使徒言行録2章14~36節。ペンテコステの日に行われたペトロの説教がここに収録されている。このなかで、我々は次の言葉に注目してみよう。「このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです」(23~24節)。
何というすごい神の御計画であろうか。十字架と復活の出来事は、救いの出来事であると同時に、複雑怪奇な歴史や人生の秘密を解き明かす鍵になる。 . . . 本文を読む
使徒言行録2章1~12節。この個所は弟子たちの群れに聖霊が降って伝道する教会が誕生したことを告げている。そして、旧約聖書との関連では、バベルの呪いが解けた日だとも言うことができる。創世記11章のバベルの塔の話では、人類は神に逆らう高慢な態度のゆえに、言葉が乱され、一致団結できないようにされた。それが、今やその異なる言語が祝福されて、唯一の主なるキリストを証しするものとされているのである。 . . . 本文を読む
マタイによる福音書28章16~20節。マタイで最後に弟子たちに語りかけられたイエスの言葉は、こうであった。「わたしは天と地のいっさいの権威を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えよ」(18~20節前半)。これはよく大伝道命令と呼ばれるイエスの言葉である。復活のイエスはこの言葉を残して昇天され、弟子たちはこの言葉に従って伝道に出ていった。教会の歴史の中でも、この言葉はまだ福音が届いていない未開の地への伝道に、人々の意欲を駆り立ててきた。
. . . 本文を読む
ルカによる福音書7章1~10節。ここに見られるのは、百人隊長の謙虚さとイエスに対する全幅の信頼である。彼は自分の過去の功績にはまったく言及していない。ただひたすら信じるのである。イエスならば自分の僕をいやすことがおできになる。一言お言葉をいただければ、それで十分だ。自分が部下に告げる命令でさえ、いつもその通りになるのだから、イエスの言葉はなおさら大きな効果をもたらすだろう。そして、この言葉を聞いたとき、イエスは「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と賞賛し、百人隊長の願いを聞かれたと言われているのである。 . . . 本文を読む
ヨハネによる福音書15章12~17節。ここでよく考えなくてはいけないのは、愛が命令として述べられているということである。本日の個所では、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」という言葉と、「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」という言葉が全体の枠をなしている。でも、愛とは命じられてなすものであろうか。私たちがふつうに愛だと思っているものは、人から命令されなくても自然に沸き上がってくるものである。私たちは自分が好ましいと思う人を好み、相性が良いと思う人を愛しているのである。そして、そういう心地よい交わりを愛だと思っているのである。
しかし、主イエスはそういう愛を考えているのであろうか。 . . . 本文を読む
ヨハネによる福音書6章34~40節。この箇所で主イエスはたいへん重要なことを語っておられる。それは驚くべき約束である。イエスという命のパンを食べる人は、地上の限りある人生が終わっても、なおも命の希望をもつことができるというのだ。そして、終わりの日に復活させられるというのだ。なぜなら、地上の肉の糧は死の力を打ち負かすことまではできないが、イエスという命の糧は、それを食べる人の中で永遠の命の源となり、肉体の死というしばしの中断を乗り越えて、その人を終わりの日に復活させるからである。そして、このことこそ父なる神がもっとも望んでおられることだとイエスは語っている。
. . . 本文を読む
ルカによる福音書24章36~43節。復活のイエスは最後にエルサレムの隠れ家にいる11人の弟子たちに姿を現す。ここでルカは復活のイエスが単なる霊ではなくて、正真正銘の体をもっていたということを明らかにしようとしている。復活の主は我々の心の持ち方の中に解消できない客観的実在であり、いつも我々の外側にあって、向こうから我々に近づき、我々の信仰を支えていてくれるお方なのだということをこの箇所は述べている。
. . . 本文を読む
ルカによる福音書24章13~35節。この記事の特徴は、二人の弟子が復活のイエスに出会うに際して、二つの事柄が重要な役割を演じている点にある。二つの事柄とは、一つは聖書の解き明かしであり、もう一つは食卓の交わりである。この二つのことを媒介にして、二人の弟子は復活のイエスとの出会いにまで導かれるのである。すぐにイエスだと分かるのではない。はじめは、目が遮られてイエスであることに気付かなかった。
. . . 本文を読む
ヨハネによる福音書20章1~18節。本日の復活記事を見ると、今日の我々が主の復活の確信を保つためのヒントが、二つほど与えられているように思う。復活のイエスは決して遠い存在ではない。2000年の昔にも増して、私たちに近くおられる。イエスを探し求める私たちを、聖霊が確実にイエスに結びつけてくださる。このことを覚えて、私たちはイースターを迎えた今日心からから喜ぼう。
. . . 本文を読む
ルカによる福音書二二章三九~五三節。イエスは十字架にかけられる前、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られた。この「杯」という言葉は、聖書では比喩的に地上における人間の運命を指している。それはよい運命、幸運を指すこともあるが(詩編二三・五)、悪い運命、神の審きとか怒りを指す場合もある(イザヤ五一・一七)。
ここでイエスが飲まねばならない「杯」とは、喜ばしい杯ではなくて、神の審きの杯であることは明らかだ。 . . . 本文を読む