ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

今日も室内整備で暮らす

2016年03月31日 | 日記
○7時起床、起床時室温15℃。さわやかな朝。夜中の目覚め1回。
○燃えるゴミ出し。
○1時間半ほど、やや力仕事を含め、机の下の空間を広くし足を延ばして作業ができるようにした。また、西窓際を整理し、大型辞書やDVDを並べておくことができるようにした。しかし、これほどまでに、力を使う仕事が身体的苦痛を伴うとは、考えてもいなかった。まだ、筋肉はついていない、ということだ。月曜日の通所リハビリで、所長さんから、「川口さん、お姫様だっこ、できる?」とからかわれたが、やはりできませんねぇ。ドスン!と投げおとしてしまいます、この体力じゃ。
○夕暮れ前に、新柏東武ストアへ。左脚の痛みとだるさに襲われた。膝辺りがどうも弱いようだ。
○作業机を整えた。リハビリ用具もちゃんと並べた。一見飾りのような手指機能ボール。伊豆・修善寺参道に並ぶお店で購入。コロコロ手指で回すと音が奏でられます。なかなかのアイディア。その他、いろいろ。


○伊勢型紙(白子型紙)芸術 せっかくだからプログに記録しておこう。
<ミニ・エッセイ>
 ぼくは三重県人。いや、三重県に生まれ三重県で18歳まで過ごしただけだから、三重県人と名乗るのはおこがましいだろうな。高校を卒業して以降今日まで、50年以上も三重とは無縁なのだから。だけれども、ぼくには、愛憎すべて含めて、三重に根源があると思っている。そういう意味でも、三重のあれこれに、自分を重ねて見る。
 中学校の時に着物の染に使う「白子型紙(伊勢型紙)」を初めて見た時、その精緻さ、気位の高さに心強く惹かれた。それは、自分とは対極にある「世界」、自分には絶対手の届かない「世界」のように思われた。以降、ぼくの心に刻みつけられたままで、ぼくの現実世界と対面する機会を得ることは無かった。
 2000年度にフランス社会で研修生活を送ることが決まった時、お世話いただくフランスの方々への手土産として、「伊勢型紙」を用意することにした。中学の時の、あの、精緻・気位が我が日本の文化を象徴するものだ、それはフランスという手仕事の強い伝統のある文化社会に溶け込むのではないか、と思ったからだ。
 ・・・・思った通り、たいへんよろこばれた。パリのアパートの大家さん、南フランスの機織りのマダム、そして東洋文化研究所の教授、パリ第5大学の教授・・・。何よりも喜んだのは当の本人、つまり僕。錐彫りで描く、伊勢の海の、山と盛り上がり砕ける波頭絵「風と海との対話」。 作者は中井康信(康峰)氏。
 以降、めげる気持ちが起こるたびに、作品を眺める。なかなか体が思うに任せない今こそ、ぼくに内心の活力の目覚めを促してくれるにふさわしい出番がある。

在宅の一日

2016年03月30日 | 日記
○6時30分、起床、起床時室温14℃。山林を抜けると海だった。どうやら、沖縄を訪ねた夢らしい。
○ビニールごみ出し。帰路、ゴルフクラブ(アイアン)を持った、いつもの散歩老人と出会う。お早うございます、とご挨拶をしたら、側に寄り来て、肩を軽くポンポンとたたきながら、「暖かくなってきたね。」とお声がけ。
○我が家に隣接する林から、ウグイスの鳴き声。どれ、家の狭い土の部分をちょっと歩いてみようか。リビング周辺はクマザサの林。弘美君が植えたのだろうか。しっかりと育っています。ぼくの部屋の周りはヒメオドリコソウの林。
○イタール本、日本社会事業大学図書館に、貴重本として受け入れてもらえることが、ほぼ決まった。これで肩の荷の一つを降ろすことができる。あとはパリ・コミューン関係だ。
○ウメちゃんから、翻訳本の返礼手紙。いろいろと体にガタが来ているそうだ。そういう年代なんだな。「まさか翻訳までなさるとは。本当に立ち止まることが無い人生ですね。」とあった。何もう、しませんよ。しっかり立ち止まっております。
○午前中から昼過ぎにかけて、机の下、棚等の整理。久しぶりに白子型紙を飾り付けた。
○DVDで「ローマの休日」視聴


国民健康保険の手続きのため柏へ

2016年03月29日 | 日記
○6時40分起床、起床時室温13℃。夜中の目覚め1回。
○今日で退院して2年が終わる。
 退院時は車いす使用だったのだからよくなったと言えばよくなったのだけれど、
 まだ、満足な生活はできていない。
 ぜいたくな満足ではなく、ちょっとだけでも急ごうか、という歩き方さえできない不満足、もうちょっとだけでも長く歩こうかということさえできない不満足、いろいろ不満足。
 夕べ見た夢の中に出てきたことば、「人生には限りがあるのさ。」
○午前中柏へ。国民健康保険証入手のため。
*「4月1日からしか使えませんので、4月1日に来ればその場で発行します。4月1日にきてください。ただ、この日は窓口が相当込み合います。」
 これまでの健康保険証が3月31日で無効になるため、国民健康保険に加入しなければならない。過日その手続きに市役所に出向いたが、手続きには早すぎて、先のような言葉が返ってきた。
 歩いていても、座っていても、立っていても、30分を超える時間を同一姿勢を取っていることができない体ゆえ、「窓口が相当込み合います」ということばに示された状況を、果たして耐えることができるだろうか。この数日、このことばかりを考えていた、というのは決して大げさではない。この保険証が無ければ、病院窓口支払いは100パーセントとなる。だから、なんとしても4月1日には入手しなければならないのだ。
 今日、思い切って、市役所に出かけた。相談しよう、と。天気はいいが、昨日のきつい機能訓練で、歩行に少々苦痛を伴うが、どれだけ時間がかかるか分からない「待ち」よりは、心理的にも肉体的に楽なはずである。
 柏駅前にある出張所は、いつもよりは人が多くいたが、手続き窓口にすぐ案内された。話をすると、「今日発行できます。ただし、4月1日からしか使えませんよ。」と、心からありがたいと思う、窓口案内をいただいた。
 帰路は、心は軽やかだったが、左下半身に強いだるさと痛さが襲いきて、とほほ、よたよた、ギッタンバッタン…あのお宅の石段で腰を下ろさせてもらおう…などして、何とか帰り着くことができた。
 退院2周年記念日!! 前途多難ですなあ。
○せめて、作業環境だけでも「明るく」ふるまいましょうと思い、ダイニングのライトを替えた。天井から吊り下がる電球を外し、新しいのを入れる。なんてことの無い作業のはずなのに、左脚に力を入れることが難しいため、おっかなびっくり。上下への体の移動はなかなか困難であることを実践的に知った。リビングのテーブルに登るのにもおっかなびっくり、登った後中腰で立つのが難しいので正座し伸びをして、電球の取り換え。そして、テーブルからまず椅子に降り、椅子から床へ。慎重に慎重に。
*ちょっと面白いスタンドを買った。ムーディーライトと作業ライトとの切り替え可能なスタンド。





午前中は通所リハビリ。㋂最後。

2016年03月28日 | 日記
○7時10分起床、起床時室温13℃。夜中3時に目覚めて以降、寝付かれず。夢に英語とフランス語が登場した。書きことばで。久しぶりにパリ・コミューンの議事録を紐解いたせいか。
○ゴミ出し。歩みはそう重くは感じられないが、左脚膝が「蝶番がさび付いたような感じ」でぎしぎしと動くような覚え。
○粋生倶楽部増尾通所リハビリ。今日は3月の最後の日。昨年の4月7日から通い始めて1年。宿泊の小旅行と風邪で休んだほかは元気に、明るく通うことができました。
 いつものようにコーヒー淹れから始まった。自転車漕ぎ30分、6キロ半近くの走行距離。その後全身マッサージ、平行棒のところで少し歩行訓練、あたたか姫、再び歩行訓練、そして皆さんとご一緒の脚機能訓練たいそう、整え体操。
 終わったところで、通所仲間のご婦人Kさんから、折り紙作品(添付写真)を頂戴した。「ありがとうございます。これで、折り紙の宝物を2つ、いただいたことになります。」とお礼を申し上げたら、にこにこと笑みを浮かべてくださった。


○2時から、ケアマネージャさんをコアにして、通所施設〔粋生倶楽部増尾〕、福祉器具貸出機関,それにわが家族で、4月からの支援の具体方針について検討をしていただいた。これまで通り、週2回〔月、土〕、通所デイサーヴィスを受ける
○介護用品で貸出を受けているのは立ち上がりバー。布団から起きて立ち上がるとき、エイやっ!というやり方ができないばかりか、自力で起き上がるのさえ困難であった昨年の今頃であった。そのため立ち上がり補助のために使用している。今では、使わなくても起き上がることができるときもあるが、基本的には無ければ少し困る。たったそれだけの利用に止めているのではなく、実利的利用では、バーとバーの空間に朝食用のシリアル食品を保管する空間としているし、非常用の乾電池も置いている。
 午後の話し合いの時に、立ち上がりバーの利用についてが話題になったので、歩行訓練の支えにバーを利用している、と言ったら、皆さん驚いた顔をされた。要は、施設利用で熱心に機能訓練をしていても、家に帰ったら何もしない方がほとんど、ということらしい。ケアマネージャーさんに💮をたくさんいただいたのだが、自宅でも機能回復訓練しなきゃ、年齢的には体力がどんどん後退していくのだから、せめて後退のスピードを遅らせなきゃだめだと思っているから、と申し上げた。
 ただ、「腕や足をもいでしまいたいような身体苦痛に襲われるときがたまにありますが、そのようなときには、このバーで首を吊る人がいることが理解できます。」とつぶやいてしまった。申し訳ないと思いつつ、精神状況がつねに健康であるわけではない、ということもお伝えしたかった。


○【パリ・コミューン②】
 フランス時間1871年3月28日午後9時、パリ市民の選挙によって選出されたパリ市議会議員がオテル・ド・ヴィルの議事堂に結集し、初の市議会が開催された。歴史的な記念日となる。
 市議会議員の定数(被選出者数)はパリ全20区90名。ただし、フランス各議会は複数の議会議員の兼職可を原則としていたので、被選出者数は83名であった。内、獄中にある者もいる。
 重複区選出議員は実数で5名。彼らがトータルで12議席を獲得している。それぞれが何らかの形で、職人・労働者、主として新興労働者階級を組織・結集しようとした社会主義運動のリーダーを務める者であり、組織的な投票行動がなされていた。ほとんどがナポレオン三世の下命によるパリ大改造によって誕生した新しい区内に居住する民衆たちが下支えをしていた。これまでのほとんどの「パリ・コミューン」論は、こうした事情を主論とするものであった。つまり、パリ・コミューンは新興の賃金労働者による革命的行動であった、と。
 ちなみに、5名の重複区議員と被選出区は、ヴァルラン(6区、12区、17区)、トゥルスクリューズ(11区、19区)、テズ(12区、18区)、クレマン(15区、17区、18区)、ブランキ―(18区、20区)である。なお、クレマンとは、あの「サクランボの実る頃」のJ.-B. クレマンである。
 1850年代以前のパリを旧パリとしてこの選挙結果を見ると、明らかに、旧パリを支える人々と新興パリを支える人との意識や行動に大きな落差がある。旧パリを支えていた人は、主として、徒弟制度(下級職人が職人親方と衣食を供にする職業-生活様式)によっており、新興パリを支えた人たちは、主として、賃金労働者しかも機械的労働によっている人たちだった。
 その点を踏まえて「パリ・コミューン」をとらえなければならない、というのが、拙著『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房、2016年)の叙述の基本姿勢である。
 さて、この日の出席者実数は59名。非常に低い出席率だと言える。低い出席率はこの日だけに限らなかったのだが、それは、議員間の「パリ・コミューン」そのものの性格(本質)認識、とりわけ、フランス共和国政府と自治体としての首都パリとの関係認識の差異という問題が、底流に横たわっていたからである。
 政府直轄から離れて、パリが、自治共同体としての首都であることは、国家的な認識にはなっていたが、政府は、プロイセンとの戦い(普仏戦争)の渦中にあることを理由にして、パリの自治的自立を認めていなかった、という問題に対する認識の問題、と言えばよいか。
 とにかく政府直轄から離れるべきだ、という主張が合意点であったとしても、政府と対立してまでそうあるべきかどうかということについては、議論が多々為される。
 パリ・コミューン議会内では、これは「国会議員とパリ市議会議員との兼職」の問題として議論され、兼職禁止の流れが太くなっていく。「国会議員」の辞職を表明する者もおれば、「パリ市議会議員」の辞職を表明する者もいる。議会初日から、議会に対して辞表を提出する、という光景が見られたのである。
 深夜12時に第一回議会は閉会。閉会時に、全員起立し、「フランス共和国万歳!ラ・コミュヌ・ド・パリ(パリ市)万歳!」を全員で唱和している。

体、休めます

2016年03月27日 | 日記
○8時10分起床。起床時室温11℃。じつは二度寝。体が眠りを欲しています。怠け者になったなあ。昨夜の目覚め1回。
○午前中、自室内、とりわけ机周辺の片づけ、清掃。立ったままで作業を続けるのが腰の痛みを呼び、とてもつらいので、結局、自室内すべての清掃ということができないのが悔しい。それでもあちこちに置いていたものを一カ所にまとめると、集中して作業をしようか、という気になる。
○テレビ視聴無縁を続けてきているが、片付けの際、アンテナを見つけたので、DVDに差し込み、視聴可能かどうかを試してみた。テレビ朝日がしっかりと映る。まあ観ることはないが、アンテナはそのままにしておく。
○高知の横山先生から、拙著献呈に対するお礼にと、大好物芋ケンピ外が送られてきた。ありがとうございます。猫たちも大喜びで、箱を勝手に開けて芋ケンピをバリバリと食べ散らかした。うかつに置いておけないなー。
○野田君から、卒業記念に、学問のお守りのようなものをプレゼントして差し上げたが、その返礼にと、北海道産のチョコレートを送ってくださった。ありがとうございます。弘美君が喜びの声を挙げた。
○パリ・コミューン議員のあれこれを、これから綴っていくことになるかもしれないと思い、とりあえず重複区選出議員について調査。
○【パリ・コミューン①】
 明日が、パリ・コミューン議会が開催された第1日。この歴史的な日に、政治執行能力を経験的に持っている者が数少ない中で、立法府であり行政府でもあり司法をも担わざるを得ない「議会」の運営に、どのように踏み出していくのか、たいそう興味深いではないか。
 議会は夜9時開催。昼間働き、夜議会活動をする者が多数であったため。この時点では、「兼職」議員がかなり多くいた。この後も、市議会の手当だけでは食べることができないので、いわゆる各種労働に従事しながら、議員は、パリ市議会の活動を進めていく。
 議会出発間もなく、「国会議員」との兼職については自主的に、「国会議員」を選ぶ者は市会議員を辞任し、市会議員を選ぶ者は「国会議員」を辞任する方向へと整理されていく。
 フランスの法はあらゆる議会間の兼職を禁止していないから、そのまま兼職であり続けても別に問題はないのだが、「国会」と「パリ市議会」とは、政策的に対立関係を当初から持っていたため、兼職は自己矛盾を大きくすることになる。それ故の「辞任」選択という自主的行動に出る。
 このため、当初の「パリ・コミューン」は、はなはだ大きな矛盾を抱え込んでいた。その意味でも「パリ・コミューン」は「革命」によって誕生したのではないと、ぼくは断言するわけである。
○[パリ散策こぼれ話] もう、パリ・コミューン満載!
 日本語でしか知らないフランスの歴史事象を本場のフランスでもっと知りたいと興味を持ったぼくは、研究者のサガで、古書店を訪ね歩く。
 パリ古文書館からほど遠くないところに、雑誌というか公文書というか、そういう書物を専門的に扱っているとおぼしき古書店に入った。
 とにかく、ブランドものバッグをいくつも購入するようなリッチで気位の高い我が同胞ご婦人たちから、「あの人、乞食しとんのやろか、日本人として恥ずかしいわぁ。」と指さしで嘆かせるような風体であったことでもあろう、店のムッシュが、いぶかしげに我が傍に寄ってきた。「ここは古書店だから、あなたに神の恵みをあげることは無い。」
 いや、ぼくは、神の恵みなどいらない。紙の恵みがほしい。そう言い返す語学センスは全くないので、単刀直入に、「ラ・コミュヌ・ド・パリ(わが国で言うところの「パリ・コミューン」)関係の史料を探しているが、置いているか。」と尋ねた。
 ムッシュは、ぼくが予想する言葉ではない言葉を外言した。
 「ラ・コミュヌ・ド・パリといっても、いろいろある。フランス革命期のそれ、フランス革命によって成立した行政的自治体としてのそれー今日もそうだー、あるいは、1871年にわずか2か月の政権であったそれとそのために起こった「内乱」のそれと、いろいろある。お前(ムッシュ)の探している史料はどれだ。」
 何にも分かりません。いや、最後のことを調べているのだから、最後のことはわかるのだが。続けて、ムッシュは、「ラ・コミュヌと言えば1871年のことだとすぐ分かるが」と言葉を添えた。
 「それなら、ラ・コミュヌ関係の史料があれば見たいし、場合によっては購入したい。」と申し出た。ムッシュが積み置かれた冊子の中から一冊取り出して、「これは、反ラ・コミュヌの立場から編集されたもの。一読の価値がある。」と手渡してくれた。
 ぼくの「研究」の始まりって、こういうアホみたいな出来事にあるのです。事前学習なしなのですね、行き当たりばったり。
*添付写真:男女がホテルに泊まろうと訪れたが、パリ・コミューンによる戦禍によってホテル室内が破壊されてしまっており、すごすごと…


通所リハビリの日

2016年03月26日 | 日記
○7時15分起床、起床時室温10℃。さすが昨日の疲れは半端じゃない。熟睡。
○粋生倶楽部通所リハビリ。
 左胸の痛みのため肋骨等に影響を及ぼす運動は、可能な限り控えた。
 コーヒー淹れ、今日はコロンビア1:ブラジル2の割合。評判は悪くない。
 歩行訓練を自主的に。特に左ひざの上り具合を気にして取り組んだ。
 全身マッサージをいただき、踏み台訓練の後、自転車漕ぎ30分。今日は6キロには及ばなかった。
 あったか姫、そして皆さんとご一緒に棒体操、整え体操。
○1871年の今日3月26日、フランス、パリ市〔la Commune de Paris)で史上初の男子普通選挙が実施され、パリが政府直轄から自立し自治市となった記念すべき日である。このことで、「パリ・コミューンが出発した」という考えも可能である。ちなみに、市議会の発足は1871年3月28日だ。
 ちょっと面白い選挙データ〔結果〕を紹介しよう。
 この選挙制度は、25歳以上の男子ならば誰でも被選挙権を持つ。供託金を拠出し立候補しなければ被選挙の対象にならない、という我が国の選挙制度と同じではなく、被選挙人は、当人の意思の有無にかかわらず、選挙権を持つ者の投票行動に委ねられている。パリは20区に分けられた選挙区があるが、重複区当選、という結果を生み出しもする。しかも国会議員であっても亡命者であっても、未決拘留であるなら獄中にあっても、パリ市議会議員を(名目上にならざるを得ないが)務めることができる。
 ブランキ―という社会主義者がいる。当時、国会議員を務めていた。大衆にもたいそう人気のあった人だが、成人してからの人生のほとんどを獄中で過ごした革命運動の闘士でもある。彼は、パリ18区、20区で議員に選ばれた。そのほかの区、9区、12区、16区、17区、19区でも得票がある(落選)。調べてみると、当選区では、やはり組織票がものを言っている。他の区の得票は個々の投票人の意思による。
 もう一人、おなじみのヴィクトル・ユゴー。『レ・ミゼラブル』で絶大な大衆的人気を得ていた、元国会議員でベルギーに亡命中だった。ユゴーは9区で695票、16区で1274票の得票数。当然、落選。ユゴー自身の日記によれば、市議会議員立候補の意思は全くない、ということのようだ。ユゴーはパリが自治市であることは当然だという強い主張をしているが、武力闘争の側面を持つ「パリ・コミューン」には強く反対している。
 どこどこで誰誰が武器を持って戦った、戦火がどうのこうのという「戦果」で物語る「パリ・コミューン」ではなく、人々の政治行動がどうであったのかを、分析的に見る「パリ・コミューン」も面白いのだが・・・・。
○粋生倶楽部増尾前の歩道に大根が花をつけていた。根の方の大根がどうなっているのかは確かめられなかったが、おそらく、大根の「首」の部分の水栽培から始めたのだろう。


今日は冬の寒さ。でも、外出!

2016年03月25日 | 日記
○7時起床、起床時室温9℃。夜中の目覚め1回。元の職場の同僚たちと量販店で再会の夢。同一職場で何年御奉公しなければならないか、というような話題も。そして僕自身がいくつもの大学を渡り歩いた、という過去自慢を!うそばっかり。
○貴婦人トドちゃんの支援をいただいて、柏で昼食、そのあと船橋に出て北海道物産展に。10時半自宅を出て5時帰宅。物産展会場で、左腕がもげるように感じるほどのだるさと痛みを感じて、めまいを覚えた。本当に身体的能力が落ちていると痛感。長時間、長距離にはまだまだ耐えられないのだな。悔しい現実だが、少しずつでも耐性をつけるために、今後も、外出リハビリを欠かさないようにしなければ。
*昼食は柏郵便局〔本局〕の近くのスリランカ料理の店「アーユーボーワンにて。先日、ふらりと立ち寄っていただいたマトンカレーの美味しかったこと!あの味を貴婦人にも味わっていただきたいと、今日お誘いした次第。ランチメニューとお店のムッシュ、マダムにお願いしての記念写真とをアップしておきます。ちなみに、ぼくが今日いただいたのは、バターチキンカレー。甘辛のスープでした。おいしいことはおいしいのですが、やはりマトンカレーの味の方をぼくは好むようです。写真、順に、マトンカレーセット、ランチメニュー、そして記念写真。ぼくのデカ顔が気にいりませんが、事実として受け止めましょう。



 そのほかいただいたのは、キトウルヨーグルト、タンドリーチキン (いずれも絶品です)、ヨーグルト嫌い、タンドリーチキン嫌い人間のぼくが、ッ前回に続いて今回も注文し、貴婦人にもぜひ召し上がれとお勧めしたのです。
*その後、東武線で船橋に向かい、北海道物産展。大体、いつものような買い物。これから数日、おいしくいただきます。
*スペイン語学習のための書籍2冊購入。そのうち一冊は、フランス語、イタリア語とあわせて学習できるようになっている。フランス語を忘れないようにと思っての購入。
○この時期になると、いつものこと、私の研究的「履歴書」を再整理したくなる。比較的ということばを付け加えるが、2000年以降、相当力を入れて進めた研究であるにもかかわらず、あまり公言することが無い「パリ・コミューン研究」。今日はそれにかかわって。拙著『19世紀フランスにおける教育のための戦い セガン パリ・コミューン』(幻戯書房 2016年)の宣伝も兼ねて。
 日本で俗称ならぬ公称される「パリ・コミューン」。フランス1871年の3月18日から5月末に起こった「内乱」あるいは「革命」のことと歴史評価されるが、実際はフランスの首都Parisの自治体(la commune de Paris)の、主体自立の試みである。フランス語ではla Commune de Paris 1871、あるいは簡易にla Communeと称するのが一般的である。
 「内乱」あるいは「革命」に主力が置かれた歴史研究(歴史物語)で私などは学校で習い、書籍でも習った。それに付加されていたのは「歴史上初の労働者階級による政府樹立の試みであり、短命とはいえそれに成功した」ということであった。そういう「当事者による証言」もあるし、何よりもかのマルクスによって、未熟ではあったが可能性があった、と「お墨付き」がなされていることが、このような歴史評価になったのだろう。
 その一方で、パリのコミューン(自治体)の制度的実体に対する論稿はあまり見られない。しかし、こちらこそが「歴史的事実」として重さを持つと、私は考えてきた。その意識で、選挙によって選出された各議員の職種等〔社会階層〕を調査し、議会議事録等の当事史料や広報紙などを収集し、読み進めた。パリ・コミューン終息後の裁判記録などにも目を通した。
 それらを「教育」という概念でくくってみるとどうなるのか?それが拙著である。わが国の(旧)教育基本法そのものを読むかのような教育政策が建てられていること、あるいは私が教育論を語るときの基本にしている教育哲学「生活教育」と変わりない教育論があることを知った時は、「感動」ということばが最もふさわしい胸の震えを覚えたものであった。


今日もまた体は休めます

2016年03月24日 | 日記
○のんびりと7時半起床。起床時室温13℃。寒さを覚えます。昨夜の目覚め3回。およそ3時間ごとに目が覚めている計算になりますね。
○大学教員であった時の30年ほどの間に、人生相談等を受けたお嬢さんたちが夢に登場。世間は「別れ」の時期だからかな、彼女たちは今どうしているだろう、という思いが夢見となったのだろう。夢見に現れたお人たちの一人だけが、現在、連絡が取れない状態。「私絶対幸せになって、みんなを見返してやる!」という「捨て台詞」のような言葉を吐いて<放学>処分に泣き崩れたお嬢さんだったなぁ。帰り際、今日明日の生活のためのお金を貸してくれ、と言って研究室から姿を消した。その一年後、「私は今お腹に赤ちゃんが育っています。私のような者でも愛してくれる男性がいて、承知で結婚してくれた30代後半の人です。私は今幸せです。」というメールが届いたきり、消息がつかめなくなっている。親子ともども元気でいることを、夢の中で祈った。
○CDでスペイン語入門学習再開。淡々と、綴られたスペイン語(単語、文)のみを読んでいくだけの音声テキスト。もちろん活字の入門書の付録であるから、スペイン語の発音とはこういうものだよ、という案内だと考えて使用すればいいのだが、「聞くだけ」ではどうにも気が落ち着かないから、どうしても活字テキストを目で追う。活字テキストの大部を占める日本語はCDには含まれていない。そのため、音声を耳にしてその個所を目で追う。簡単にそう言ってみるが、目の不自由さを嫌というほど味わされ、ある種の<絶望>を覚える。フランス語の学習で導入した、一切音と無関係の、活字だけの学習法をスペイン語にも取り入れようかと思いもするが、そこには、<読みたい>文献があったからこそ。残念ながら、手元には、読みたいスペイン語文献はない。探しに行く身体能力もない。
 あ、そうだ!フランス国立図書館アーカイヴズで、アモロスとペスタロッチとをかかわらせて、探してみようか。スペインにおけるペスタロッチ主義!今日はその文献探しをしながら、CDでも学習を継続させよう。
○言葉だけが先行して中身をほとんど知らない「スペイン語」「スペイン語文化」の問題の学習をしましょうね。以下のアドレス先がなかなかのもの。出来れば避けたい「筑波大学」だけれど。
『スペイン語とスペイン語文化圏の魅力』
スペイン語のweb辞書を見つけた。なかなか便利そうだ。
○ネットサーフィンで偶然行き着いたジョン・ヴァエズの歌声「サッコとヴァンゼッティ」。懐かしい。『死刑台のメロディー』の主題歌。「二人がイタリア人であり、民主主義について何も知らず、言葉もろくに知らない、自由社会にもっとも危険な野蛮人であるから」という偏見だけが米国裁判所を支配した史実。わが国の現在の右派の底流にある思想とうり二つである。「ヘイト」。

二人への哀悼の歌
Here's To You (Ennio Morricone & Joan Baez) 邦訳「勝利への讃歌」
Here's to you, Nicola and Bart
Rest forever here in our hearts
The last and final moment is yours
That agony is your triumph
ものすごい歌唱力 感動的なバラード
Ennio Morricone, "The Ballad Of Sacco And Vanzetti"


今日も体休め中心に

2016年03月23日 | 日記
○7時20分起床、起床時室温13℃。夜中の目覚め3回。痛みをやや強く感じながらも、そのせいで眠れないということは無い。寝返りを打つのにちょっと気合が必要。今朝の痛み具合は昨日よりは和らいでいる。
○ビニールゴミ出し。脚の具合は昨日よりはまし。まだ左脚が強く突っ張るけれど。
○津曲裕次氏にセガン翻訳書献呈。幻戯書房にその旨手配済み。
○きっちゃんからいただいたセガン翻訳本感想の続き。「感想」の順番を入れ替えて紹介をしています。
*「ヒト」が「人」になること、私なりに解釈をすれば、ヒトが産まれ教育や周りに人々とのかかわりを通して学び発達し、そのことが社会を豊かにし人を幸せにさせるということ、このことを世界に先駆けて「実践」したのがセガンであるということを、この本で学びました。
 現在、障害児教育においては、たとえば脳科学から、発達から、教育・教科から、心理から、リハビリテーションの世界から、音楽や美術などの芸術から、と様々なアプローチで専門的に研究されていますが、セガンは「ヒト」が「人」になるために、知的障害のある子どもの成長を限りない分野から実証しようとしているということが分かりました。しかも驚くべき200年近く前にです。「実証的教育」なのですね。
 知的障害教育の黎明を実感させてくれましたが、セガンの先見性と歯を食いしばった取り組み(例えばp39、「三か月間、一日当たり四時間、(中略)働いた」など)、そこで表された理論を、私自身感じ取ることができました。
 「私には事実にしか基盤を置かない理論が必要なのだ」というセガンの重い信念を感じます。
 p154には、「このコレージュの子どもたちは、クラパックの山々の位置する緯度は知っているが(後略)」やp160「たまたま生まれが貧困あるいは中層の条件下にある人々には有害である」といった、「知識とは何か」を皮肉交じりに世に問うている姿は、まさに私たちの「何を教えるか」という教育的課題に符合します。
 アセスメント・自閉症スペクトラム・DSM-IVなど外国語が氾濫しているのが今の特別支援教育の世界です。現代の、当時から比べ高度に発達した社会においてこそ、歴史を振り返る、知的障害の源流を知ることが大切だと思いました。あらためて本の帯にある「今後の障害児教育のために」です。
*以上が翻訳書を読んでくださったきっちゃんの感想。知的障害教育の現場からのご感想故、望外の喜びです。ご感想に付け加えれば、きっちゃんは「生活教育」の仲間でありますゆえ、セガンの教育論が「生活教育」の潮流で流れている、ということなのですね。「事実に基づかない」ということは「子どもたちの生活に基づかない」と読み替えることが十分に可能なセガンの教育論なのだと、ぼくは評価しています。大げさでなく。
*最後に、きっちゃんが綴ってくださった次の言葉、身に染みて、ありがたく思います。
 「これだけの訳出とそれに至る調査と研究、本当にお疲れ様です。『私には事実にしか基盤を置かない理論が必要なのだ』というセガンのメッセージは、これまでの川口先生の業績そのものだとも思います。」 きっちゃん、ありがとう。
○昨日に引き続き「石井筆子読本」の学習。
 珍しく襟を正して、日本語書籍を朝から<むさぶり>読んでおります。本当は正座した方がよいのですが、脚の悪さがそうさせてくれません。
「道徳科」出発となると、こういう本がわらわら登場するのでしょうね。そして先生方は、ここを使えば受ける!なんて、ザッパ読みなさって、子どもたちに「道徳的正解の道」の水先案内をなさるわけだなあ。
 しかし、そういう目的のもとに編集され出版されてはいますが、それから離れて人間史として、ザッパ読みしないで丁寧に読み進めていくと、その人間が為したこと、その過程も含めて、心震わせないわけにはいきません。私のヒネクレ根性も影を潜めます。
知的障害教育・福祉、男女共同参画の母「石井筆子」読本 
この世界研究の第一人者・津曲裕次博士の最近著。大空社刊。
*渡辺筆子(後に石井亮一と結婚し石井筆子)の夫となる大須賀亮一(のちに石井姓)が、エドゥアール・セガンが創設した生理学的学校を訪問し、セガン亡きあとその学校の運営を担っていたエルシー・ミード夫人に面会し、知的障害教育の理念と方法・施設の在り方等を日本に持ち帰った、そして日本での知的障害教育を本格的に出発させた。
こういう文脈で石井筆子については知っていたし、ぼくが関係した学校法人学習院の女子部の前身と密接な関係があった、ということは知っていたが、日本社会における女性の自立、地位向上の曙期の大きな業績や知的障害者教育のための教員養成についての業績などは、何も知らなかった。
「石井亮一」や「石井筆子」についてちゃんと知っていたならば、ぼくのセガン研究の眼の置きどころも、違っていたかもしれない。そういう読後感を持った。
*常盤貴子主演「筆子・その愛 天使のピアノ」(山田火砂子監督、現代プロダクション、2007年)を今一度、観賞しなおしたい気分。

○今日の一枚

今日は完全休養を

2016年03月22日 | 日記
○6時50分起床、起床時室温12℃。夜中の目覚め2回。明け方の夢、合宿所か、見知った顔何人かと目覚め、別室に行くと、ベットの上に面妖な生き物が怖がって震えている。誰かが「ネズミネコ!」と声を挙げたが、扁平な顔の真ん中に目玉が一つの小動物。白黒。さらによく見ると、顔はペッタンコで両面に目がついており、耳はウサギほどではないが長く立っている。ウサギネコだなあ、こりゃあ。こいつの世話はどうするのだろう、という内言で目が覚めた。
○資源ゴミ出し。今日は紙類だったので、ちょっと重かった。昨日から痛みが強くなってきた左胸(肋骨)ということもあり、少しつらい作業ではありました。この痛みは以前にも覚えがあるので様子見というところ。たぶん、過重な負荷の動作のせいだろう。
○翻訳書落手挨拶・感想が大阪のきっちゃんから寄せられた。ありがたい内容が書かれている。
*ぼくが和歌山大学で働いていた証しも綴られている。貴重な記録だ。まず、その部分について、引用しておきたい。
「本を読み終え、一番強く思ったのが、「ヒト、人になる」ということばです。このことばは、川口先生が和歌山大学で講義の際紹介された本の名前です。図書館でこの本を探し「狼に育てられた子」は全くウソだということを知り、ショックを受けました。なるほど本に書かれているとおり、確かに狼の母乳では科学的にみて赤ちゃんは成長しません。当時、和大の心理学の先生に「心理学で学んだ狼に育てられた子はウソではないか」と議論を吹っ掛けた?こともあります。…(後略)」
 いや~、きっちゃん、ぼくなんぞ、日生連の国語部会通信で連載していた教育論の中で、かのアヴェロンの野生児のことを狼に育てられた子と綴っているのですね。編集担当の、当時は大学出たばかりではないかな、埼玉の本谷先生が、傍線を引いて、違う!と明記しておられるのですね。まったく無知うそつきの川口であった時代のあることは正直に告白しておきます。和歌山時代はそういう無知うそつき川口からは脱していたという証拠ですな。
*読後感想の続きは、また、明日引用させていただきます。
○津曲裕次先生と滝乃川学園石井亮一・筆子記念館館長米川覚氏の共同名義で『鳩が飛び立つ日 「石井筆子」読本 男女共同参画と特別支援教育・福祉の母』(大空社)の謹呈を受けた。おそらく、セガン翻訳本の返しであろう。あいさつの言葉も何もないので、動きようがない。
○<エッセイ>
 一年前に、こんなことを綴っている。
「4月からデイ・サービスを受けることになりそうだ。施設には、足湯や一人風呂もあるという。それ、いや。 「集団行動」ができるだろうか、それが最大の課題。 一人放っておいてくれないだろうなあ。」
 結局、選んだ施設は、足湯無し、風呂無し、食事無し、楽曲鑑賞演奏無し(要するに集団で行う様々な文化的行事が無い〕。単位当たり3時間弱の機能訓練のみ。その時間内利用者は最大10人。
 当初こそ、やたら聞き込みをしたがる男性利用者との関係の持ち方に悩まされ、施設関係者もそれに気づいて、その人とは同一時間帯にならないように配分替えをしてくれたので(もちろん関係する両者がそれぞれ合意の上で)、この面の悩みから解放されている。
 皆と一緒にする機能訓練(棒を用いての体操、早口言葉など)もあるが、ほとんどが一人ひとりが訓練内容を選ぶ。偏りが出ないように、また個人に適切な訓練が内容から落ちてしまわないように、スタッフから適宜指示が出される。まあ、小規模のスポーツジムだと考えることもできる。
   話しかけられない限りは話をしない。ぼくが難聴者だということはちゃんと伝えるので、皆さん、それを考慮してくださってもいるのだ。
 その代り、時々、突拍子もないことを誰にでも聞こえるような声で言い、誰にでも確認できることをする。
 たとえば、早口言葉を皆で揃ってやっている時、「隣の親父ははげ頭!と前置きしてから早口言葉をすると、緊張感がなくなり案外うまくいきますよ。」などと言ったり〔皆さんさっそくそろってやりました。爆笑の渦〕、左脚右脚を交互に横に伸ばし挙げする機能訓練の最中に、突如「犬のおしっこ!」などと独りごちたり(これも爆笑)、など。
 日本のあらゆる「集団」の持つ、精神的圧迫感のある空間からの解放を求めている僕らしさを、あまり下品にならないように気を配りながら、言動している。それが嫌悪感をもたらしていないと、自己評価をしている。
 もうすぐ4月に入る。今年もまた、千葉県柏市にある通所施設・粋生倶楽部増尾にお世話になり続けることだろう。
○真紅のハナモモの蕾