世紀半ばのフランス・パリで生きた人間の、人生旅立ち準備の話。聞き手はどのような人たちなのか、まったく見当が付かない。お一人だけ、知的障害者施設の管理運営責任者がご参加になるらしいという情報はあるが、ぼくはその分野の専門家では無いから、ご期待には添えないはずだ。

 支援者さんのアドバイスを受け入れ、今のぼくの能力ではほとんど読み上げることしか出来ない講演原稿に、息継ぎの区切り線を入れ、ある程度の空間を想定して、声出し訓練。だいぶんと、現役時代の発声感覚を思い出しているが、まだまだ。あと1日半あるので、発声・発話訓練にいそしみましょう。

 講演資料として、質問が出されることを前提に、現行パリ区割り地図とセガン初の知的障害教育論の邦訳書を揃えた。

 

ついて回る「汚点」はぬぐ得ないなあ、心に居座ってる

2018年12月05日 | 研究余話
 12月9日に松戸でSH情報研究所主催の講演会で、50分、講演をする。セガンの青年期を論じる。ぼくの研究者としての最後の「舞台」だろう。さほど力が入っているわけではないが、その準備過程にある今、さまざまな「光景」がぼくの脳内を駆け巡る。その「光景」とは、ぼく自身の「能力」を厳しく問われている場面だ。
 学生時代、某出版社の編集部長氏に人格・力量を認められ、氏が執筆中の日本文法論への参画を強く要請された。氏が書き綴っている続きを書いてほしい、という依頼。依頼を受けた当初はあれこれの文献を漁り、氏が言わんとしている「日本文法論」の大意を掴み、綴り始めた。が、怠けに怠けて遊びに夢中になる学生でもあるという片面がぼくの意欲などを覆い尽くし、依頼書物の続きを綴ることはほとんどしなくなった。半年後、氏に呼ばれ、「人の人生をかけている問題をこれほど軽く扱うあなたという人の存在を許すことが出来ない。」ときつく叱責され、以降のご自宅への訪問の脚を禁じられた。「この愚は、今後、絶対に犯さない。」と自分に固く誓った。それが、ずっと後年、清水寛氏への助力となっていたのだが・・・。
 学生時代のぼくの学びの姿勢を知り尽くしているのは、入学同期生たち。とりわけ語学では、学ぶ意欲さえ見せなかったし、それ故、彼らは、「実力」を十分に理解している。毎年行われる「クラス会」にはほとんど出席してこなかったのは、こうした「馬鹿」さを知られていることを話題にされるのがつらかったからだ。だが、セガン研究書の大詰めを迎えたとき、一応おれも頑張ってんだ、と報告できるかと思い、出席した。近況報告でこの旨を語った。即反応が出た。「英語やドイツ語でさえ出来なかったのに、フランス語?信じられないね、ウソでしょ。」厳しい、嫌われていたことがこういう時に判明する。教育界に生きている者たちは出版情報に接しているから、ぼくが知的障害教育史に関わる著書を出すらしい、ということはすでに知っていたので、仲立ちをしてくれる人もいたが、座はしらけきっていたな。その数ヶ月後、でかでかと新聞広告に2010年著書の宣伝が載った。次の年の年賀状に「おまえの書いたものなど、買わない。信頼できないから。」
 一度失った信頼は、取り戻せませんね。ですが、自身に対する信頼は、かすかにでも持ち続けないといけない、と、思う次第。

セガンにとって、1830年革命とは何であったのか。話題提供準備中。

2018年12月04日 | 研究余話
 エデュアール・セガンを材料にして、青年期の自立問題「第二の誕生」の話を、近々することになっている。

 その一つの「舞台」が、フランス、1830年7月革命。添付写真は、ドラクロアの「民衆を導く自由の女神」油彩画、あと一つはバスティー広場に高々とそびえる「7月の円柱」。
 前者の絵画には、この革命が、フランス史で初めて、あらゆる階層からの革命参加がみられたことが象徴されて描かれているし、後者には、この革命成功に功労あった戦死者名が綴られている。




 セガンは国王から功労賞を受けるほどの積極的な革命参加であった。それは、セガンの生育史にとって、どのような意味があったのだろうか?
 セガン研究史で全く取り上げられることの無かった7月革命への参加を、私は、著書(2010年上梓)で初めて指摘した。そこにはセガンが勇猛果敢に戦った証がある、と触れただけで、消化不良のまま。その後どなたも検証なさっていない。
 で、今回の機会で、セガンの生育史にとってどのような意味があるのか、について触れてみようと思う次第。

 受けるわけないけど、語っておきたいと、目下、準備の最終作業中。

文意理解できないバカがいる。しかも国語教育専門家

2018年12月01日 | 研究余話
 以下が私のWEBでの投書記事。

「セガンって人、「無償教育」の主張者であり実践者だったんだよ。白痴を養い、白痴のための学校を創設したんだねぇ、当然月謝なんか取らなかったんだよ。そのために、セガンは、身銭を切ったそうだ。立派な人でしょ。」  
 清水寛氏によって、ぼくに最初にインプットされた「セガン」偽情報。
 「無償教育」という言葉はセガンが書いた英語論文(1866年)の中に出てくるfree educationの訳語。教育の専門用語で、「自由な教育」と訳語をあてると、普通は、激しく怒られる。
 セガンの母語はフランス語だから、フランス語文献(セガン著)を漁っていると、une éducation libéraleという言葉が強く主張されている。これは「自由な教育」という日本語になる。「無償教育」というフランス語はこれとはまったく異なる。 
 ぼくの先行研究批判は、この言葉の検討から始まったと言える。
フランス時代を振り返って書いている英語文献の理解が「無償教育」。でも、セガンのフランス時代の文献にはそのような主張は一切無い。
セガンが白痴教育を開拓した時代には、未だ「無償教育」なる教育思想もきわめて未熟だし、当然制度もない。そう考えると、やはりセガンは「自由な教育」を主張したとしか考えられない。その言葉は、「管理・体罰・記憶・暗記主義」という時代風潮に強く反発したことから生みだされた言葉であり、教育の実際だった、ということ。」

 これに対する国語教育関連研究団体の会長氏の感想。

「本当の教育者なのですね。生活をどうしたかが心配になってしまいます。教育に本当に金がかかります。本代が…」

 ご自身の「一読総合法」がこんな感想を導き出しているのだとしたら、…???


思い出:フランス・パリ生活、初めのいーーっ歩。「ブザーが鳴る!」

2018年12月01日 | 研究余話

 フランス・パリ11区の住まいと定めたところは家族用集合住宅。鍵もしくは暗号で大扉を開けると管理人室があり、各戸ごとの郵便受けがある。そこを通り過ぎて鍵もしくは暗号で中扉を開け、ぼくが住まいと定めた6階へとエレベータが運んでくれる。そして廊下を進んでわが居住空間の扉を鍵で開ける。
 来客など期待もしないし実際にありもしないぼくにとって、外から誰かがぼくの内意を得ないで訪問するということなど、考えもしないから、先に書いた入室手順を訪問者に当てはめて考えるはずはない。ぼくにとっては極めて容易な「道順」だ。

 ・・・「事」はこの「隙」を狙ってやってきた。
 ある日、突然、けたたましい音量でブザーが鳴った。予期せぬ出来事にパニック状態に、2人の猫とぼくは、部屋中をうろたえまわる。ブザーが鳴り終わりほっとしたが、すぐさまけたたましいブザー音。音源はどこじゃ?玄関ドア横についている受話器がブザー音との対応ツールらしいとは思うけれど、取扱説明書など頭の中にもない故(インターホン生活経験ゼロってこと)、さらにオロオロ。ブザー音が切れたり鳴り響いたりし続ける。
 この受話器を取ればうるさい音はなくなるのか?取り上げた受話器の向こうから人間の声※☆△★。ハハーン、これがインタホーンの端末かいな、とは思うけれど、人間の声に、人間の声で応答すること、不能。
 やがて、向こうから、ワン、ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックスという多少は聞き分けられる英語数字が出てきた。ああ、お前んとこは何階だ?という問いだった。シックスと応えて受話器を置いた。またもやブザー。受話器の置き方で中扉の鍵が開けられるようになっているとのこと。日本から大きな荷物があるので、お前のところに運ぶから、少し待ってろ、と。郵便屋さんだった。

 小包を受け取り、郵便屋さんを見送ったが、その時彼は、「フランス語が理解できないのにフランスで生活しているのか、いい度胸だ。」と、流ちょうな英語を残して去っていった。・・・・

 アパート6階からの窓外の眺め  無機質です。