ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

診察日

2017年09月06日 | 日記
○5時50分起床、起床時室温24℃。
71.2
120 69 48
○お出かけ前のショート・・・
雨の日の診察。心も陰鬱。
今日は、採血、レントゲン、心電図の後でそれらの結果を受けて、脳神経外科の診察。
それが終わると眼科。白内障の進行状況の診察と、なにやらややこしい名前の不治の眼病の進行状況の診察。
オレって、こんな診察のためにだけ、生きているって訳?と、つくづく思ってしまう朝。
○9時~14時 脳神経外科及び眼科診察
*血圧が異常に高い。朝の測定では正常なのだけどな。「様子を見ましょう。きちんと記録を取って次回持参すること、運動をしましょう」とのご指導。
*眼科は変化無し。
*次回、10月4日
○今日のお昼はメガランチ。もちろん、今夜から、いつも通りの節制食事。

○「ルソーはとても人見知りをし、その一方で非常に奇行癖があった」(セガンによる評) へー。ぺらぺらぺらぺら、よう、しゃべる人だと思っていたな、ぼく。
 ルソーのアパートに仕事に行ったガラス職人メネトラがルソーと仲良くなり、話しをしたり、遊んだり、ワインを飲んだりしている記述がある。メネトラとルソーが出かけていく先々に人の輪ができたことも綴られている。「ルソーさんだ!」「あれがルソーか、じゃ、隣にいるのは弟か」などという記述によって、ぼくは、ルソーがパリの民衆の間での「名士」(というより人気者)であったことを知った次第である。迫害、逃亡がルソーの人生史のメインだとインプットされていたぼくにとって、彼が人々の輪の中に入り、あるレストランでは人々がルソーを一目見ようと大理石でできたテーブルの上に乗ったためにそれが壊れてしまった、それ以降、ルソー様入店お断り、ということもあったらしい。(パリでルソーとかなり親交のあったガラス職人メネトラ談を元に)
 ーテレビやラジオ、週刊誌などがない時代でも、「追っかけさん」という現象は誕生していたんだな。
☆ ジャン・ジャック・ルソー像。パリの人々は、彼の同棲(非婚)をどう見ていたのか、彼夫婦の「子捨て」をどう見ていたのか、彼の日常生活ぶり(立ち居振る舞い)をどう見ていたのか、そもそもその時代の結婚制度―婚姻の届出を含む―はどのようなものでありルソーにとってそのことがどのような障害となったのか、などなど。
 このような「同時代性」にますます興味を覚えた朝。あ、ちょっとは元気が出たな。
○2006年10月、順天堂大学病院に入院し全身麻酔による手術を受けた。その際、完全禁煙を決意し、禁煙は今日まで続いている。喫煙要求は全くない。2006年10月1日は禁煙記念日。
 この入院で、かなり精密な検査を受け、両肺気腫に罹病していることを告げられた。改善は望めない。症状を受け入れながら、食事、身体ケアなどをすることによって、症状の悪化を防ぐしかない、と。禁煙だけは続けたが、他の治療や保守に気を配ることを忘れ、夢中になって研究・教育に携わった。以前は体を動かすとすぐ息が切れたり、ゼーゼーと息をしたりする症状に見舞われたが、いつしかそれも気にしなくなっていた。
 肺気腫はすっかり忘れてしまったが、代わりに?脳梗塞を罹病した。治療生活が今日まで続く。レントゲンは数回撮影されたが、医師が肺気腫に言及することは一度も無い。ぼくの方から訴えたことがないからだろうか。不治の病である肺気腫、症状が現在どうなっているのか、医師に尋ねた方がいいのだろうか。そんなことが気になる今。
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全日休息

2017年09月05日 | 日記
○7時起床、起床時室温24℃。2度目ざめ。
*危ない夢見ばかり。タクシーにバッグ置き忘れ、中にパスポート、健康保険証。その上料金ぼったくられ、上野界隈数分で1万数千円。上野での会合終了後の歩行中腹を刺される。何だってこんな夢見?
71.3
139 76 45
○10時~11時10分 買い物等外出 左脚の調子はやはり思わしくないが、断念することなく、目的を果たした。
*郵便局に寄り当面の工面
*東武ストアにて買い物 ひげそり、シェービングローション? ゴミ袋 
*薬局にて、衣類虫除け
○今日のお昼は、懐かしの、お弁当・・・スタイル。

 ちょっとした趣向の変化で、あまり食が進まないのを乗り越えられるかもしれない、と考え、懐かしの「弁当」製作。何十年ぶりか?
 使用食材には変化無し。日曜日購入した魚ナマモノは今日が限度と思い、マグロ血合いとエビを鰹だし、醤油、みりんに漬けた。野菜は椎茸、ニガウリを切り刻んだ。ニンニク一かけをフライパンで熱し、漬け汁を流し込み、野菜を煮る。そして魚系を投げ込み、鷹の爪をパラパラと降りかけ、鍋ぶたをして、火を通す。
 あとは盛り付け。色合いと臭み抜きに梅干しを添えてできあがり。
 一人弁当、ぺろりと平らげました。また、お弁当作ろ。今度は肉類で。
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通所リハビリ

2017年09月04日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温24℃。2度寝。
71.1
120 73 50
○左脚不調。力が充分に入らず。
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ
*目がかすみがちでめまいを覚えながら訓練に入った。スタッフさんにはその旨を告げる。無理な運動を避けるようにとの指示。
*ハードル歩行訓練。ゆっくりと意識して膝を上げて足を運ぶ。
*ステップ。左脚に力を加える意識と動き。
*レッグマジック。やはり左脚の「閉じ」の力が弱い。これは無理をしないで済ませた。
*マットを使った歩行訓練:足裏着地、つま先立ち静止などなど。
*自転車。体力測定の一環。
*平行棒体操に参加。スタッフKさんのリードの元に。左足が良く動くようになったとしきりに褒められた。「私と初めてあった時は全然動かなかったのよ。」と他の利用者さんたちに紹介。ぼくの方から、「ここにお世話になって3年目ですから、機能回復しなかったら、それこそ『金返せ』ですよね。ただ、自分から回復しようと思わず、そして動かなかったら、回復しないのは当たり前です。」と、皆さんに申し上げた。余計な言葉だったかもしれないが、人をうらやましがるだけではなんともならないのが、現実なのだ。
*スタッフさんがなかなか目が届かなかったこともあり、Tさんからの願いもあり、Tさんのフットマッサージ施療のセットのお手伝い。その他、何人かの方と、会話をすることが出来た。
○お昼は玉子丼。中に入れた具は昨日の残り野菜。タマネギ、ニンジン、ニガウリ、椎茸。添え物は厚揚げカマボコ。初めての挑戦作品。いい味でした。

○午後、ディスク整理、続行。面白い内容ファイルを見つけた。以下のごとし。「総合講義 愛と性」のぼくの担当時内容レジメ

「知的障害者、愛と性 教職課程 川口幸宏

まえがき
 本時の講義は研究的成果の報告ではなく、人間形成論を指向する為の問題提起であることをあらかじめお断りしておく。

 知的障害者は、程度の差さえあれ、「考えることも行動することもできない」と「健常社会」からみなされ続けてきた。いわば社会的に「孤立」された状況に置かれている。
ギリシャ語のιδιōς(イディオス)→idiot 「孤立者」「異邦人」。
我が国では、漢語表記で白痴、精神薄弱(精薄)など、和語表記で「たわけ」「うつけ」など。現在の俗称では「ちえ遅れ」。
社会的処遇 : 精神病棟の監獄内に監禁・拘禁、自宅に監禁・拘禁、遺棄、殺害。(社会的・教育的)放置。
つまり、「社会的交わりの遮断」。このことが、「相互理解」を妨げている。

1.「性」に関しては「陵辱」という処遇に見舞われやすい
 *歴史の中の話
  フランス・インターンの間の伝統的な「歌」の中
 *学校・施設の中での話(表に出ないことが圧倒的)
 *当人に「証言能力が希薄」とのレッテルが貼られる。
2.知的障害者の置かれてきた環境=「性から遮断されている」
   *社会的風潮としての性の商品-排他・排斥 *性の暴力 *性の無知
   *男女の「共同生活」の強い固定観念 (偏狭な「遺伝」説) *性=子孫作り
   *知的障害者「純潔」論(「性的欲求がない」)
    -男子青年が女子施設に収容されていた(つまり混合収容)という俗説を支持する言説:「知的障害者なんだから」
   *知的障害者「危険」論(「性的欲求が際限ない」「危害を加える」)
    ―自慰や性交に対し厳しい体罰で接する立場がある。
  ①一般的風潮=「性」について「選択権」「教育を受ける権利」「学習する権利」などからの阻害(今もなお、「寝た子を起こすな」「いやらしい」「臍から下には人格が無い」)
  ②知的障害者に対する現状=適切な教育・学習環境(ハード、ソフト共)の欠如
    I 生育環境の中での「自然な学び」(同世代間の遊び・会話等)の弱さ
     「閉じ込め」「排除」「隔離」などが根強く残る問題
   II 学校教育における教材・教具の欠如(「学習指導要領」準拠至上主義)
     東京都内某養護学校の性教育に対する政治的干渉(2003年)
      ―「ポルノ」発言と「弾圧」
3.「愛」の問題
知的障害者の「愛」は、「結末は「悲劇」」?
    *ウージェーヌ・シューの短篇「イディオ」(別配布)
  19世紀初頭の話「アヴェロンの野生児」から学ぶこと。
    *知的障害者と思われる子どもへの人類史上初めての教育的関わり
    *感覚訓練、運動訓練、知的訓練、社会性訓練、「感情」へ
   参考:フランソワ・トリュフォー主演監督「野性の少年」 原題:enfant sauvage
 
おわりに
 今日では、他の人たち、家族、あるいは/また、施設職員/教員に非常に多くの支援・援助を受けることによって生活している。それをさらに進めていく為には、性、愛についても、否、性、愛についてこそ、知的障害者の変化/成長を受け入れる必要がある。つまり、一般と同じく、知的障害者の性を肯定的に認める必要がある。「人間の基本的な欲求は障害の有無にかかわらない。」


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ディスク整理

2017年09月03日 | 日記
○7時10分起床、起床時室温22℃。家族3人揃って旅館に宿泊の夢。それぞれの個性がそのまま出ていて笑ってしまう。
70.9
119 68 50。
○左脚がきわめて不調。どうしたのかな。腰痛とは違う。力が十分に入らない。筋力の低下、という実感。
○9時~9時30分 コーヒー豆挽き

*ハンドルを約1000回転した(右手)。コーヒーミルをしっかり押さえ続ける左手の上腕に疲れ感と痺れ感。麻痺がまだまだあることを知る。
*ハワイココ種はもう一回挽くことになる。
*次の豆は珍しくアフリカ・ブルンジのムミルワ農場産。いろんなキャッチコピーがあるが、その中から・・・「青リンゴのような酸味、クリーミーなマウスフィール。オレンジ、レモンといったキャラクターから、冷めてくるとピーチのような余韻」 楽しみですね。
○10時25分~11時50分 新柏東武ストアへ買い物リハビリ
*行きは15分余で行けたから大分と足の機能は回復しているのかな?しかし、帰りは・・・・・。
*朝食用のライ麦パン、昼食用の乾麺、おやつ用のピーナッツせんべい。これは予定通り。
*ニンニク(中国産。たんに安いから)、ニンジン、タマネギ、ニガウリ、生椎茸。最後の2者は衝動買い。ただし、ピーマン、長ネギの代替。
*頭落としの天然エビ、マグロの切りはし。これらは迷いに迷って購入。やはり、魚ものがほしいなあ、と。
*こんなのを作りました。パンとお菓子を除いて、買い物の品を素材にして。おいしくいただきました。味なポイントは、ごま油、昆布だし、煎酒が隠してあることです。

○午後、ディスクのファイルを整理。同時にファイル内容からぼくが歩んできた道の総括。ぼくがあてにされていろいろと協力、資料提供などを大いに求められることに対する苦悩は、やはり、「生活綴方」研究に対するそれだ。2005年の秋から始まったそれは2009年まで続く。その後続かないのはぼくの方から絶ちきったからだ。そのきっかけとなる書簡内容の一部は以下。要は、「生活綴方」とはなんぞや、という哲学など何もないし、歴史観も見られない、ということのいらだちからだ。人が持っていない史料をどれだけ持っているか、ということでしかないお方だったし、その史料も「おまえが集めてこい。もちろん自腹を切って。その成果の社会的評価は自分のものだ。」という傲慢的人格の持ち主だ。ぼくだけが被害者ではないことは、いろいろと怨嗟こもる情報が寄せられてきていることで、被害者意識が綴らせているのではない。
*【某偉大なる、自称「生活綴方研究者」に対する、反乱的書簡の一節】
(前略)生活綴方で言う「生活」とは一体何なのか、先生はどのようにとらえられているのか、つまり、「近代学校を通じて国民支配を進めていくための生活ネットワーク作りのための知」なのか、「時には近代学校の求める知と(鋭く)対立しながらも、人々が歴史的に作り上げてきた生活ネットワークの継承と発展のための知」なのか、そのあたりを明確になさらないとならないのではないかと思っております。先生が対象として惚れ込んでおられる教師KE氏は、さしずめ、前者の立場で、子どもや親、あるいは同僚に向かっていた、それを作文・綴方教育に求めていた、というべきでしょう。そのことを論証する史料は山ほどにあります。そういう史料を一切お持ちでなく、私に提供せよと、命じられる・・・。(後略)
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通所リハビリ

2017年09月02日 | 日記
○6時20分起床、起床時室温23℃。2度、目覚め。
71.0
131 74 47
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ
*女性の他に、男性が5人という数は初めての大人数。
*Sサンが一生懸命、ぼくの真似をすることから訓練を始める。機能の回復に繋がってほしいと切に願う。
*体力検査。座った状態での握力は左右とも3キロ減。他は機能向上か?
*ハードル歩行、大股も採り入れてみた。今日は左脚が比較的スムーズ。スキップ、レッグマジック、踏み台。ストレッチングボード、足裏着地訓練、つま先立ち訓練、屈伸など。マッサージ、あったか姫。今日は棒体操、少しだけ平行棒体操に参加しました。
*つま先立ち(踵上げ)がここまでできるようになりました、という記念写真を撮ってもらいました。

○午後は体の休養とパソコンのディスク・ファイルの整理作業。とりわけ「***」関係ファイルをディレクトリーにまとめる作業。「ながら」の作業で、やはり心を強く動かさざるを得なかった関係だったなと思う。こんな言葉が端的に綴られている。「歴史研究をなさっている先生が史料の扱いについて、あまりにも自我意識のみに従って語られたことに、驚愕し、悲しみを覚えた、ということは申し上げたく存じます。」 史料は大切に扱え、と教訓を何度も垂れ、「***」のための作業をするにあたっては「***」所有の史料類は、万が一の事故を避けるため郵送ではなく受け取りに来い、と言う一方で、川口が持っている史料をすぐに郵送せよ、と命じることがたびたびあったことで、最近年では、ぼくがとうとう「切れて」しまった、ということだ。
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不治者救済院調査続行

2017年09月01日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温24℃。2度の目覚め。
*昨日1日、せっかく腰痛が消えたのに、今朝ほど少しぶり返し。顔をしかめるほどには痛みはない。
71.6
122 67 57
○いよいよ寒さを覚える季節到来。といってもまだまだ暑い日は襲い来る。衣類の準備を始めた。風がある日なので、しまい込んでいた冬物のごく一部を風にさらす。
○多少の運動。足裏着地訓練。掴まり無しでも行えた。屈伸、廊下を使っての歩行訓練、その他。
○不治者救済院に関わって 今日は、昨日に比べて、目の調子が思わしくない。
*1840年11月4日、パリ救済院総評議会は、セガンを、les hospices des incurablesで「白痴の子どもたちの教師として管理下に置く」ことを決定している。les hospices はhospiceの複数表現であるから、当時、パリ救済院総評議会の管轄下にある不治者救済院の名称とそれぞれの所在地を調べる必要があるが、セガン自身が1842年論文(実践記録)の中で、「男子不治者救済院と女子不治者救済院とに配属されたが、男子の方にしか従事しなかった」と書いていることが大きなヒントとなる。
*ちなみに、中野善達氏は、この箇所を「治癒しがたい男子のためにも女子のためにも私を招聘して下さいましたが、私はただ男子しか扱うことが出来ませんでした」としている。にもかかわらず中野氏は、この実践を「サルペトリエール院」で行ったと断定している。「サルペトリエール」が女子養老院と公称されたように女子専用施設である。セガンが実践対象とした「男子」が3歳未満であったのなら、制度的に言っても、女子施設で子どもたちは養育されていただろうが、セガンの記録に登場するのは10歳から20歳の青少年であるから、当然、中野氏は論理矛盾を露呈していることになる。そして、我が国のセガンに論究する人のほとんどすべてが、中野氏の論説をそのまま採用してきている。矛盾にさえ気がつかなかったようだ。
 セガン研究史の中で誰も気にすることがなかったのが不思議に思われるが(北海道の藤井力夫氏は早くから正確な情報を提言しておられたのだが、それを史実だとは誰も認めてこなかった)、一方、2003年夏、清水寛大先生にこの矛盾を申し上げたら「白痴なんだから性別は関係ないんじゃないの。」と言われた。彼がとんでもない差別者であることを露呈した瞬間だ。「サルペトリエール」でセガンは実践していないと、あれこれ、入手しうる史資料を大先生に示し続け、最終的にぼくの提言を認めたのは2004年に入ってからであった。ただし、セガンが実践舞台とした機関の正式名と所在地を明らかにせよ、との厳命が付いたが。
*les hospices des incurablesの具体名を明らかにするには、関係法令集を紐解けばいい。セガンが活躍した時代を縛っている法令に則った救済院、施療院等に関わる管理規定集を見る。第1巻第5部第2編(高齢者及び心身障害者のための救済院について)第6章第1項が「男子及び女子不治者救済院について」である。法令上に両不治者救済院が登場するのは1801年10月である。(1801年10月10日令
*第8条で(1783年政令により)、身体不随者、その他の不治の障害を負った者、就労不能の者を、第9条で女性用の施設に、男性はそれとは別の施設に収容することを定めた。子どもはその性に応じてそれぞれの施設に収容される(同第10条)。1802年12月15日救済院総評議会令で、20歳以下の不治者用一部屋をフォーブル・サン=マルタン(男子)不治者救済院、及びセヴル通り(女子)不治者救済院に用意する。
*これで男女それぞれの不治者救済院の名称が判明するのだが、それぞれの現在の様子を知るには偶然という幸運と飽くなき情報収集によってなしえた。女子用は建物は残っているが廃墟となっており(現在はすべて取り壊され新しい都市計画の元に現代建築物がすがたをあらわしつつある)、男子用は、幸運なことに、セガンの時代の様子をほぼ残して、多種の要務を果たしている。
*当時の様子を伝える油彩画とリトグラフ。上が女子用、下が男子用。


*不治者救済院での食事に関する規定もある。食堂が基本だが身体状況によっては寝室(共同寝室)で食事が供される。時間(回数)、内容なども気になるが、1日4回の食事だったと理解でき、パン、スープ、ワインなどが6人をセットにして出される。テーブルの大きさは、もう少し検討したい。各自の座席は定められており、変更は許されないようだ(1802年7月30日救済院総評議会令第14条)。
*(別資料による)パリの不治者救済院の歴史は17世紀に始まる。セヴル通りの施療院から、1801年に、収容男子をフォブール・サン=マルタンの旧レコレ修道院に移したことによって、男女別の不治者救済院が創設された。すでに1794年に、レコレ修道院は、(フランス革命によって宗教施設としては廃止され)養老院としての機能を有するようになっていたのだが。
*それぞれ、どれほどの人数が収容されていたのか。とりわけ子どもの数は?残念ながら、明確に示す史料には行き当たらない。
                                        
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不治者救済院の調査着手

2017年08月31日 | 日記
○5時30分起床、起床時室温27℃。全景が茶系の街。前に見た夢舞台か。駅を降りて目的地案内看板を探すも見つからず。さまよい歩く。そもそも目的地がどこなのか、分かっていない夢。「いざ発たむ当てはなくとも秋の暮れ」 枕元に浮かんだ俳句。「秋」より「夏」の方がいいっすな。「いざ発たむ当てはなくとも夏が暮れ」としましょう。
71.8
125 68 52
○小雨の中を燃えるゴミ出し。左脚のぐらぐら感収まらず。
○足裏着地訓練、大股で歩行訓練。体がぐらつき気味。まっすぐ安定して歩きたい。
○じつに久しぶりに、終日フランス語。メガネをとっかえひっかえして、読み進めた。
*セガンが白痴教育を進めた場l’hospice des Incurables (オスピス・デザンキュラブル 不治者救済院) 法令上から実際を探る作業を進め始めた。
*セガンが、フランス時代の実践を詳しく綴っているのが、フォーブル・サン=マルタン男子不治者救済院の子どもたち10人の教育についてだ。1841年10月から1842年3月まで。その記録の最初の3ヶ月分の邦訳が中野善達氏によってなされているが、これによって、我が国のセガン研究が大きくゆがめられてきた。訳も誤りが多く解説も史実が捏造されていたりゆがめられていたりしている。このセガン論文を改訳する必要は当然あるが、ぼくには荷が重く、意思があっても筆がたびたび止まってしまう。この作業の助走になればと思い、改めて、「不治者救済院」調査開始。
*そもそもhopital(オピタル)とhospice(オスピス)との実質区別が、ぼくにはつきにくい。ぼくの意識は19世紀前半期以前のそれらなのだから、歴史用語として、前者が「施療院」、後者が「救済院」との訳語を当てることが出来る。その前身が修道院が担った巡礼者用宿泊施設に端を発する慈善施設なのである。
 前者は今日でいう「病院」だとすれば、後者は、たとえば「孤児院」、「養老院、「母子寮」などが当てはまろうが、それらの用語とて我が国では現在は使用することがはばかれている。「養護施設」など(各種の)「社会福祉施設」とでもいうべきなのだろうか。オスピスを「貧窮院」とする語り手もいるが、それでは実際を狭めて理解してしまうのではないか、と思ってきた。
*セガン研究で馴染みのある代表的なオスピス機関は、「ビセートル救済院」(男子施設)、「ラ・サルペトリエール救済院」(女子施設)だ。セガンを論ずるほとんどの人が、「ビセートル院」「サルペトリエール院」と呼ぶ。2003年初夏に、「院ってどういう意味ですか?」とセガン研究の大家・清水寛先生にお尋ねしたら、「病院のことです」とのお答え。しかし、セガン研究の文脈でいえば、ホスピスなのだから、先に述べたことからすれば、「病院」というのは正確では無い。現に、セガンが白痴教育に関わり始めた頃の「ビセートル」と「サルペトリエール」の公的呼称は、それぞれ「男子養老院」「女子養老院」であったのだから。
*関係法令は幾度も出されているが、基本は1805年。「ビセートル」と「サルペトリエール」は、「70歳以上すべて」「年齢を問わず、精神病者、癲癇患者、癌患者」を、「不治者救済院」は、「赤貧者」「不治の身体障害者」を収容するとした。要は、精神病者・不治者・ホームレスの強制収容所、および「姥捨て山」、そして罪人収容「監獄」であった。革命以降は、フランス社会の近代化政策(社会浄化政策)の一環としての性格を強く持つ。
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船橋東武へ

2017年08月30日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温30℃。3時頃からなかなか眠れず。6時頃から腰痛が襲う。ぎくっぎくっ。気をつけましょう。寝具の問題なのかなぁ。かと言ってもねぇ。
*元同僚たちと懇談。バー?スナック?店内に流れる静かな西洋音楽に合わせて長老S氏がバイオリンの音色。なかなかのもの。沈鬱な軍歌。若手S氏が朗々と歌う。現実ではこんなことは全くなかったのだ。
71.1
126 71 52
○ビニールゴミ出し。ヨロヨロという感じか。帰路の左足首はぐらぐら感。爪先を何度も引きずる。
○9時30分~16時 船橋へ 歩行につらさを覚える左脚の状況。
*主目的は携帯の充電の接続不良のため、本体に問題があるのか、充電器に問題があるのかを判別してもらうこと。充電器側の問題だったので胸をなで下ろし、たまったポイントで充電器を購入。
*東武物産展は福島・栃木。いろいろと買い物を楽しみました。お昼は「牛乳や」食堂でソーストンカツ丼。ボリュームたっぷり。とんかつもご飯も残しました。

*おかず類はベーコン。
*主食類は耳うどん(前にも買ったっけ?)。そばは多くの店が出していたが、ぼくはそばそのものをあまり好まないので、唯一の耳うどんを。
*朝食用にロールパン 他。
*料理用に日本酒(1合) 高級な日本酒なんだそうだが、よく分からない。
*5階の文具店でルーペ。新しいセガン研究のためのツール。これでペーパー辞書を「読む」ことが苦痛ではなくなるはずです。
○大阪のきっちゃん関係情報を、facebookで偶然、知った。
 2018.1.20.土〜1.21.日
 第15回全国病弱教育研究会全国大会@大阪大会
*ぼくが「知的障害教育の開発者・セガン」研究に関わり始めた時、パリの「病弱児施療院」(現在のパリ児童病院)内に、同病院の(1802年)創設当初から、入院児童のための普通教育が組織されていることを知って、病弱教育の歴史の深さ、重さを痛感したものです。2005年秋のこと。セガン研究の大物N氏がガセネタをまき散らした機関。この機関の第2代院長ゲルサンが、入院児童アドレアンの教育の相談をイタールにした、それをきっかけとしてセガンが白痴児と思われたアドレアンの教育に携わるようになった、というN氏の論。どうしてそういう荒唐無稽話が出来るのか、研究者品性を疑うしかない。でも、その論を前提とした「セガン研究」がなされてきたことも事実である。調査のために誰一人、この病院を訪れ史資料調査をしてはいないのだから。
*「セガン研究」での資料調査で、セガンの白痴教育過程を示す公文書を閲覧する端緒となったネッカー子ども病院の創設門(1802年)。歴史門であるが、現在も活用されている。

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ハナモモ2番摘実

2017年08月29日 | 日記
○7時20分起床、起床時室温29℃。昨夜もたばこ吸いの夢。歩行時の火の付いたたばこは手ですっぽり覆うようにして人に触れないように気を配っていたが、夢でもそう。禁煙をして11年になるが、喫煙要求が起こってきたのか?夢以外のぼくはたばこに誘惑されることはない。
*刺すような痛みが左腰に襲い来て、しばしば目覚める。この痛みは起床後少しの間ある。
71.5
126 69 46
○まるで空襲警報。空襲警報ってのは予告なんで、直前直後に警告を鳴らして、どうする?恐怖と危機感をあおって戦争体制に一気に持って行くのか?同時に、シェルターなど軍事産業を一気に肥大化させるか?戦争殖産体制。とんでもない時代に誘導されつつある。
○庭のハナモモが、ようやく全体的に色づいてきた。我が部屋に桃のかぐわしい香りが漂い来る。しかし、実を摘むには十分ではない。

○山羊肉ブロックが余っているので、角煮に挑戦しました。
頼りにするのは、自分の頭の中にある味覚情報と調理情報だけですので、できあがりは、自己満足したいなあ!であります。
骨付き山羊肉ブロックをお店で適当に切り分けてもらったのを使用。ごま油を熱し肉を転がしながら表面全体に火を通す。
別鍋でカツオ、コンブのだし汁を作っておき、肉の鍋に入れる。
醤油、みりんで味付け。
根気よく煮る。
途中で、少々の味の変化を求めるため、あれこれと(他人様からすれば手当たり次第、でたらめに)小量ずつ、ぶち込む。後は、火から下ろしたり、火にふたたび掛けたり・・・・。
早めの夕食前に盛り付け(写真)。肉に色物を添えました。
 デザートはもちろん、今朝摘み取ったハナモモ。

○セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者  余録】
 私自身、著書において、セガンを「知的障害教育の開拓者」と表記している(『知的障害教育の開拓者セガン~孤立から社会化への探究』新日本出版社、2010年)。だけれども、こうした「レッテル」貼りは、セガンは望まないだろうという思いが心の奥にある。
 私のような俗人は「それは○○が一番最初に試みたことで、一番最初に成功したことだ、だから○○を大いに顕彰しよう!」という思考と行動とをする。平たく言えば、「偉人」史観だ。
 だがセガンは、1866年に刊行した著書冒頭で次のように言っている。
 「畏敬の念に値するような新しいことが起こる場合には人類にとってたくさんのすばらしい大きな変化がある。ある特定の時期に、時の流れが望んでいたものが非常に多くの地域でいっせいにその変化が起こされる。いつも、その変化を発見したのが特定の個人であるということが議論されるが、明らかにそれは、人間を通して顕示されたもうた神の御心のままなのであると思う。」
 セガンが敬虔なクリスチャンであったことはほとんど知られていない。彼がいずれの教会にも属さない「平信徒」であったということを、どのように理解するか、という問題なのだが、「セガン研究40年」のお方などは、セガンを限りなく唯物論の世界に近づいた人、という理解をしておられる。
 知的障害教育方法のあれこれの分析・研究はその専門家に委ねて、私は、現存の能力が許す限り、思想研究に深入りしようと思っている。
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通所リハビリ

2017年08月28日 | 日記
○6時30分起床、起床時室温26℃。2度目ざめ。腰痛に責められた。
*昨夜もまた母が夢に登場。「すぐに迎えに来い」と電話。朝まだ暗いうち。交通機関が動いていない、と答える。場面は男4人が雑魚寝しているところに知った顔の若い女性が「私の寝るところを作れ」と強い口調で現れた。それでどうなったのかの夢の結末はない。
71.4
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○粋生倶楽部増尾通所リハビリ
*腰の痛みが時々襲い声を上げてしまったが、瞬間的な痛さ故、訓練・運動は中止することはなかった。ただし、「手抜き」ならぬ「足抜き」加減。
*麻痺による左足首から先の変形はだいぶん改善されてきていることをスタッフさんに確認していただいた。これからも頑張ろうという気概が生まれた。
*このところ「大学名」についていろいろと声かけをされ、会話をするようになっているXさんが、今日も語りかけてきた。「工事、建設などの仕事のもっとも基礎労働にあたる人たちをもっと厚遇し、多くを養成しなければ、日本は、本当にひ弱な者が支配する国になってしまう。大学生が多すぎると思わないか?」 「おっしゃるとおりです。大賛成!」 意気投合した次第。
*ハードル歩行訓練、やはり今日も左足を引っかけてしまった。ステップ、レッグマジック、踏み台、スクラッチングボード。左足裏着地訓練、左手で1キロボールの投げ受け。マッサージ、あったか姫。
○今日のお昼
*味噌カレー煮込みうどん 麺汁に、ニンジン、タマネギ、トマト、白味噌、カレー粉。トッピングに、半熟卵、茹で茄子。 
 いろいろと試みてみるものです。おいしい。

○【セガン 史上初の知的障害児者学校の創設者 3】

 史料等の調査によって、セガンによる「白痴学校」は、公教育大臣の認可によって、1840年1月3日に発足したことが理解できた。啞で痴愚の8歳男児、水頭症で白痴の21歳男子、単純白痴で13歳女子が生徒であったという記録が、第3者によって、なされている。
 セガンは規模の拡大を願っていたが、虐待等があるという流言によって生徒は集まらず、セガンは損害賠償を求めて裁判を起こした。セガンに有利な裁判が進められていた模様だが、結末については、それを明確に知る史料は未発見である。
 学校情報は大衆紙や専門紙に掲載され、多くの人たちの関心が向けられ、注目を浴びるようになった。セガンに倣って、白痴教育に関わる教育施設の設置も、幾つかの国で進められるようになる。知的障害教育が水流となってヨーロッパ社会に浸透していくようになったわけである。セガンはまさに「開拓者」と呼ばれるにふさわしい存在であった。
 しかし、未解明なことが少なくない。基本問題だけを指摘ておこう。
 学校開設の請願者は「エデュワール・セガン氏」。
 ただし、請願内容を審査した結果の報告文書には「医学博士
エデュワール・セガン氏」とある。
 開設認可を受けた者は「医学博士セガン氏」。
 開設条件として、公教育大臣は「医学博士セガン氏」に、「初等程度の教師1人を雇用すること」とある。
 しかし、セガンは医学はまったく学んでいない。そして開設された学校には、1人の「介護人」が雇用されているだけであった。つまり、「医学博士セガン氏」は虚偽存在なのである。
 セガンの半生史(1812年~1850年)には、こうした不可解な事柄が少なくない。セガンを巡ってさまざまな理解や評価がなされてきている根源が、このようなところにある。理解するには、難しい人だ。
                (終わり)

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