お届けするのは
The Doors「Strange Days」
本日は、ボーカルでバンドの作詩のほとんどを手がけたジム・モリスンの誕生日ということでアップしました。
この曲は1967年2枚目のアルバム「まぼろしの世界」に収録されたもので、マンザレクのオルガンが曲全体に響き渡るなかを、ジムが淡々と歌い上げる曲。
この年の1月に発売されたデビュー作「ハートに火をつけて」の成功によって、バンドは自信を持ってレコーディングにのぞむことができ、より強く彼らの世界が表現されている。このアルバムに収められた曲は、華やかな曲は少ないものの、実験精神に富みながらも、アルバム全体の統一感が保たれている。またアルバムの写真は、曲芸師の一団が街を練り歩くというもので、他のドアーズのアルバムがメンバーの写真なのに対して、異彩を放っている。
その淡々と歌う彼ですが、
1943年、ジェームズ・ダグラス・モリソンはアメリカ海軍の軍人であり、後に提督となるジョージ・スティーヴン・モリソンとクララ・クラーク・モリソン夫妻の息子としてフロリダ州メルボルンで生まれた。
一家は父の職業柄、転居を重ねジムはそのためか家に閉じこもって読書にふけることが多くなった。高校卒業後フロリダ州立大学に入学するが、哲学や詩にのめり込み、1964年の1月に家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入する(同級生にフランシス・フォード・コッポラがいる)。 UCLAで彼はレイ・マンザレクに出会い、彼に自作の詩を読んで聞かせた。マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。ジムはレイと彼の兄リック、メディテーションセンターで出会ったジョン・デンスモアと共にデモ・レコードを録音する。リックがバンドを辞め、同じメディテーションセンターの仲間だったロビー・クリーガーが参加してザ・ドアーズのラインナップが完成した。
バンド名はウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」から取られたオルダス・ハックスレーの「知覚の扉(The Doors of Perception)」が元となっている。
彼は自らを「ミスター・モジョ・ライジン(Mr. Mojo Risin)」としたが、これは「ジム・モリソン(Jim Morrison)」のアナグラムである。それは彼の参加した最後のアルバムに収録されている「L.A.ウーマン」のリフレインに用いられた。さらに彼は「トカゲの王(The Lizard King)」と呼ばれた。これはアルバム『太陽を待ちながら』の中に現れる彼の有名な叙事詩「ザ・セレブレーション・オブ・ザ・リザード」から来ており、それは1990年代にミュージカルとして上演された。
ドアーズの結成前からモリソンは様々なドラッグを服用し、多量の飲酒で様々などんちゃん騒ぎに耽った。時にはレコーディング時も酔っぱらい、その様子は多数録音された。「ファイヴ・トゥ・ワン」の中では彼のしゃっくりが聞かれる。また、ジミ・ヘンドリックスとのセッションでも酔っぱらった様子が録音されている。
1969年3月、マイアミでのコンサートで彼はズボンを下げ自慰行為を見せたと言うことで逮捕される。モリソンの逮捕と共に、バンドは反社会的存在のレッテルを貼られ、ライブ活動は縮小していった。1970年12月12日のニューオーリンズでのステージを最後にモリソンはライブ活動を停止した。彼は著作に専念するため1971年3月にパリへ移り住んだ。
モリソンの墓ジム・モリソンは1971年7月3日にパリのアパートでバスタブの中で死体として発見された。多くのファンおよび伝記作家が死因を薬の過剰服用や、アメリカ政府による暗殺の可能性を推測した。モリソンの死はブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスに続く悲劇だった(偶然にも彼らは同じ27歳で死亡しており、ロック界におけるひとつのジンクスとなっている。20数年後にニルヴァーナのカート・コバーンも同じ年齢で自殺している)。
死因は公式には心臓発作と発表された。彼はパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されているが、訪れるファンの落書きやゴミが問題とされ、新しい別の場所に再埋葬される可能性が示された。
幾人かのファンは彼の死はスポットライトから逃れるための偽装だと信じている。陰謀を主張するものは、彼のガールフレンド、パメラ・カーソンが「彼は非常に疲れていて、病院で休んでいる」と新聞に語ったことを指摘する。実際に死体が埋葬されるのを見たのはごく少数で、またモリソンは「死」に先立つ数ヶ月前からバンドのメンバーによく「アフリカへの逃亡」を冗談めかして話していた。デンスモアがモリソンの墓に初めて訪れたとき、彼は「(遺体が入るには)墓が短すぎないか?」と話したと言われている。
ジムは厳格で保守的な両親によって育てられたが、両親の教育とは徹底的に異なった価値観での作品表現を行った。
モリソンによれば、彼の生活での最も重要な出来事は1947年のニューメキシコ州への家族旅行中でのことであった。彼は以下のように語っている。
「僕が発見した最初の死だった...僕と母と父、そして祖母に祖父は夜明けに砂漠を通っていた。インディアン達の乗ったトラックが別の車か何かと衝突して、彼らはハイウェイ中にまき散らされ、血を流して死んでいた。僕は単なる子供だった。だから、父と祖父が事故を確かめに行ったけれど、僕は車の中にとどまっていなければならなかった。僕は何も見なかった。僕が見たのは奇妙な赤ペンキとまわりに寝転がっている人たちだった。でも僕は彼らが僕同様に何が起きたのか分かっていないのを理解した。それは僕が初めて味わった恐怖だった...そして僕はその瞬間思った。死んだインディアン達の魂は - たぶん彼らの内一つか二つ - ちょうどそこらを走り回り、幻覚のように奇妙な行動をし、僕の魂に入り込んだ。そして僕はスポンジのようにそこに座ってそれを吸い取る準備が出来ていたんだ。」 ・・・
1991年映画「ドアーズ」(オリバー・ストーン監督)の最初のシーンは上記のような衝撃的なもので、その出来事や家庭環境で彼を文学的サイケデリックに導かせ、天才的発揮し、1960年代後半に起きた音楽的革命でその先端を走るも、薬物による奇行などでお騒がせになったりとするも、27歳で他界したことが残念であるが、ロックを確立した歴史には刻まれ、彼の魂は今も繁栄している・・・彼の作詞能力はボブ・ディラン相当の能力ほどで「ノーベル文学賞」級だとも言われる・・・
で、彼の生年月日から潜在能力とラッキーカラーは、点火法数字「821」、ラッキーカラー;赤。
そのことについてはカテゴリー「わしやま音楽祭Vol.10」内の「8月21日パンクな出来事」と「夏の叫び」参照。
ジム・モリスンと同じ潜在能力仲間の有名人(点火法数字821の方々)
西村知美(山口県出身で芸能界に入る前地元の雑木林で「かぐや姫」を見たことがあるタレント;愛称は「知美ちゃん」「トロリン」。チャームポイントは顎の先まで伸びる長い舌。また麺をすする事が出来ない為、口の中でスパゲッティやそばを長い舌で巻きつけながら食べる。この独特な食べ方は長女もできるが、人前ではあまりしないように言い聞かせているという。因みに長女は麺類をすする事ができる。芸能活動を始めるまでは、何かというと赤面する事から「トマトちゃん」、暗い事から「ネクラちゃん」とまで言われていたという。酒井法子とは、高校の同級生である(星の金貨シリーズで共演)。また映画監督の庵野秀明は中学校の先輩に当たる。1997年に結婚した元CHA-CHAの西尾拓美ともども、左利きである(だが、2008年3月13日TBS系で放送された『うたばん』の企画「家事検定」に出演した時には、右手で答えを書いていた)。アニメ・漫画全般に造詣が深く、「アニメージュ」でコラム「あにめってらぶりー」を担当していた。アニメ・漫画好きを公言して活動する女性タレントの先駆け的存在であり、中川翔子ら後輩にも影響を与えている。特に好きな作品は『うる星やつら』で、デビュー前に「読者脚本コンテスト」に応募したほど。(20名ほどの候補作に残り、雑誌に名前も掲載された。応募脚本はエッセイ本『夢幻童子』に収録) 関連番組にも何度か出演している。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』に関しては、各部屋に全冊置かれており、アニメ化に際して、題字を担当した。資格コレクターとしても知られ、手話検定2級・中級手話インストラクター・おもちゃコンサルタント・ベジタブル&フルーツマイスター・タイ古式マッサージ・重機オペレーターなどの資格を保持(詳細は公式サイトを参照)。本人は資格取得の理由として自己啓発が好きなことに加え、大学に進学できなかったコンプレックスがあると語っている。また、試験がある資格はなるべく避けて、講義に参加するだけで取る事が出来る資格を調べて取るようにしている。普段から裏声で話している。一度だけ『さんまのからくりTV』で地声(顔に似合わずかなり低い)を披露したことがある。ウンナンの気分は上々。では地声を探しているとも語っていた。西尾氏との間にできた子を出産し、その報告会見でお父さんとお母さんどちらに似ているかの質問で、「自分の子を含め全ての赤ちゃんがガッツ石松似」ととんでもない回答をした。)、ROCK-Tee(ヒップホップユニットEAST ENDのメンバーでDJを担当。FUNKY GRAMMAR UNIT所属。東京都新宿区出身。血液型はO型。1990年、GAKU-MC、YOGGYと共にEAST END結成。1995年2月、方向性の違いによりEAST ENDを脱退。同年秋、原宿にショップ「CRIB」をオープンする。かつては、RIP SLYMEのPES、KICK THE CAN CREWのKREVAがバイトととして在籍していた。2003年、EAST ENDに復帰し再始動。 EAST ENDに所属する以前には、「DEF BEAT CREW」というグループに在籍していた。元RHYMESTERのDr.LOOPERとLR STEREOとして活動もしている)、和久井映見(アルファーエージェンシー所属の俳優;1988年高校生時代に東京ディズニーランドでスカウトされ芸能界デビュー、その後TVドラマ、映画、音楽活動と順調に活躍、実生活では1995年萩原聖人と結婚、一児もうけるが2003年離婚、親権は本人が持っている。1991年映画「息子」で日本アカデミー賞新人俳優賞、助演女優賞、同年「息子」、「就職戦線異状なし」でキネマ旬報助演女優賞、日刊スポーツ映画大賞助演女優賞、1993年「虹の橋」で日本アカデミー賞主演女優賞)、セイン・カミュ(父親はアルジェリア人の血を引くフランス系アメリカ人で、母はイギリス人である。大叔父(母の父の弟)はノーベル文学賞受賞作家のアルベール・カミュの血を引く日本語が達者な外国人タレント。数か国に滞在した経験があるが、日本の滞在期間が最も長いため流暢に日本語を話し、幼少期に観たアニメなど日本のテレビ番組にも詳しい。『クイズダービー』の復刻版に出演した際には、司会の大橋巨泉から「ひっどい(凄く)日本語うまいね。山形弁じゃないね(ダニエル・カールのこと)。ケント・ギルバートとかよりまだ上手いね」と驚いた様子で評された。『森田一義アワー 笑っていいとも!』のクイズコーナーに1外国人として出演した際に、アニメなどに関するマニアックな知識を披露したことで注目され、同コーナーのレギュラーとなった。2002年に日本人女性と結婚。2003年2月に長男が誕生し、2005年12月に次男が誕生。2008年12月に長女が誕生して3児の父親になった。かつてはR&Aプロモーションに所属していたが、その後過去番組出演ギャラをめぐり同社と対立し脱退。現在では友人たちとともに立ち上げたイクリプス・プロダクションに所属している。R&Aプロモーションからの脱退後はメディアへの露出が減少したが、公演や営業などで地道に活動を続けている。趣味はギザ十集めである。また、ウミガメのペンダントを愛用している。スキューバーダイビングの免許を持っている。『ぐるぐるナインティナイン』の1コーナー「グルメチキンレース・ゴチになります! 4」では、1シーズン通して一度も最下位になっていない。しかし、その後コーナーを卒業したため、第5シーズンからは参加していない。『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』に出演している「今夜が山田」(デビット・ホセイン:イラン人)は、セインの元マネージャーである。父親が丹波哲郎と知り合いだったことから、シンガポールに滞在していた10歳当時に『Gメン75』にエキストラ出演したことがある。)、渡辺満里奈(SMAエンターテイメント所属のタレント。夫はネプチューン名倉潤;血液型はB型。本名である満里奈という名前は、ヨット好きだった父がマリーナからとって命名したという。1984年のミス・セブンティーンコンテストに応募し、東京地区予選にてCBSソニーにスカウトされる。その後、1986年3月に『夕やけニャンニャン』のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ」に参加。月曜日の登場時から存在感を示し、金曜日には高得点(120点。合格は100点以上)で合格を果たした。その際、とんねるずに「おニャン子はお前のものだ!!持ってけ!!」とまで言わしめたそれほどまでの高評価だったが、後に本人曰く[いつ?][どこ?]、この合格以前にいくつものオーディションで落選していた、とのこと。そしておニャン子クラブ会員番号36番としてデビュー。デビュー早々より人気を得て、中期から後期にかけてのおニャン子クラブの主力メンバーとなった。また、とんねるず(と秋元康)にかわいがられ、彼らの妹分的な位置づけとなった。おニャン子クラブ時代は同じ渡辺姓の渡辺美奈代とともに「W渡辺」「ワタナベズ」と呼ばれた。おニャン子クラブ在籍中の1986年10月に発売されたソロデビュー曲「深呼吸して」は、当時のオリコン初登場1位最年少記録(15歳11ヶ月)であり、2001年3月27日、当時モーニング娘だった後藤真希のデビュー曲「愛のバカやろう」(15歳6ヶ月)まで、約15年間この記録は破られなかった。おニャン子クラブ解散後も歌手としてアイドル番組やバラエティーなどに出演。当初はアイドルとして、事務所の意向に沿った衣装や楽曲で出演していたが、途中から独自の路線で曲や衣装なども変わっていき、渋谷系の代表格であったフリッパーズ・ギターの楽曲を歌うなど、他のアイドルとはまったく別の方向性で歌手活動を展開する。その後、とんねるずと秋元康の縁から『とんねるずのみなさんのおかげです』にレギュラー出演、お笑いの資質も見出され芸歴に幅が拡がり、後の司会業をはじめとする様々な番組の出演への道が開けた。その頃(1989年頃)から本人の意向により、おニャン子メンバーであったことを積極的に表に出さないようにもなる。その後、バラエティ番組において、タモリ、ビートたけし、みのもんた、とんねるず、古舘伊知郎といった強烈な個性の持ち主たちと堂々と渡り合う。2000年代からはファッション、旅行、健康など彼女の趣味・経験による書籍を多く出版している。特に台湾通として知られており、台湾政府観光局のイメージキャラクターにも選ばれた。また、現在はピラティス・メソッド(これに関しても著書『ピラティス道』を上梓、後にDVDも発売)の実践でシャープな体型を維持している。2005年4月5日、テレビ朝日の番組『銭形金太郎』で、共演している名倉との結婚を発表した。2005年5月5日に婚姻届を提出し、10月23日に東京プリンスホテルにて披露宴を行った。結婚、出産後は、2008年から雑誌『LEE』における手芸に関する連載、2009年よりオーガニック綿を用いた子供服中心のブランド「gris-gris」の立ち上げなどの活動も行っている。 またホメオパシーにも傾倒するようになっており、ホメオパシージャパンの由井寅子の講演に参加するなどしている。現在2児の母親である。)、村上睦子(元女子日本代表のバスケットボール選手;現在姓は岩屋。星城高等学校卒業後、1989年にシャンソンVマジックに入団。身長165cmと小柄ながら多くの試合に出場、ポイントガードとして活躍し、シャンソンのWリーグ10連覇に貢献。新人賞、MVP、ベスト5など多数受賞。1996年のアトランタオリンピックに日本代表として出場。2000年に引退。)、的山哲也(元近鉄→オリックス→ソフトバンクのプロ野球選手;現在は福岡ソフトバンクホークス1軍バッテリーコーチ。打撃成績は芳しくないが、豊富な経験に裏打ちされたリードと盗塁阻止率は常にトップクラスという球界屈指の強肩が特徴の典型的な守備型捕手であった。打撃については近鉄時代、当時監督の梨田昌孝(現在日本ハムファイターズ監督)が「アイツのバットには芯がない」と発言した事があり、ファンやマスコミからも「(打率が)自らの身長(あるいは体重)との勝負」、「どこかの市外局番か?(1割を切った時の打率の表示が市外局番の番号のように見える、との趣旨)」、「ヒットが出るんなら左(打ち)でやってもいい(的山は右打者)」という冗談で揶揄され、本人も「1試合2安打はレアです」と言う程で、実際に優れていると言える程の打撃成績を残した事がない。しかし、選球眼は健在で印象に残る本塁打を放つこともあり、その意外性が特徴とも言える打撃は「ビックリ箱」と称される。 人物として野球を始めた小学生時代から捕手を務めていたが、ある日の試合で正捕手の目にゴミが入ったことから交代した結果、正捕手より上手いと絶賛された。正捕手はその後、野球を辞めてしまったという。 通訳が必要無い位英会話が堪能のため、近鉄時代からパウエルやケビン・バーン、オリックスでもトム・デイビー、ランス・カーターなどの外国人投手とバッテリーを組むことが多かった。ホークス移籍後も、パウエルの初登板の際にバッテリーを組んだ。 生まれつき右耳に難聴の既往がある。ほとんど聞こえないが、健常な左耳で音を聞き取る訓練を積み現在に至る。しかし、他者が何か言っても聞こえないことがあり、監督やコーチが声で指示しても聞き逃したり、打者に無視されたと誤解されて乱闘になったこともあった。現役で一番印象に残っている投手は赤堀元之。「真っすぐも、スライダーも、口では説明するのは難しいんですけど、本当に素晴らしかった。だからあれだけ何度もセーブ王を取れるんだと思いましたね」と語っている。)、吉田篤史(元ロッテ→阪神のプロ野球選手;現在は横浜ベイスターズ投手コーチ;出生地は東京都豊島区。小学校時代に新潟市に移住した。日本文理高校卒業後、ヤマハに入社。2年目の1990年には都市対抗野球大会で優勝に貢献、胴上げ投手となり、橋戸賞、若獅子賞を獲得した。翌1991年もチームを都市対抗本大会に導く活躍が認められ、複数のプロ球団から注目を集めた。同年オフ、ドラフト1位でロッテの指名を受け、プロ入りした。尚、吉田の1位指名は、新潟県出身・在住且つ新潟県内の高校出身者としては史上初のことだった。)、藤井猛(将棋棋士;現在九段で西村一義九段門下。「猛」という名前はボクシング元世界チャンピオンの藤猛から来ている。棋風として従来から四間飛車を得意戦法としていたが、革新的な四間飛車戦法である「藤井システム」の創始者でもある。自玉の囲いを省略して序盤から攻撃的な布陣を敷き、居飛車穴熊や左美濃を攻略するこの戦法は、将棋界の振り飛車戦法に革命をもたらすのみならず、将棋の序盤戦略そのものに大きな影響を与えた。このことが評価され、1996年度将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。終盤、大胆に大駒を切り、露骨に相手玉に喰らい付く棋風から「ガジガジ流」というニックネームがついている。また居飛車穴熊や左美濃に対して先攻することを主体としているため、居飛車感覚の振り飛車ともいわれる。四間飛車の使い手である自らを鰻屋に例え「こちとら鰻しか出さない鰻屋だからファミレス(オールラウンダー)の鰻に負けるわけにはいかない」と語ったことがある。ところが2007年2月5日の北浜健介との対局でとうとう「ゴキゲン中飛車」を指し、若手棋士たちを驚愕(失望?)させた。本人は勝又清和のインタビューに「もう鰻屋だけじゃやってけない。これからは多角経営ですよ」とコメント、そして翌年の2008年からは研究会や公式戦で居飛車の矢倉を多く指すようになった。さらにその後、将棋世界2009年9月号の中で「僕はもう(藤井システムからは)引退しました」と、藤井システムを捨てたと取れる発言をしている。2008年の中頃から居飛車の矢倉を指すようになり、周囲を驚かせた。本人は将棋世界2008年12月号の中で「そろそろ、色々指してみようと思ったが、相振り飛車の経験が一番生きやすい戦型が矢倉だった。」と答えている。従来の矢倉とは異なる、早囲いから先行を目指そうとする積極的な指し回しは、その年度に森内俊之や佐藤康光も対局で採用するなど、早くも他の有力棋士に影響を与えた。2009年3月に「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際には「今年度は新しいことに挑戦できたという点で満足できる1年であった」との旨を語った。 好きな食べ物はうどん。嫌いな食べ物は納豆と梅干し。筋違い角戦法に対しては90%勝てると公言している。1998年、谷川浩司との竜王戦を戦ったのは、NHK将棋講座で藤井システムの講座の講師を務めた直後のことである。番組中、アシスタントの高橋和からエールを受けた。さらに、当時「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際には、司会者であり藤井と同門(西村門下)の山田久美から、カニの絵が描かれた扇子が贈呈された(谷川はカニが苦手(食物アレルギー)であることから)。 21期竜王戦では「絶品チーズバーガー」や「かっぱ寿司」などユニークな発言が話題になった。 2005年前後から、終盤での逆転で負けることが多くなった。2006年のA級順位戦対羽生戦では、途中まで必勝と言われた将棋を悪手の連発でまさかの大逆転負けを喫した。その終局時において、藤井は台上の駒を文字通り盤の上に投げて投了の意を示した。藤井自身、この敗局を生涯最悪の逆転負けであるとの旨を語っている。)、INORAN(LUNA SEAのG;本名:井上清信。神奈川県秦野市出身。神奈川県立大秦野高等学校出身。身長170cm。左利き。愛称は イノ。他に先生などで呼ばれることもある。自らのファンクラブ「NO NAME?(ノー・ネーム)」を持つ。中学時代にJと出会い、LUNA SEAの原型となるLUNACYを結成し、活動をスタートさせた(LUNA SEAのメンバーSUGIZOも同じ中学校に通っていたが、学年が異なっており(SUGIZOが1歳年長)、また、マンモス校だったために気付かなかったという)。中学時代に憧れだったギタリストは瀧川一郎で、デビュー後には交流もうまれた。LUNA SEA時代はリズムギターを主に担当。作曲も手がけ、カップリングの曲にINORAN原曲のものが多い。クリーンなアルペジオに定評がある。左利きであるが、ギターを弾き始めた当時、左利き用のギターは少なく、値段も高かったため、右手でギターを弾き始めた。後にMonophonicにて、左利き用のギターを使用してみたがまったく弾けなかったと語っている。 LUNA SEA時代には一曲だけギターソロを披露しており、音源化されていない「もう死んだ振りさせない」(この当時はLUNACY)という曲である。車はフェラーリを好み、F1好きでもある。1998年日本GPのスペシャルゲストとして招かれたことがあり、観戦のために海外まで足を伸ばすことも多い。ヘビースモーカーである。 2009年頃ESPとの契約を解消したためシグネチャ・モデルのレスポールを持つことが無くなり、以降ストラト弾きギタリストになった。 )、・・・つづく
The Doors「Strange Days」
本日は、ボーカルでバンドの作詩のほとんどを手がけたジム・モリスンの誕生日ということでアップしました。
この曲は1967年2枚目のアルバム「まぼろしの世界」に収録されたもので、マンザレクのオルガンが曲全体に響き渡るなかを、ジムが淡々と歌い上げる曲。
この年の1月に発売されたデビュー作「ハートに火をつけて」の成功によって、バンドは自信を持ってレコーディングにのぞむことができ、より強く彼らの世界が表現されている。このアルバムに収められた曲は、華やかな曲は少ないものの、実験精神に富みながらも、アルバム全体の統一感が保たれている。またアルバムの写真は、曲芸師の一団が街を練り歩くというもので、他のドアーズのアルバムがメンバーの写真なのに対して、異彩を放っている。
その淡々と歌う彼ですが、
1943年、ジェームズ・ダグラス・モリソンはアメリカ海軍の軍人であり、後に提督となるジョージ・スティーヴン・モリソンとクララ・クラーク・モリソン夫妻の息子としてフロリダ州メルボルンで生まれた。
一家は父の職業柄、転居を重ねジムはそのためか家に閉じこもって読書にふけることが多くなった。高校卒業後フロリダ州立大学に入学するが、哲学や詩にのめり込み、1964年の1月に家族の反対を押し切りUCLAの映画学科に編入する(同級生にフランシス・フォード・コッポラがいる)。 UCLAで彼はレイ・マンザレクに出会い、彼に自作の詩を読んで聞かせた。マンザレクは彼の詩に惹かれ、バンドを組むことにする。ジムはレイと彼の兄リック、メディテーションセンターで出会ったジョン・デンスモアと共にデモ・レコードを録音する。リックがバンドを辞め、同じメディテーションセンターの仲間だったロビー・クリーガーが参加してザ・ドアーズのラインナップが完成した。
バンド名はウィリアム・ブレークの詩「忘れがたい幻想」から取られたオルダス・ハックスレーの「知覚の扉(The Doors of Perception)」が元となっている。
彼は自らを「ミスター・モジョ・ライジン(Mr. Mojo Risin)」としたが、これは「ジム・モリソン(Jim Morrison)」のアナグラムである。それは彼の参加した最後のアルバムに収録されている「L.A.ウーマン」のリフレインに用いられた。さらに彼は「トカゲの王(The Lizard King)」と呼ばれた。これはアルバム『太陽を待ちながら』の中に現れる彼の有名な叙事詩「ザ・セレブレーション・オブ・ザ・リザード」から来ており、それは1990年代にミュージカルとして上演された。
ドアーズの結成前からモリソンは様々なドラッグを服用し、多量の飲酒で様々などんちゃん騒ぎに耽った。時にはレコーディング時も酔っぱらい、その様子は多数録音された。「ファイヴ・トゥ・ワン」の中では彼のしゃっくりが聞かれる。また、ジミ・ヘンドリックスとのセッションでも酔っぱらった様子が録音されている。
1969年3月、マイアミでのコンサートで彼はズボンを下げ自慰行為を見せたと言うことで逮捕される。モリソンの逮捕と共に、バンドは反社会的存在のレッテルを貼られ、ライブ活動は縮小していった。1970年12月12日のニューオーリンズでのステージを最後にモリソンはライブ活動を停止した。彼は著作に専念するため1971年3月にパリへ移り住んだ。
モリソンの墓ジム・モリソンは1971年7月3日にパリのアパートでバスタブの中で死体として発見された。多くのファンおよび伝記作家が死因を薬の過剰服用や、アメリカ政府による暗殺の可能性を推測した。モリソンの死はブライアン・ジョーンズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスに続く悲劇だった(偶然にも彼らは同じ27歳で死亡しており、ロック界におけるひとつのジンクスとなっている。20数年後にニルヴァーナのカート・コバーンも同じ年齢で自殺している)。
死因は公式には心臓発作と発表された。彼はパリの東にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されているが、訪れるファンの落書きやゴミが問題とされ、新しい別の場所に再埋葬される可能性が示された。
幾人かのファンは彼の死はスポットライトから逃れるための偽装だと信じている。陰謀を主張するものは、彼のガールフレンド、パメラ・カーソンが「彼は非常に疲れていて、病院で休んでいる」と新聞に語ったことを指摘する。実際に死体が埋葬されるのを見たのはごく少数で、またモリソンは「死」に先立つ数ヶ月前からバンドのメンバーによく「アフリカへの逃亡」を冗談めかして話していた。デンスモアがモリソンの墓に初めて訪れたとき、彼は「(遺体が入るには)墓が短すぎないか?」と話したと言われている。
ジムは厳格で保守的な両親によって育てられたが、両親の教育とは徹底的に異なった価値観での作品表現を行った。
モリソンによれば、彼の生活での最も重要な出来事は1947年のニューメキシコ州への家族旅行中でのことであった。彼は以下のように語っている。
「僕が発見した最初の死だった...僕と母と父、そして祖母に祖父は夜明けに砂漠を通っていた。インディアン達の乗ったトラックが別の車か何かと衝突して、彼らはハイウェイ中にまき散らされ、血を流して死んでいた。僕は単なる子供だった。だから、父と祖父が事故を確かめに行ったけれど、僕は車の中にとどまっていなければならなかった。僕は何も見なかった。僕が見たのは奇妙な赤ペンキとまわりに寝転がっている人たちだった。でも僕は彼らが僕同様に何が起きたのか分かっていないのを理解した。それは僕が初めて味わった恐怖だった...そして僕はその瞬間思った。死んだインディアン達の魂は - たぶん彼らの内一つか二つ - ちょうどそこらを走り回り、幻覚のように奇妙な行動をし、僕の魂に入り込んだ。そして僕はスポンジのようにそこに座ってそれを吸い取る準備が出来ていたんだ。」 ・・・
1991年映画「ドアーズ」(オリバー・ストーン監督)の最初のシーンは上記のような衝撃的なもので、その出来事や家庭環境で彼を文学的サイケデリックに導かせ、天才的発揮し、1960年代後半に起きた音楽的革命でその先端を走るも、薬物による奇行などでお騒がせになったりとするも、27歳で他界したことが残念であるが、ロックを確立した歴史には刻まれ、彼の魂は今も繁栄している・・・彼の作詞能力はボブ・ディラン相当の能力ほどで「ノーベル文学賞」級だとも言われる・・・
で、彼の生年月日から潜在能力とラッキーカラーは、点火法数字「821」、ラッキーカラー;赤。
そのことについてはカテゴリー「わしやま音楽祭Vol.10」内の「8月21日パンクな出来事」と「夏の叫び」参照。
ジム・モリスンと同じ潜在能力仲間の有名人(点火法数字821の方々)
西村知美(山口県出身で芸能界に入る前地元の雑木林で「かぐや姫」を見たことがあるタレント;愛称は「知美ちゃん」「トロリン」。チャームポイントは顎の先まで伸びる長い舌。また麺をすする事が出来ない為、口の中でスパゲッティやそばを長い舌で巻きつけながら食べる。この独特な食べ方は長女もできるが、人前ではあまりしないように言い聞かせているという。因みに長女は麺類をすする事ができる。芸能活動を始めるまでは、何かというと赤面する事から「トマトちゃん」、暗い事から「ネクラちゃん」とまで言われていたという。酒井法子とは、高校の同級生である(星の金貨シリーズで共演)。また映画監督の庵野秀明は中学校の先輩に当たる。1997年に結婚した元CHA-CHAの西尾拓美ともども、左利きである(だが、2008年3月13日TBS系で放送された『うたばん』の企画「家事検定」に出演した時には、右手で答えを書いていた)。アニメ・漫画全般に造詣が深く、「アニメージュ」でコラム「あにめってらぶりー」を担当していた。アニメ・漫画好きを公言して活動する女性タレントの先駆け的存在であり、中川翔子ら後輩にも影響を与えている。特に好きな作品は『うる星やつら』で、デビュー前に「読者脚本コンテスト」に応募したほど。(20名ほどの候補作に残り、雑誌に名前も掲載された。応募脚本はエッセイ本『夢幻童子』に収録) 関連番組にも何度か出演している。『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』に関しては、各部屋に全冊置かれており、アニメ化に際して、題字を担当した。資格コレクターとしても知られ、手話検定2級・中級手話インストラクター・おもちゃコンサルタント・ベジタブル&フルーツマイスター・タイ古式マッサージ・重機オペレーターなどの資格を保持(詳細は公式サイトを参照)。本人は資格取得の理由として自己啓発が好きなことに加え、大学に進学できなかったコンプレックスがあると語っている。また、試験がある資格はなるべく避けて、講義に参加するだけで取る事が出来る資格を調べて取るようにしている。普段から裏声で話している。一度だけ『さんまのからくりTV』で地声(顔に似合わずかなり低い)を披露したことがある。ウンナンの気分は上々。では地声を探しているとも語っていた。西尾氏との間にできた子を出産し、その報告会見でお父さんとお母さんどちらに似ているかの質問で、「自分の子を含め全ての赤ちゃんがガッツ石松似」ととんでもない回答をした。)、ROCK-Tee(ヒップホップユニットEAST ENDのメンバーでDJを担当。FUNKY GRAMMAR UNIT所属。東京都新宿区出身。血液型はO型。1990年、GAKU-MC、YOGGYと共にEAST END結成。1995年2月、方向性の違いによりEAST ENDを脱退。同年秋、原宿にショップ「CRIB」をオープンする。かつては、RIP SLYMEのPES、KICK THE CAN CREWのKREVAがバイトととして在籍していた。2003年、EAST ENDに復帰し再始動。 EAST ENDに所属する以前には、「DEF BEAT CREW」というグループに在籍していた。元RHYMESTERのDr.LOOPERとLR STEREOとして活動もしている)、和久井映見(アルファーエージェンシー所属の俳優;1988年高校生時代に東京ディズニーランドでスカウトされ芸能界デビュー、その後TVドラマ、映画、音楽活動と順調に活躍、実生活では1995年萩原聖人と結婚、一児もうけるが2003年離婚、親権は本人が持っている。1991年映画「息子」で日本アカデミー賞新人俳優賞、助演女優賞、同年「息子」、「就職戦線異状なし」でキネマ旬報助演女優賞、日刊スポーツ映画大賞助演女優賞、1993年「虹の橋」で日本アカデミー賞主演女優賞)、セイン・カミュ(父親はアルジェリア人の血を引くフランス系アメリカ人で、母はイギリス人である。大叔父(母の父の弟)はノーベル文学賞受賞作家のアルベール・カミュの血を引く日本語が達者な外国人タレント。数か国に滞在した経験があるが、日本の滞在期間が最も長いため流暢に日本語を話し、幼少期に観たアニメなど日本のテレビ番組にも詳しい。『クイズダービー』の復刻版に出演した際には、司会の大橋巨泉から「ひっどい(凄く)日本語うまいね。山形弁じゃないね(ダニエル・カールのこと)。ケント・ギルバートとかよりまだ上手いね」と驚いた様子で評された。『森田一義アワー 笑っていいとも!』のクイズコーナーに1外国人として出演した際に、アニメなどに関するマニアックな知識を披露したことで注目され、同コーナーのレギュラーとなった。2002年に日本人女性と結婚。2003年2月に長男が誕生し、2005年12月に次男が誕生。2008年12月に長女が誕生して3児の父親になった。かつてはR&Aプロモーションに所属していたが、その後過去番組出演ギャラをめぐり同社と対立し脱退。現在では友人たちとともに立ち上げたイクリプス・プロダクションに所属している。R&Aプロモーションからの脱退後はメディアへの露出が減少したが、公演や営業などで地道に活動を続けている。趣味はギザ十集めである。また、ウミガメのペンダントを愛用している。スキューバーダイビングの免許を持っている。『ぐるぐるナインティナイン』の1コーナー「グルメチキンレース・ゴチになります! 4」では、1シーズン通して一度も最下位になっていない。しかし、その後コーナーを卒業したため、第5シーズンからは参加していない。『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』に出演している「今夜が山田」(デビット・ホセイン:イラン人)は、セインの元マネージャーである。父親が丹波哲郎と知り合いだったことから、シンガポールに滞在していた10歳当時に『Gメン75』にエキストラ出演したことがある。)、渡辺満里奈(SMAエンターテイメント所属のタレント。夫はネプチューン名倉潤;血液型はB型。本名である満里奈という名前は、ヨット好きだった父がマリーナからとって命名したという。1984年のミス・セブンティーンコンテストに応募し、東京地区予選にてCBSソニーにスカウトされる。その後、1986年3月に『夕やけニャンニャン』のオーディション「ザ・スカウト アイドルを探せ」に参加。月曜日の登場時から存在感を示し、金曜日には高得点(120点。合格は100点以上)で合格を果たした。その際、とんねるずに「おニャン子はお前のものだ!!持ってけ!!」とまで言わしめたそれほどまでの高評価だったが、後に本人曰く[いつ?][どこ?]、この合格以前にいくつものオーディションで落選していた、とのこと。そしておニャン子クラブ会員番号36番としてデビュー。デビュー早々より人気を得て、中期から後期にかけてのおニャン子クラブの主力メンバーとなった。また、とんねるず(と秋元康)にかわいがられ、彼らの妹分的な位置づけとなった。おニャン子クラブ時代は同じ渡辺姓の渡辺美奈代とともに「W渡辺」「ワタナベズ」と呼ばれた。おニャン子クラブ在籍中の1986年10月に発売されたソロデビュー曲「深呼吸して」は、当時のオリコン初登場1位最年少記録(15歳11ヶ月)であり、2001年3月27日、当時モーニング娘だった後藤真希のデビュー曲「愛のバカやろう」(15歳6ヶ月)まで、約15年間この記録は破られなかった。おニャン子クラブ解散後も歌手としてアイドル番組やバラエティーなどに出演。当初はアイドルとして、事務所の意向に沿った衣装や楽曲で出演していたが、途中から独自の路線で曲や衣装なども変わっていき、渋谷系の代表格であったフリッパーズ・ギターの楽曲を歌うなど、他のアイドルとはまったく別の方向性で歌手活動を展開する。その後、とんねるずと秋元康の縁から『とんねるずのみなさんのおかげです』にレギュラー出演、お笑いの資質も見出され芸歴に幅が拡がり、後の司会業をはじめとする様々な番組の出演への道が開けた。その頃(1989年頃)から本人の意向により、おニャン子メンバーであったことを積極的に表に出さないようにもなる。その後、バラエティ番組において、タモリ、ビートたけし、みのもんた、とんねるず、古舘伊知郎といった強烈な個性の持ち主たちと堂々と渡り合う。2000年代からはファッション、旅行、健康など彼女の趣味・経験による書籍を多く出版している。特に台湾通として知られており、台湾政府観光局のイメージキャラクターにも選ばれた。また、現在はピラティス・メソッド(これに関しても著書『ピラティス道』を上梓、後にDVDも発売)の実践でシャープな体型を維持している。2005年4月5日、テレビ朝日の番組『銭形金太郎』で、共演している名倉との結婚を発表した。2005年5月5日に婚姻届を提出し、10月23日に東京プリンスホテルにて披露宴を行った。結婚、出産後は、2008年から雑誌『LEE』における手芸に関する連載、2009年よりオーガニック綿を用いた子供服中心のブランド「gris-gris」の立ち上げなどの活動も行っている。 またホメオパシーにも傾倒するようになっており、ホメオパシージャパンの由井寅子の講演に参加するなどしている。現在2児の母親である。)、村上睦子(元女子日本代表のバスケットボール選手;現在姓は岩屋。星城高等学校卒業後、1989年にシャンソンVマジックに入団。身長165cmと小柄ながら多くの試合に出場、ポイントガードとして活躍し、シャンソンのWリーグ10連覇に貢献。新人賞、MVP、ベスト5など多数受賞。1996年のアトランタオリンピックに日本代表として出場。2000年に引退。)、的山哲也(元近鉄→オリックス→ソフトバンクのプロ野球選手;現在は福岡ソフトバンクホークス1軍バッテリーコーチ。打撃成績は芳しくないが、豊富な経験に裏打ちされたリードと盗塁阻止率は常にトップクラスという球界屈指の強肩が特徴の典型的な守備型捕手であった。打撃については近鉄時代、当時監督の梨田昌孝(現在日本ハムファイターズ監督)が「アイツのバットには芯がない」と発言した事があり、ファンやマスコミからも「(打率が)自らの身長(あるいは体重)との勝負」、「どこかの市外局番か?(1割を切った時の打率の表示が市外局番の番号のように見える、との趣旨)」、「ヒットが出るんなら左(打ち)でやってもいい(的山は右打者)」という冗談で揶揄され、本人も「1試合2安打はレアです」と言う程で、実際に優れていると言える程の打撃成績を残した事がない。しかし、選球眼は健在で印象に残る本塁打を放つこともあり、その意外性が特徴とも言える打撃は「ビックリ箱」と称される。 人物として野球を始めた小学生時代から捕手を務めていたが、ある日の試合で正捕手の目にゴミが入ったことから交代した結果、正捕手より上手いと絶賛された。正捕手はその後、野球を辞めてしまったという。 通訳が必要無い位英会話が堪能のため、近鉄時代からパウエルやケビン・バーン、オリックスでもトム・デイビー、ランス・カーターなどの外国人投手とバッテリーを組むことが多かった。ホークス移籍後も、パウエルの初登板の際にバッテリーを組んだ。 生まれつき右耳に難聴の既往がある。ほとんど聞こえないが、健常な左耳で音を聞き取る訓練を積み現在に至る。しかし、他者が何か言っても聞こえないことがあり、監督やコーチが声で指示しても聞き逃したり、打者に無視されたと誤解されて乱闘になったこともあった。現役で一番印象に残っている投手は赤堀元之。「真っすぐも、スライダーも、口では説明するのは難しいんですけど、本当に素晴らしかった。だからあれだけ何度もセーブ王を取れるんだと思いましたね」と語っている。)、吉田篤史(元ロッテ→阪神のプロ野球選手;現在は横浜ベイスターズ投手コーチ;出生地は東京都豊島区。小学校時代に新潟市に移住した。日本文理高校卒業後、ヤマハに入社。2年目の1990年には都市対抗野球大会で優勝に貢献、胴上げ投手となり、橋戸賞、若獅子賞を獲得した。翌1991年もチームを都市対抗本大会に導く活躍が認められ、複数のプロ球団から注目を集めた。同年オフ、ドラフト1位でロッテの指名を受け、プロ入りした。尚、吉田の1位指名は、新潟県出身・在住且つ新潟県内の高校出身者としては史上初のことだった。)、藤井猛(将棋棋士;現在九段で西村一義九段門下。「猛」という名前はボクシング元世界チャンピオンの藤猛から来ている。棋風として従来から四間飛車を得意戦法としていたが、革新的な四間飛車戦法である「藤井システム」の創始者でもある。自玉の囲いを省略して序盤から攻撃的な布陣を敷き、居飛車穴熊や左美濃を攻略するこの戦法は、将棋界の振り飛車戦法に革命をもたらすのみならず、将棋の序盤戦略そのものに大きな影響を与えた。このことが評価され、1996年度将棋大賞の升田幸三賞を受賞した。終盤、大胆に大駒を切り、露骨に相手玉に喰らい付く棋風から「ガジガジ流」というニックネームがついている。また居飛車穴熊や左美濃に対して先攻することを主体としているため、居飛車感覚の振り飛車ともいわれる。四間飛車の使い手である自らを鰻屋に例え「こちとら鰻しか出さない鰻屋だからファミレス(オールラウンダー)の鰻に負けるわけにはいかない」と語ったことがある。ところが2007年2月5日の北浜健介との対局でとうとう「ゴキゲン中飛車」を指し、若手棋士たちを驚愕(失望?)させた。本人は勝又清和のインタビューに「もう鰻屋だけじゃやってけない。これからは多角経営ですよ」とコメント、そして翌年の2008年からは研究会や公式戦で居飛車の矢倉を多く指すようになった。さらにその後、将棋世界2009年9月号の中で「僕はもう(藤井システムからは)引退しました」と、藤井システムを捨てたと取れる発言をしている。2008年の中頃から居飛車の矢倉を指すようになり、周囲を驚かせた。本人は将棋世界2008年12月号の中で「そろそろ、色々指してみようと思ったが、相振り飛車の経験が一番生きやすい戦型が矢倉だった。」と答えている。従来の矢倉とは異なる、早囲いから先行を目指そうとする積極的な指し回しは、その年度に森内俊之や佐藤康光も対局で採用するなど、早くも他の有力棋士に影響を与えた。2009年3月に「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際には「今年度は新しいことに挑戦できたという点で満足できる1年であった」との旨を語った。 好きな食べ物はうどん。嫌いな食べ物は納豆と梅干し。筋違い角戦法に対しては90%勝てると公言している。1998年、谷川浩司との竜王戦を戦ったのは、NHK将棋講座で藤井システムの講座の講師を務めた直後のことである。番組中、アシスタントの高橋和からエールを受けた。さらに、当時「囲碁・将棋ジャーナル」に出演した際には、司会者であり藤井と同門(西村門下)の山田久美から、カニの絵が描かれた扇子が贈呈された(谷川はカニが苦手(食物アレルギー)であることから)。 21期竜王戦では「絶品チーズバーガー」や「かっぱ寿司」などユニークな発言が話題になった。 2005年前後から、終盤での逆転で負けることが多くなった。2006年のA級順位戦対羽生戦では、途中まで必勝と言われた将棋を悪手の連発でまさかの大逆転負けを喫した。その終局時において、藤井は台上の駒を文字通り盤の上に投げて投了の意を示した。藤井自身、この敗局を生涯最悪の逆転負けであるとの旨を語っている。)、INORAN(LUNA SEAのG;本名:井上清信。神奈川県秦野市出身。神奈川県立大秦野高等学校出身。身長170cm。左利き。愛称は イノ。他に先生などで呼ばれることもある。自らのファンクラブ「NO NAME?(ノー・ネーム)」を持つ。中学時代にJと出会い、LUNA SEAの原型となるLUNACYを結成し、活動をスタートさせた(LUNA SEAのメンバーSUGIZOも同じ中学校に通っていたが、学年が異なっており(SUGIZOが1歳年長)、また、マンモス校だったために気付かなかったという)。中学時代に憧れだったギタリストは瀧川一郎で、デビュー後には交流もうまれた。LUNA SEA時代はリズムギターを主に担当。作曲も手がけ、カップリングの曲にINORAN原曲のものが多い。クリーンなアルペジオに定評がある。左利きであるが、ギターを弾き始めた当時、左利き用のギターは少なく、値段も高かったため、右手でギターを弾き始めた。後にMonophonicにて、左利き用のギターを使用してみたがまったく弾けなかったと語っている。 LUNA SEA時代には一曲だけギターソロを披露しており、音源化されていない「もう死んだ振りさせない」(この当時はLUNACY)という曲である。車はフェラーリを好み、F1好きでもある。1998年日本GPのスペシャルゲストとして招かれたことがあり、観戦のために海外まで足を伸ばすことも多い。ヘビースモーカーである。 2009年頃ESPとの契約を解消したためシグネチャ・モデルのレスポールを持つことが無くなり、以降ストラト弾きギタリストになった。 )、・・・つづく