使徒言行録19章11~20節。本日の個所で特徴的なのは、パウロの伝道にも驚くべきしるしが伴ったということである。一一節以下はこう伝えている。「神はパウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気は癒され、悪霊どもも出て行くほどであった」。いったいこれはどういうことだろう。「手ぬぐいや前掛け」までが神聖な力を帯びていたというのである。こういう例は、ほかにあまり見られない。福音書にイエスの衣に触れていやされたという女の例があるだけである(マルコ5・27)。服や身の回り品にも聖者の不思議な力が宿るという、素朴な民間信心の表現がそのままイエスと初代教会の言い伝えの中に入り込んでいたということだろうか。使徒言行録の著者はあまり修正を加えないで残したということであるにちがいない。いずれにしても、「神はパウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」という表現がここでは重要である。得体の知れない非人格的な力ではなくて、神の力がこのような不思議な業を引き起こしていたのである。
ところで、本日の個所では奇妙なことが起こっている。本日はここにとくに注目したい。パウロを通して目覚ましい奇跡が行われたために、このすばらしい力を我がものにしようとする人々がここに登場してくるのである。それは、「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」、とくに「ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たち」であったと記されている。彼らは、パウロの活躍を見てこれはいけると思ったのであろう。パウロという男はイエスの名を唱えて多くの人をいやしたり悪霊を追い出したりしている。ここはひとつ、自分たちもイエスの名を借りて加持祈祷の生業に利用してみよう。そう考えたということである。
この人々はユダヤ教のまともな道から外れて、職業的祈祷師として商売をしていた人々である。人の不幸や弱みにつけ込んで、金銭を荒稼ぎしていたと思われる。そして自分たちの金儲けにイエスの御名を利用しようとしたのである。ところがである。そうは問屋がおろさないということが起こるのである。スケワの息子たちがイエスの名を借りて悪霊払いをしようとすると、悪霊は退散するどころか、暴れ回り、祈祷師たちに飛びかかってひどい目に遭わせたというのである。「彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」と書いてある。祈祷師たちの思惑は完全にはずれて、とんでもないことになってしまったのである。
この出来事は何を意味しているのだろうか。これはイエスの御名は正しい目的で用いられなければ天の怒りを引き起こすということである。イエスの名によってなされた数々の奇跡は人々を信仰に導くためのもので、そのことと無関係に幸福の切り売りとして利用されてはならないということである。従って、民間祈祷師によって営利目的で用いられることを神は断じてお許しにならなかったのである。そのことをよくわきまえるように、本日の箇所は語っているのではないだろうか。
そして、この出来事がもたらした影響が次のところで述べられている。まず第一に、17節のところを見ると、「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」と言われている。この「恐れ」というのは、ふつうの恐れではない。神の聖なる臨在に気付いた人の恐れである。そういう人は、高慢や野心が打ち砕かれて、神の前に低くひれ伏すのである。また、勝手な自己主張を止めて、ひたすら神に従おうとするのである。へりくだって神の言葉を聞こうとし始める。こういう姿勢が教会にはいちばん大切なのではないだろうか。
そして、この神への恐れが本物であったことが18節以下ではっきりしてくる。すなわち、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた」と書いてある。あの祈祷師たちの末路を見て、神の聖なる臨在に触れた人々は、これまでしてきた悪事が心の中で暴かれて、罪を告白し始めるのである。この「はっきり告白した」というのは、「自分たちの数々の悪事を認め、打ち明け始めた」という意味である。自分たちの恥ずかしい過去を語り出したのだ。ここには、秘められた過去の罪深い生活から決別したいとの、はっきりした決意がうかがえるのである。
ここに真実のキリスト者の姿がある。キリスト者というのは罪なき聖人だろうか。世間にはそんなイメージがある。そんなふうに見えるとしたら、是非訂正されねばならないと思う。神の前にへりくだって、自分の罪を認めて、その都度赦されて生きるのがクリスチャンなのである。マルティン・ルターは宗教改革の発端となった「九五箇条の提題」で、まず一番始めに、「われらの主であり、また師であるイエス・キリストは『なんじら悔い改めよ』と言いたもう。ゆえにキリストはこの言葉によって、キリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことを欲したもう」という提題を掲げている。これが根本だからであろう。キリスト者であるとは罪がない者のことを言うのではなくて、神の前で本気で悔い改めることを知っている者のことなのである。このことを18節の言葉から学び取りたいと思う。
また、この悔い改めが真実であったことは、彼らの中で魔術を行っていた者たちが魔術の書物をもってきて、皆の前で焼き捨てたという点に表れている。山谷省吾先生の「新約聖書小辞典」によると、魔術というのは「人間的工夫により、超自然的な力を利用して、不思議なことを行うこと」だと説明されている。適切だと思う。その意味では、先ほど述べた口寄せや呪いなどと同じく、神の領域を侵犯する行為だと言える。またイエスの御名を利用して悪霊を追い出そうとした試みとも通じている。とんでもないことと言える。
ここで罪を告白し悔い改めた人々は、大事にしていた魔術の本を全部焼き捨てて、生活の刷新を誓ったのである。そして、その本の総額は銀貨五万枚にもなったと記されている。銀貨五万枚とはいったいどのくらいの金額であろうか。当時の読者にはおおよその見当はついたことであろう。当時、ギリシアの銀貨ドラクメもローマの銀貨デナリオンも、だいたい為替相場は同じであった。一ドラクメまたは一デナリオンは労働者一日分の賃銀に相当したと言う。だから、銀貨五万枚とは五万人分の労働賃銀に等しいということになる。今なら、どのくらいになりそうか。興味のある方は計算してみていただきたい。仮に一日の労賃が千円だとしても、五千万円である。そんな高価なものを惜しげもなく焼却しているところに彼らの真剣さがうかがえるのである。他人に譲渡するのでもなく売却するのでもないのである。もうこんなものは世に存在する価値がないと言って焼き払ったのである。こういう徹底した生活の刷新が起こるとき、主イエスの御名は最高度に崇められるのではないだろうか。
私たちも、日々の悔い改めと生活の刷新をとおして、主イエスの御名がますます崇められるようにしたい。そして、日々信仰生活の喜びを新たにしていきたいと思う。
ところで、本日の個所では奇妙なことが起こっている。本日はここにとくに注目したい。パウロを通して目覚ましい奇跡が行われたために、このすばらしい力を我がものにしようとする人々がここに登場してくるのである。それは、「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」、とくに「ユダヤ人の祭司長スケワという人の七人の息子たち」であったと記されている。彼らは、パウロの活躍を見てこれはいけると思ったのであろう。パウロという男はイエスの名を唱えて多くの人をいやしたり悪霊を追い出したりしている。ここはひとつ、自分たちもイエスの名を借りて加持祈祷の生業に利用してみよう。そう考えたということである。
この人々はユダヤ教のまともな道から外れて、職業的祈祷師として商売をしていた人々である。人の不幸や弱みにつけ込んで、金銭を荒稼ぎしていたと思われる。そして自分たちの金儲けにイエスの御名を利用しようとしたのである。ところがである。そうは問屋がおろさないということが起こるのである。スケワの息子たちがイエスの名を借りて悪霊払いをしようとすると、悪霊は退散するどころか、暴れ回り、祈祷師たちに飛びかかってひどい目に遭わせたというのである。「彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」と書いてある。祈祷師たちの思惑は完全にはずれて、とんでもないことになってしまったのである。
この出来事は何を意味しているのだろうか。これはイエスの御名は正しい目的で用いられなければ天の怒りを引き起こすということである。イエスの名によってなされた数々の奇跡は人々を信仰に導くためのもので、そのことと無関係に幸福の切り売りとして利用されてはならないということである。従って、民間祈祷師によって営利目的で用いられることを神は断じてお許しにならなかったのである。そのことをよくわきまえるように、本日の箇所は語っているのではないだろうか。
そして、この出来事がもたらした影響が次のところで述べられている。まず第一に、17節のところを見ると、「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡ったので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになった」と言われている。この「恐れ」というのは、ふつうの恐れではない。神の聖なる臨在に気付いた人の恐れである。そういう人は、高慢や野心が打ち砕かれて、神の前に低くひれ伏すのである。また、勝手な自己主張を止めて、ひたすら神に従おうとするのである。へりくだって神の言葉を聞こうとし始める。こういう姿勢が教会にはいちばん大切なのではないだろうか。
そして、この神への恐れが本物であったことが18節以下ではっきりしてくる。すなわち、「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた」と書いてある。あの祈祷師たちの末路を見て、神の聖なる臨在に触れた人々は、これまでしてきた悪事が心の中で暴かれて、罪を告白し始めるのである。この「はっきり告白した」というのは、「自分たちの数々の悪事を認め、打ち明け始めた」という意味である。自分たちの恥ずかしい過去を語り出したのだ。ここには、秘められた過去の罪深い生活から決別したいとの、はっきりした決意がうかがえるのである。
ここに真実のキリスト者の姿がある。キリスト者というのは罪なき聖人だろうか。世間にはそんなイメージがある。そんなふうに見えるとしたら、是非訂正されねばならないと思う。神の前にへりくだって、自分の罪を認めて、その都度赦されて生きるのがクリスチャンなのである。マルティン・ルターは宗教改革の発端となった「九五箇条の提題」で、まず一番始めに、「われらの主であり、また師であるイエス・キリストは『なんじら悔い改めよ』と言いたもう。ゆえにキリストはこの言葉によって、キリスト者の全生涯が悔い改めであるべきことを欲したもう」という提題を掲げている。これが根本だからであろう。キリスト者であるとは罪がない者のことを言うのではなくて、神の前で本気で悔い改めることを知っている者のことなのである。このことを18節の言葉から学び取りたいと思う。
また、この悔い改めが真実であったことは、彼らの中で魔術を行っていた者たちが魔術の書物をもってきて、皆の前で焼き捨てたという点に表れている。山谷省吾先生の「新約聖書小辞典」によると、魔術というのは「人間的工夫により、超自然的な力を利用して、不思議なことを行うこと」だと説明されている。適切だと思う。その意味では、先ほど述べた口寄せや呪いなどと同じく、神の領域を侵犯する行為だと言える。またイエスの御名を利用して悪霊を追い出そうとした試みとも通じている。とんでもないことと言える。
ここで罪を告白し悔い改めた人々は、大事にしていた魔術の本を全部焼き捨てて、生活の刷新を誓ったのである。そして、その本の総額は銀貨五万枚にもなったと記されている。銀貨五万枚とはいったいどのくらいの金額であろうか。当時の読者にはおおよその見当はついたことであろう。当時、ギリシアの銀貨ドラクメもローマの銀貨デナリオンも、だいたい為替相場は同じであった。一ドラクメまたは一デナリオンは労働者一日分の賃銀に相当したと言う。だから、銀貨五万枚とは五万人分の労働賃銀に等しいということになる。今なら、どのくらいになりそうか。興味のある方は計算してみていただきたい。仮に一日の労賃が千円だとしても、五千万円である。そんな高価なものを惜しげもなく焼却しているところに彼らの真剣さがうかがえるのである。他人に譲渡するのでもなく売却するのでもないのである。もうこんなものは世に存在する価値がないと言って焼き払ったのである。こういう徹底した生活の刷新が起こるとき、主イエスの御名は最高度に崇められるのではないだろうか。
私たちも、日々の悔い改めと生活の刷新をとおして、主イエスの御名がますます崇められるようにしたい。そして、日々信仰生活の喜びを新たにしていきたいと思う。
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