セガンを「白痴の教師」(l'insttuiteur des idiots)として雇用したのは、「パリ救済院等総評議会(略称)」(le conseil général des hôpitaux, des hospices, et des secours à domicile, à Paris)という、言わば、パリ中の医療機関・救済機関の総元締め機構。セガンから、その統括大臣である内務大臣のところに、「白痴の教育に携わりたい、どこでもいいから世話してほしい」という嘆願書のようなものが出されていた(セガン28歳)。当然、「身体検査」があれこれとなされたことは言うまでも無い。その結果、男子不治者救済院と女子不治者救済院の2院に「白痴の教師」との肩書きで、白痴の子どもたちの医療に関わる精神科医の下に配属されることになった。精神科医の医療プログラムの一環としての教育実験を、医師の管理の下で行うというのが任務である。
セガンは、女子不治者救済院では勤務することがなかったが、男子不治者救済院での教育活動報告書の冒頭で、このように綴っている。「予め定められたプログラムに沿って教育を行うべきだったのでしょうか?いえ、私はそうは思いません。私が築き上げた方法ならば確実に子どもたちは発達するのですから。」
医療計画に造反し、自ら開発してきた教育内容と方法とで白痴教育を実践するエデュアール・セガンはこうして誕生した。雇用条件の低劣さに反して志は極めて高い青年であった。まさに、「ボロは着てても心は錦~♪」である。もちろん無風であるはずもない。
セガンは、女子不治者救済院では勤務することがなかったが、男子不治者救済院での教育活動報告書の冒頭で、このように綴っている。「予め定められたプログラムに沿って教育を行うべきだったのでしょうか?いえ、私はそうは思いません。私が築き上げた方法ならば確実に子どもたちは発達するのですから。」
医療計画に造反し、自ら開発してきた教育内容と方法とで白痴教育を実践するエデュアール・セガンはこうして誕生した。雇用条件の低劣さに反して志は極めて高い青年であった。まさに、「ボロは着てても心は錦~♪」である。もちろん無風であるはずもない。
ますます会いたい、青年セガン!
さまざまな医師との葛藤の中で、子供たちの「発達」こそが、彼の生き甲斐だったのではないだろうか?なんて、本を読んで思っています。
セガンの後任となった人に対して「セガンの方法だけを真似しろ、人格はマネするべからず」という忠告をした、と語り継がれています。