夕焼け金魚 

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言うは勘兵衛 16

2013-07-15 | 創作
 前田家大坂両陣日記によれば、慶長十九年十二月二十日、大坂御城御扱御相談、大形相極申筈。翌二十一日大坂御城御扱にて相済申候と記載されている。
 冬の陣の講和条件は、大坂城は本丸のみを残し二の丸・三の丸及び惣構えの毀脚であった。
大坂城の毀却は、講和の翌日から城を包囲した徳川軍により行われた。
越前・加賀・近江・伊勢・奥州の諸勢が雲霞の如く集まって、えいえい声を出し夕暮れに及んでは提灯を灯して徹夜で行われた。
これに対して大坂方は家康に講和条件が違うと抗議したが、徳川方の交渉方である本多正純は仮病を使うなどして交渉を引き延ばしているうちに、本丸だけの裸城にしてしまった。
大坂に残った浪人衆も講和条件の違反は明らかであったが、豊臣重臣の不甲斐ない交渉術に断固たる手段を執るべきと主張しても、講和破棄の決断が出来る重臣がいなかったのであった。
 一月十四日には前田家は御普請奉行を招いて饗応を行って、軍勢を逐次加賀へ帰している。利常も、二月七日に金沢に帰城して前田家の冬の陣は終了した。
しかし、勘兵衛を初め前田家の殆どがこれで戦が終了したとは思っていなかった。
戦目付の横山大膳からは陣を離れる武将達に、「今回の褒賞は後日といたす」と言われていた。
富への小袖はもう少し先の話となった。
 予想通り暖かくなると同時に江戸と大坂の緊張は高まり、徳川家康は慶長二十年四月六日、諸大名に伏見への集結を命じた。
四月十八日に金沢を御出陣、五月三日には京都で馬揃えを行って、隊列を組んで大坂に向かっている。
今度は初めから野戦であったため、短期決戦が予想されていた。
五月六日には道明寺・八尾で遭遇戦があり前田家からも北川久兵衛を藤堂家に、不破加兵衛を井伊家に使わされていた。
その時の戦闘で後藤又兵衛・木村重成が討ち死にしたと知らされた。
木村重成は前年の籠城戦の豊臣方講和使者として家康と会談した若武者であり、徳川方にも評判の武者であった。豊臣方であと名の知れた武者としては、真田であったが、真田幸村は浪人であり討ち取っても手柄とはならなかった。
豊臣の重臣としては大野治房・大野治長が上げられるが手柄になるような武将とは言えなかった。
戦いは、天王寺口と岡山口に別れたが、真田のいる天王寺口が主戦場になるのは明らかであった。
前日の戦闘で藤堂家・井伊家が損害を出し先陣を辞退したため、岡山口の先陣は前田家に命じられた。
「声出して行けよ、声出して」
前線で勘兵衛の裏声が響いていた。前年の真田丸での抜け駆け騒ぎで家康の怒りをかった前田利常は、是か非でも今回は大坂城一番乗りを果たして、目に見える手柄を示したかった。
そのため岡山口本道に対して右翼に富田越後・横山山城組、左翼に山崎閑斉・奥村河内の譜代組を配置し、二番手に長・本多安房組と利常馬廻衆を配していた。
前田家全軍で攻め入る体制である。
通常本陣は余り動かず、状況により軍を動かすのであったが、この日は全軍で一挙に大坂城を目指すとされた。
利常の廻りには二重にも三重にも鉄盾が配置され影武者が馬上で指揮を執り、利常自身は鉄盾に覆われた後ろの輿に乗っていた。
先手の前面には竹束を抱えた小者が何人も配置された。
素早く動くには、鉄盾は重すぎた。
「鉄砲の音がしたら、竹束を地面に立てて影に隠れろ。音より早く来る鉄砲玉は無いから安心しろ」
勘兵衛は絶えず声を出して動き回った。
「竹束は、印束を真ん中にして左右に少しずつ下げて並べよ、鉄砲玉は前からだけじゃない、横からも来るからな、竹に当たった鉄砲玉はどこに跳ねるか分からん」
勘兵衛の声は甲高いため戦場では良く聞こえる。初めての者が多い中で、戦場経験豊かな勘兵衛は頼もしくみえた。
「俺に付いてくれば、死にはせん。俺の声とおり動け」
五月七日正午頃、天王寺口で東軍本多忠朝隊と西軍毛利勝永隊とが僅か百メートルほどの距離を置いて銃撃戦を始めた。
初夏の蒸しかえるような暑さのなか、銃兵折り重なるようにしての銃撃戦が始まった。
西軍としては、これは予定外の行動であり主将の毛利勝長も中止させようとしたが、かえって銃撃を熾烈にしてしまった。
勘兵衛の言った功名争いという名の内部分裂が成功していた。
本多隊が銃撃戦に敗れて敗走する者が多くなると、本多忠朝は真一文字に突撃して毛利勝長隊に突っ込み二十数カ所に傷を負って戦死している。また時を同じくして東軍小笠原秀政隊と西軍大野隊とでも銃撃戦が始まり、秀政は重傷を負って退却し、その傷がもとでその夜には戦死している。
西軍は当初より組織的な攻撃が行われなかったにも拘わらず、多大の被害を東軍に与えたのは西軍兵士の絶望的な勇気に押されたところが多かった。しかも、冬の陣で手柄を真田独りにさらわれた事実は、他の武将を個人的な英雄行動に駆り立てるものであった。
当初の戦いを細川忠興は、七日の合戦に、此方歴歴の人数を持ちながら逃げざるは希に候と、味方の多くが大軍を擁しながら逃げた不甲斐なさを冷笑している。

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