いくさも知らぬ若者達が、出丸の堀近くまで見つからずに近寄れたと言うことと、一日中の銃撃戦と言うことに勘兵衛は疑問を呈した。銃撃戦としては、異例に長いのである。しかも、午前中に兵の大半が堀付近から、退散して鉄盾や竹束の陰にかくれているのに、なおも銃撃を続けたのであった。まるで、弾薬が豊富であると誇示するように。
その夜、一方的な敗戦に対して家康に前田の宿老横山大膳が詫びに訪れていた。
「城方も指揮統制に乱れがあるようでござれば此度の失態、敵、真田の策略にてまんまと前田家以下乗せられ、天晴れ真田と敵味方に言い触らしとうござる」と言った。
「敵を讃えるとは何事ぞ」と家康の近習は色めき立ったが横山は平然と続けた。
「敵を褒めるのも策略なり。大阪方は、浪人衆が大半でござる。浪人衆は実利より名を上げることに執着しておれば、独りだけ讃えられるとどうなりましょうや」
ここまで言われて家康もやっとその真意が分かった。
「なるほど、一人だけの手柄にされると、他の者も名を上げようと抜け駆けや、指揮の統一ができなくなると言うのか」
「御意」
全軍に九日の夜より、鬨の声を上げると同時に、真田を天下一と褒めるように指示された。真田丸での銃撃戦では長宗我部の持ち場でも多大な戦果を挙げていたのであったが、全ての戦果は真田独りの手柄と関東方は宣伝した。これによって、大阪方の他の武将達も戦果を誇示する必要に駆られ、十四日には塙團右衛門が船場の蜂須賀家に夜討ちに入ったときには、自分の名前入りの木札をバラ蒔いてくるという行為に行っている。
まさに戦果よりも売名のための夜討ちであった。大坂方は、銃撃戦の弾薬欠乏の恐れと身内の功名争いという名の仲間割れを始めていた。
しかし、真田を誉めれば誉めるほど前田家が惨敗をしたという噂が広まり、それが金沢にまで広まってしまった。噂は噂を呼び、前田家のほとんどが討ち死にしたとまで言われるようになった。
これには留守をまもる家族が心配すると同時に、金沢の商人達が恐慌を起こした。
当時はほとんどが売り掛け商売で、支払いは半年払いの晦日と定まっていたため、前田家の存続自体疑う事態となって売掛金の回収に走ったのであった。そのため、留守家族では慌てて金策に走るものもいたという。
さすがにこれには富も心配になって大阪に行く商人に頼んで手紙を運んで貰うことにした。
当時、郵便・飛脚の制度はなく、手紙を送る相手が近くだと見知った人に頼むか、遠くだとそちらに出かける商人に手紙を託していたのであった。
大阪在陣の前田家の陣所にも商人が出入りしていた。
富は手紙に「如何」と一言だけ書いて送った。紙は貴重で長い文章を書けば大きな紙が必要になり、手紙を託す料金も高くなるのであった。富は戦場の様子や、勘兵衛のこと、また近所の若者達のこと色々聞きたかったが、戦場で気の昂ぶっている勘兵衛が長い文章に答えるとも思わなかったので簡潔に聞いたのであった。
帰ってきた手紙には「○」一文字であった。
解説 世界で一番短い文章としては、ビクトルユーゴーが、「レ、ミゼラブル」を出版したときに出版社に「?」だけの手紙を送った。返事も一文字「!」だけだったという。
これを翻訳すると、「本の売れ行きはどうですか?」
と聞かれて、出版社が「スゲエ、びっくりするほどの売れ行きです」と答えたとされています。
その夜、一方的な敗戦に対して家康に前田の宿老横山大膳が詫びに訪れていた。
「城方も指揮統制に乱れがあるようでござれば此度の失態、敵、真田の策略にてまんまと前田家以下乗せられ、天晴れ真田と敵味方に言い触らしとうござる」と言った。
「敵を讃えるとは何事ぞ」と家康の近習は色めき立ったが横山は平然と続けた。
「敵を褒めるのも策略なり。大阪方は、浪人衆が大半でござる。浪人衆は実利より名を上げることに執着しておれば、独りだけ讃えられるとどうなりましょうや」
ここまで言われて家康もやっとその真意が分かった。
「なるほど、一人だけの手柄にされると、他の者も名を上げようと抜け駆けや、指揮の統一ができなくなると言うのか」
「御意」
全軍に九日の夜より、鬨の声を上げると同時に、真田を天下一と褒めるように指示された。真田丸での銃撃戦では長宗我部の持ち場でも多大な戦果を挙げていたのであったが、全ての戦果は真田独りの手柄と関東方は宣伝した。これによって、大阪方の他の武将達も戦果を誇示する必要に駆られ、十四日には塙團右衛門が船場の蜂須賀家に夜討ちに入ったときには、自分の名前入りの木札をバラ蒔いてくるという行為に行っている。
まさに戦果よりも売名のための夜討ちであった。大坂方は、銃撃戦の弾薬欠乏の恐れと身内の功名争いという名の仲間割れを始めていた。
しかし、真田を誉めれば誉めるほど前田家が惨敗をしたという噂が広まり、それが金沢にまで広まってしまった。噂は噂を呼び、前田家のほとんどが討ち死にしたとまで言われるようになった。
これには留守をまもる家族が心配すると同時に、金沢の商人達が恐慌を起こした。
当時はほとんどが売り掛け商売で、支払いは半年払いの晦日と定まっていたため、前田家の存続自体疑う事態となって売掛金の回収に走ったのであった。そのため、留守家族では慌てて金策に走るものもいたという。
さすがにこれには富も心配になって大阪に行く商人に頼んで手紙を運んで貰うことにした。
当時、郵便・飛脚の制度はなく、手紙を送る相手が近くだと見知った人に頼むか、遠くだとそちらに出かける商人に手紙を託していたのであった。
大阪在陣の前田家の陣所にも商人が出入りしていた。
富は手紙に「如何」と一言だけ書いて送った。紙は貴重で長い文章を書けば大きな紙が必要になり、手紙を託す料金も高くなるのであった。富は戦場の様子や、勘兵衛のこと、また近所の若者達のこと色々聞きたかったが、戦場で気の昂ぶっている勘兵衛が長い文章に答えるとも思わなかったので簡潔に聞いたのであった。
帰ってきた手紙には「○」一文字であった。
解説 世界で一番短い文章としては、ビクトルユーゴーが、「レ、ミゼラブル」を出版したときに出版社に「?」だけの手紙を送った。返事も一文字「!」だけだったという。
これを翻訳すると、「本の売れ行きはどうですか?」
と聞かれて、出版社が「スゲエ、びっくりするほどの売れ行きです」と答えたとされています。